第82話 夢うつつ、男と女

 うつらうつらと現実と夢の区別がつかない眠りの中、一組の男女がぼそぼそと話しているのが聞こえる。僕は意識もうろうとしたままうっすらと目を開けた。そこには姉さんともう一人見たことのない男性がいた。


 姉さんは簡易補助ベッドに座って僕の方を向いていて、男は姉さんの方を向いてパイプ椅子に座っていた。男が姉さんに何か説得を試みているようだ。姉さんはそれを無視して僕に気づかわしげな眼を向けている。


「いくらなんでも少しやり過ぎじゃないか。こんなことまでして」


 男は強く責めるような口調で言う。姉さんはそれにかまわず僕の額の髪を指でく。


「お前は俺に何か不満でもあるのか」


 僕はこの男が姉さんを「お前」と呼ぶ態度が気に入らなかった。ひどく気に入らなかった。


「そうね…… 出会ったその瞬間から名前呼びやお前呼ばわりと言うのは正直かなり嫌だったかな」


「そんなことを言う奴は初めてだな。慣れればどうってことないだろう。むしろそう言われて喜ぶ奴の方が多かったがな」


 彼はむしろ非難がましい口調になった。


「そ、じゃあ、そういう女性をお相手になさったら。私は相手するつもりないから」


 男は前のめりになって姉さんに近づく。僕はそのしぐさが気に食わなかった。


「なあ、実は京都の厩舎に呼ばれていてな。一緒に来ないか」


「いや」


 即答だった。姉さんは続ける。


「何も、本当になんにも、わかってないのね。私がここに居続ける理由」


裕樹ひろきか」


 僕はいきなり自分の名前がここで出てきて驚いた。だが姉さんが僕のそばにいたいと言うなら、理屈は通るし悪い気もしなかった。


「はい? そういうのを『下衆の勘繰り』って言うの。私はシエロのそばにいたいしシエロとの日々が私にとって一番大切ものなの」


 姉さんは怒りを含んだ硬質な声で続けた。


「あなたが私のことをそんな風に思っているのは初めて見た時から知ってた。あなたの眼つきで。女ってあなたが思っているよりもずっとよくわかってるのよ。上から下まで舐め回すような視線だったわよね」


 姉さんは冷たいため息をつく。


「それに私、あなたのように自分の虚栄心にばかり目を向けている人は苦手なの、と言うより嫌い」


 男は姉さんを撫でまわすような声で姉さんににじり寄る。


「まあそう言うな。そのうち気に入ると思うぞ」


「残念ね。私は自分本位な予言なんて信じないから」


「どうしてもだめだというのか」


「天地がひっくり返ってもだめね」


「あいつの方がいいって言うんじゃないだろうな」


 姉さんはふふっと笑った。


「彼のことが嫌い?」


「……ああ」


「どうして?」


「あんな女の腐ったような奴」


 姉さんの声に皮肉の色が混じる。


「でも、その『女の腐ったような奴』は一目見た時から私の危機的状況に気づいて、常に見守ってくれていたわ。だから今まで死なずに済んでいられたの。彼がいなかったら、私ここに来て三日以内に二回もお墓の中に入っていた」


「なんだって? 墓の中?」


「ほら、今だって気づいてない。あなただったら『俺についてくるだけでいいんだ』とでも言って、私の死期を早めるだけだったでしょうね。人の痛みに寄り添えないから」


「どういうことだ」


「いいのよ。人には理解できないことだってあるんだから。気にしないで。それにそれだけじゃない。あの時彼は文字通り命を投げ出すかのように身を挺して私をかばった。その時あなたは何をしたの? 私見てたわよ。それが男らしくて自信に満ちたあなたと『女の腐ったような』彼との違い。人は見た目じゃ分からないものね。ね、そう思わない?」


 皮肉たっぷりの彼女の言葉に、彼は無言で恥じ入るような表情になる。長い沈黙が流れる。この男性は一体何をしたって言うんだ?


 そして何かに気づいたのか、この男性は姉さんに重々しく言葉を吐きだす。


「そういうことか。おまえはあいつの事を」


 姉さんは毅然とした声ではっきりと男に宣告した


「ええ、そう。そうよ私――」


 姉さんが何か言い終える前に僕はまた深い眠りに落ちていった。目が覚めた頃には姉さんと男性の出てきた夢はおぼろげな記憶の奥底に沈んでいった。




【次回】

第83話 原沢の怒り

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