第110話 姉

 穏やかな表情で空さんが口にしているアールグレイの落ち着いた癒しの香りが僕の鼻をくすぐる。


 ダージリンと共に姉が好きだった香りだ。当時高校二年生の僕は紅茶をれるのが得意で、僕が紅茶をれると姉だけでなく父も母も手を休めて束の間のティータイムを楽しんでいた。姉が、死ぬまでは。僕のせいで死ぬまでは。それに思い至った時、僕の心臓は万力か何かに締め付けられたように痛く苦しくなり、首筋から突然冷や汗が噴き始める。叫びだしたくなる衝動に駆られる。


「どうしたの?」


 僕の異変に気付いたらしい空さんが心配そうな顔で僕を見つめると、僕の周囲を取り囲む世界は暗がりに包まれ歪み変形していく。こんなことは初めてだ。なんだこれは。これはフラッシュバックなんてものじゃない。まるで幻影だ。


 すると喫茶店はゆっくりと七年前のあのマンションに変貌していった。ただ、日没直前のとばりに包まれているかのような薄暗さだ。ローテーブルをはさんで誰かがうつむいて座っている。目の前にアールグレイが注がれたティーカップが置かれていて、その女性はうつむいていたがすぐに誰だかわかった。顔が見えなくたって見間違えるはずなんてない。それは間違いなく姉だった。


 僕は全身が粟立つ。一体どうすればいい。僕はこの身をもって詫びるしかないと思った。ここで僕が償いをする。姉を死に追いやった償いをする。それしかない。ここは地上十階。背後には窓の空いたベランダ。そこから血生臭く生ぬるい湿ったそよ風が入ってきてカーテンをかすかに揺らしている。きっと外は何の星明りも月明かりも街明かりすらないのだろう。ここは死者の国だ。僕が本来いるべき場所じゃない。では姉が僕をここまで運んできたのか。その理由も明白なように僕には思えた。


 姉は、僕に死ねと。


「姉さん……」


 姉は瞳を閉じたまま面を上げる。何の感情もない表情だった。額から一筋の血が流れあごまで伝い落ちて床にしたたる。姉はゆっくり目を開いた。大きく見開かれたその眼は、真っ黒い空洞だった。


「姉さんっ!」


 僕は絶叫した。


「ア…… ヒ…… ロ、ク……ン」


 しわだらけの唇が開きしゃがれ声が発せられる。僕の恐怖は最高潮に達した。


「姉さん! 姉さん! ごめんなさい姉さんごめんなさいっ! 僕のせいでっ! 僕が馬鹿だったからっ! 本当にごめんなさいっ! 僕ここでその罪を償うからっ! 僕も一緒にそこに逝くからっ! だから許してっ! 姉さんっ!」


「オォ…… ヒロ、クン……」


 すると少し遠いところから声がした。


「だめっ! だめよひろ君だめっ! あなたは生きるの! 逝っちゃだめ!」


 まさか空さんだろうか。でも僕の幻影の中にまで入ってくるなんて、そんなことがあり得るのだろうか。



【次回】

第111話 悪霊

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