第86話 裕樹の告白。惨劇
僕は唇を噛む。
「誰でも知っている一流企業でした。ですがそこは過酷過ぎるノルマと過重労働を強いる、典型的なブラック企業だったんです。しかもパワハラも激しかったようで、姉は見る間に精神の均衡を崩していきました」
ちらりと空さんの方を見る。空さんは缶コーヒーを両手に持って真剣に何か考えるような様子だった。
「姉の異常に気付いた僕は、姉にも両親にもなんとかするように、最善の方法としては退職するように言い続けました。医大志望だった僕は心理や精神病理の本とかも色々読んで勉強して、姉にもできる限りの助言、主に退職を訴え続けました」
あの頃は、姉本人も両親も事態を重視していなかった。そのもどかしさを思い出す。あの時姉が転職していればあるいは。
「結局姉に明らかな変調が起き始めて両親も姉を本格的に心配し始めた頃、それでも姉は退職を考えてはくれませんでした。結局僕が泣いて拝み倒すようにしてようやく姉は退職してくれたのですが……」
僕は一呼吸置く。空さんは静かに聞いている。
「もう重度のうつ状態でした。姉は強く死にたがるようになっていました」
また空さんを盗み見る。今度は真剣を通り越してどこか深刻な横顔だった。僕は続ける。
「そんな姉を入院させるべきだと思いましたが、なぜか主治医の判断は違いました。僕たちは姉をうちのマンションから出さずに必ず誰かがそばについていることにしました。ある春の気持ちの良い陽気の日曜日でした。父は仕事に、母は買い物に出ていたので、僕が姉のいるリビングで勉強をしながら目を離さずにしていました」
僕は息を大きく吸い込む。固く目を閉じる。だがそうしてもあの日あの時の情景がまぶたに浮かび、胃と心臓が押し潰されそうな気分になるだけだった。
「僕は参考書を取りに自分の部屋に行きました。ところがそれが思った場所になく、探し回って三、四分ほど経った頃でしょうか――大きな破裂音とも衝突音ともつかない音が聞こえました」
缶コーヒーを握り締めた空さんは唇を噛んで足元の一点を見つめていた。
「最初はどこか近くで交通事故でもあったのかと思いました。全然そんな音じゃないのに。急いでリビングに戻ると姉がいません。窓が開いていてカーテンがはためいて気持ちの良い春風が入り込んでいました。春風に乗って子供たちがはしゃぐ声も聞こえてきます。ですがさっきまで窓は開いていませんでした」
僕は悔しさの余り泣き叫びそうになった。
「そしてそこはマンションの10階でした」
僕は軽く鼻をすする。
「僕は、僕は、見てはいけないと判っていても、ベランダから下をのぞき込みました。そこには、姉、が…… 姉が……っ 姉のっ……」
「もういいの、もういいのっ、ねっ、ひろ君もういいから」
空さんが涙声で膝の上に置いた僕の手を掴む。空さんが握っていた缶コーヒーが地面に落ち転がる音がして中身が溢れる。僕も空さんのように涙声になる。
【次回】
第87話 裕樹の告白。似た者同士
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