第6章 乗馬訓練・ささやかな嫉心と焦り

第27話 練習場のシエロ

 今日の午前中の空き時間。僕がシエロの馬房ばぼうに行くと案の定空さんは空っぽの馬房ばぼうの前で途方に暮れていた。僕に気付いた空さんはあからさまに不安気な顔だ。


「シエロいない……」


「今日はちょっとやることがあったんですよ。見に行ってみます?」


 空さんは強くうなずいた。


 空さんをまだ連れて行ったことのない馬術競技場に連れて行く。そこでは鞍上あんじょうに騎手を乗せたシエロが居住まい正しく立っていた。シエロは空さんと出会って以降急速に気質が温和になっていった。低い姿勢になって強引に速く走ろうとすることも格段に減っている。そこで今なら馬術競技に向けての調教も可能ではないか、そう考えたムネさんは馬術乗馬部門リーダーの小坂部さんにシエロを託したのだ。


「あ、シエロ」


 空さんがかすかな声をあげると、それに気付いたのか集中した様子のシエロが一気におかしくなる。空さんの方に顔が向きそこに行きたがる。騎手が指示をしても言うことを聞かず、いなないて抵抗する。この突然の変化に騎手も周りの人々も困惑した。するとシエロはうなって一目散に空さんに向かって速歩で歩みを進めようとする。手綱たづなを持った騎手も諦めてそこまでシエロを連れて行かざるをえなかった。空さんはシエロの顔を撫で、シエロは空さんを気遣うように鼻を鳴らす。


「ごめんね、今日はなんにもないの」


「やれやれ、彼女が今度来た謎の新人ちゃん?」


 詰所からやってきた40歳前半のスタッフがこの様子を見て笑いながら言う。この人が小坂部おさかべさんだ。温厚な人柄で面倒見も良く僕も幾度となく助けてもらっている。一方でシエロに乗っていた30歳くらいの騎手はさっきからずっと空さんに目を奪われたかのように凝視していた。僕はその彼の視線に胸がもやもやするものを感じながら小坂部おさかべさんに答えた。


「いや、謎ってほどでもないですが……」


「いやいや、充分謎だよ。あんなにひ弱そうに見えるど素人なのにふらっと現れるとあのシエロを一瞬で手懐てなずけ、簑島みのしまさんの庇護ひごのもと3日後にはもう雇われた。しかも簑島みのしまさんとシエロ以外には全く心を開かない。そして簑島みのしまさんが常にまるでボディーガードのようにぴったりついて回っている。あの荒くれ者の西岡と川東がぞっこんなんだってな」


「そんなふうに思われてるんですか」


「事実だろう?」


「う」


「しかし話には聞いていたけれど彼女とシエロの結びつきがこれほどのものとはね。嫉妬しちゃうなあ」


 そう言うと小坂部おさかべさんは空さんの方を向いた。



【次回】

第28話 人馬一体

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