第10章 空と原沢

第42話 空の忘れ物

 夏も始まったばかりだというのにもうセミが鳴き始めた。今日はみんなで二番草の牧草ロールを広げる作業をしていた。ロールを広げると青草の香りが作業場いっぱいに広がる。夏の香りだ。


 僕と空さんは一緒にひとつのロールをばらそうとしていた。結束紐に手をかけポケットに手を突っ込んだ空さん。が、何度もゴソゴソとあちこちのポケットをまさぐり心細そうな顔になった。


「空さんどうしました」


 情けない顔をした空さんが小声で僕に言う。


「紐切り忘れちゃった」


 空さんは忘れ物をする事がある。特に何かをしている時や集中している時に忘れ物をすることが多い。これは空さんの病状だけではなく、その性格や気質によるところも大きいのだろう。僕は空さんを傷つけないようさり気なく笑顔で言った。


「じゃあ、これ僕がやってますから、空さん本館の道具室から持って来て下さいね」


「うんっ」


 僕に怒られるとでも思っていたのだろうか。僕の穏やかな言葉に空さんはあからさまにほっとした表情で本館に戻ろうと振り返った。


 そこには腕組みをした渋面じゅうめんの原沢が立ちはだかっていた。


「何やってんすか」


 空さんはその原沢の顔に驚き硬直する。僕はすかさずフォローに入ろうとした。


「ああ、空さんが紐切り忘れたか――」


「こいつに訊いてるんす」


 十は年上の空さんをこいつ呼ばわりする原沢に腹が立った。


「おいっ、『こいつ』とかそういう言い方はないだろうっ」


「じゃあなんて言えばいいんすか? ……昨日は遅刻するし。まるでなってないんすよねえ!」


 と怒声をあげる原沢。何人かのスタッフがそれに気づいてこっちを見る。「またか……」とぼやく声も上がった。


「ほんとしっかりして下さいよ」


 原沢はまだ怒った顔をしてつなぎのポケットから紐切りを取り出し空さんに渡す。空さんはすっかり委縮しおどおどした声で呟くように原沢に礼を言った。


「あの、ありがとう。これからは気をつけます。ごめんなさい」


「ふんっ、ほんとっすよ。周りに迷惑かけるんでもうよして欲しいっすね。それ、使い終わったら本館の道具箱に入れといて下さい」


 事務的な声と冷たい眼で原沢は空さんに言った。



【次回】

第43話 空の言葉に激発する原沢

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