第34話 フラッシュバックに苛まれる裕樹
突然僕はありったけの大声で叫んだ。
そうだ。僕にその力がなかったからあんなことになったんだ。全ては僕が無力なせい。その事実に僕は唇を噛む。
「ひろ君?」
「センパイ?」
空さんと原沢が同時に振り向いて同時に僕に声をかける。
「どうしたの? 何かあったの?」
僕は分館の壁に背中を預け板塀を何度も力一杯叩く。
「あーっ! ああっ! だめだっ! だめだーっ!」
駆け寄ってくる空さんと原沢。
「大丈夫?」
「どっ、どうしちゃったんすかセンパイっ!」
「僕がだめな人間だったから! だめだったから僕はっ! 僕はっ!」
片手で眼を覆う。悔し涙がにじむ。
「いやだ! 血が! 溢れて! 詩集が! ブラウニング! 血の匂い!」
「大丈夫っ。落ち着いて。ここには血なんて一滴もないから。それにひろ君はだめじゃないわっ」
「そうっすよ! センパイはだめじゃないっす。 一体どうしちゃったんすか。ここは馬糞と干草の匂いだらけっすよ!」
二人がそれぞれ僕の両腕にしがみ付く。両腕に感じる二人の温もりが僕の心を鎮静化させていく。呼吸も急速に回復し、鼓動も静まる。まだ少し荒い息で僕の痴態を晒したことを詫びる。
「ごめん…… みっともないとこを見せちゃって」
青ざめて不安げな原沢と比べて、空さんは顔色が優れないものの不思議と落ち着いた様子を見せていた。そして僕に向かって今までにないはっきりした口調で口を開く。
「フラッシュバックね……?」
「……はい」
「フラッシュバック?」
空さんと違って原沢には何のことか見当もつかない様子だ。
「過去のつらい出来事を突然何の脈絡もなく思い出して苦しくなってパニックに陥る事よ」
「過去の……つらい出来事……?」
僕にそんな過去があるなんて露も知らない原沢は目を丸くするばかりだ。
「それにしてもこれは相当酷いわね。それだけつらい思いをしたのね」
空さんは別人のようにはっきりとした言葉で話しかける。僕は荒い息を整えつつ平静を装うとした。
「いえ、大したことはありません。もう大丈夫ですから。それとこのことはみんなには黙っていて下さいね、恥ずかしいですから」
おどけたつもりで言った僕の最後の言葉は失敗だったようだ。二人はさっきより深刻な顔で僕を見ている。
「もしかして私とも関係あるの?」
「えっ、どうしてっすか?」
僕はぎくりとした。確かにさっきのフラッシュバックは空さんと全く無関係ではない。それどころか空さんの存在自体が僕の苦悩と直結している。だからこそ僕は空さんの自殺を食い止めようとあれほど必死になったのだ。僕は眼を逸らす。
空さんは僕の手を取った。僕は驚いて空さんを見る。慈愛に満ちた顔だった。初めて見る顔だった。僕はその美しさに吸い込まれた。
「ありがとう。嬉しい。ひろ君は苦しみながらも私のためを考えていてくれたんだ。でもひろ君はもっと自分のお仕事に専念して。その能力を私で浪費しちゃだめ」
「ちょっとどさくさに
原沢が空さんの手を僕から引き剥がした。そして今度は原沢の方から手を握ってきて、心から心配するような眼で訴える。
「あたし、あたしセンパイがそんな辛い思いしてるだなんて知らなかったっす。これからはあんな頼りないやつじゃなくて、あたしに何でも言って下さい聞いて下さい」
僕は原沢の手をできるだけ優しく振り払うと言った。
「ああわかった、その時が来ればそうするかも知れないな……」
それでも二人は心配そうだ。
「大丈夫……?」
不安いっぱいの表情で僕を見つめる空さん。
「ほんと、無理しないで下さいね。センパイ、自分のことにはからっきし無頓着なんすから」
同じく心配そうな表情の原沢。
「いやもういい、大丈夫だ。脅かしてごめん。本当に何でもないから。さ、行こう」
僕は二人を追い抜いて「引退競走馬に乗ろう」の会場に向かった。それでも鼻から血の匂いだけは抜けることがなかった。あの時本当はそんな匂いなんかしてなかったはずなのに。
【次回】
第35話 空とシエロの絆
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます