第36話 空の笑顔

 空さんの乗るシエロが常足なみあしのまま左回りでコースを回っているとそれについている大城さんが空さんに声をかける。


「左手を引くんだ。少し。少しでいい。そうそう。手綱たづなも少し引いて。右脚をちょっと後。いいぞ、左はしっかり身体を支えて。よしっじゃあ駈歩かけあしっ」


 大城おおきさんのかけ声に合わせて空さんはシエロに合図を送る。ところがシエロは駈歩かけあしではなく速歩はやあしになってしまった。その速歩はやあしのまま小坂部おさかべさんと僕のいる場所までやってきた空さんとシエロ。大城おおきさんの指示を待つ空さんの表情は真剣だ。大城おおきさんはちらっと僕の方に目をやるとなんだか嫌そうな顔をして僕から目をそむけた。その大城さんが空さんの顔を正面から見る。


「今姿勢崩したな。もう一回だ空」


 僕は大城おおきさんが空さんのことを呼び捨てにしていることが不快だった。原沢が空さんを呼び捨てにするのとはわけが違う。そこには僕としてはあまり考えたくない要因がありそうだった。僕は隣にいる小坂部おさかべさんの横顔を盗み見たが、いつも通りのおだやかな表情を浮かべているだけで、それ以外になんの気配もうかがい知ることはできなかった。


 今度は無事シエロは駈歩かけあしになった。だがそれは一瞬のことで、すぐに駈歩かけあしをやめて速歩はやあしになってしまう。またそのまま速歩はやあしで戻ってきた空さんに大城おおきさんは辛抱強く指導する。


「空、また姿勢が崩れたぞ。駈歩かけあしになっても姿勢を崩しちゃだめだ。身体が結構前後に揺れるだろ。だから姿勢が崩れやすい。でも一瞬でも駈歩かけあしになったってことは、お前は指示をちゃんと出せてる。じゃもう一回」


「はいっ」


 大城おおきさんが空さんのことをお前と呼ぶのも僕には気に入らない。だが空さんはそんなことには気にもとめず顔は真剣そのもので集中している。空さんは毎日毎日新しい表情を僕に見せてくれる。それが僕には嬉しい。だが大城おおきさんについてのもやもやした感覚がさっきから僕の胸をさいなんでいた。


 空さんはまた常足なみあしで左回りに馬を走らせる。手綱たづなを引き右脚を少し後ろに、右足はそのまま支える。その右足で空さんはシエロに合図を送る。ついにシエロは駈歩かけあしで走り出した。空さんは駈歩かけあしの姿勢を崩さぬよう身体を固くして緊張している様子だったが、2周も走るとすっかりリラックスした様子になる。そして空さんは初めて笑っていた。満面の笑みだ。そのはじけるような笑顔が僕にはまぶしかった。自然と僕にも穏やかな笑みがこぼれる。



【次回】

第37話 噂の的

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