第7章 フラッシュバック

第33話 予兆

 空さんは無防備で弱々しいほほ笑みを浮かべる。


 空さんはここに来てからまだ二ヶ月もっていない。だがその瞳の奥からは暗いかげが急速に消えつつあった。この間のように崖地で飛び降りるような真似はもうしなさそうだ。だが、空さんの心の奥底に眠る苦悩の塊。それが解消されたわけではない。僕はそれが気がかりだった。これを解消しない限り空さんはまだまだ突発的に何をするか判らない。


 僕と親し気に話す空さんを見た途端、原沢の眼がつり上がる。


「さっ帰りましょセンパイっ、午後からもやることいっぱいあるんすからねっ」


「ああ、そうだった、午後は確か空さんと『引退競走馬に乗ろう』の当番でしたね」


 僕がそう言うと空さんも淡々とたった一言だけ答える。


「そうね」


 が、その一言が僕には心地いい。


「午後誰かとちょっとだけ交代して一鞍だけでも練習しましょう」


「でもそんな悪い。大城おおきさんに教わってるから大丈夫」


 空さんは困ったような顔をして僕の提案を断る。


「そうっすよセンパイ。無理して妙な対抗意識燃やさないでここは大城おおきさんに任せたらいいんすよ」


「私のことで手をわずらわせるのはよくないから」


「ううう、しかしだな……」


「ごめんなさい。気持ちはとっても嬉しいけれど、私これ以上ひろ君の足手まといになりたくない」


 空さんの表情には不安と決意の両方が見て取れた。そうか、空さんは自分自身の判断で何かを決めたんだな。ならばその意思は尊重しなくてはいけないと僕は思った。


「判りました。でも無理はしないで下さい。何か困ったことがあったら必ず言って下さい。僕はいつだって空さんの味方ですから」


 突然機嫌の悪い顔になった原沢を気にしながら空さんは控え目なほほ笑みを見せる。


「うん、ありがと……」


 そうして僕は原沢の眼をやけに気にする空さんと空さんに不機嫌な眼を向ける原沢の2人を前に歩かせ、どこか微妙な雰囲気のまま作業棟へ向かった。背後からは大城おおきさんの突き刺さるような視線を感じながら。


 僕は1人遅れて歩きながらふと思う。僕に能力がないから、僕に力がないから空さんに何もしてあげられないのか。乗馬を教えるのが下手だから「間違い」と言われてやめさせられる。そんな無能だからあの女性ひとだって救えなかったんだ。


 僕の目の前に薄暗いリビングが浮かび上がる。冷めたアールグレイ。しおりを挟んだブラウニングの詩集。そして彼方から漂ってくる血の匂い。



【次回】

第34話 フラッシュバックに苛まれる裕樹

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