第24話 シエロの栄光

 空さんは早朝から深夜までの厳しい肉体労働に文句ひとつ言わずついて行こうとしていた。だけど、ここふた月近くろくに食事も摂っていなかった空さんにとってここでの労働は過酷過ぎる。僕は頻繁ひんぱんに充分な休息と水分ミネラルにカロリーの補給をさせ細心の注意を払って働かせた。それでも身体が言うことをきかずふらついたりよろめいたり持ち上げられなかったりする。ただ幸いなことに空さんの食欲は徐々に回復し食堂の食事一食(約1.5人前)をぺろりと平らげるようになった。時には2人前まで食べる空さんの中にはまるでもう1人人間がいるかのようだ。


 僕は折あらば空さんをシエロのもとへ連れて行く。シエロは日中放牧場にいることが多かった。


 放牧場に行くとシエロは真っ先に空さんに気付いて群れから離れて走ってくる。そして空さんが服のどこかに隠し持っているニンジンを探すのだ。


「くすぐったい……」


 空さんは微笑ですらない弱々しい笑顔を浮かべる。いつかもっと花のような笑みを咲かせたい。僕は胸を痛める。僕の思い出の中の彼女の微笑みと重なり僕は少し震える。僕は胸の痛みを隠し笑顔で馬柵ばさくに腕を預けて空さんを見る。


「そうだ。空さんはこいつがどんな馬か知ってます?」


「どんな……って?」


「名前はこの前教えましたよね。コレドールシエロ。桜花賞、オークス、秋華賞の牝馬三冠、9頭目の馬なんです。それだけじゃない。菊花賞まで勝ったんです。これはそうそうはない記録ですよ。通算成績は19戦12勝。」


「競馬全然知らない……」


 空さんはほんの少し困惑した顔になる。


「……とにかくすごい馬なんです。しかも気性の荒さや神経質な性格から脚質は典型的な逃げ。こんな三冠馬は他にいません」


「ふうん」


「引退後も繁殖牝馬はんしょくひんばとして期待されていましたが、血統がさして良くないだけでなく子宮に病気があったんです」


「そうなんだ……」


「そのため………… っ」


 僕ははっとした、今ここでこの話題はしてはいけない。決してしてはいけない。子供を産めない牝馬ひんばは殺されるしかないことは。


「……そのためシエロはここで余生を過ごすことになったんです」


「へえ、よかったね。あっ、見つかっちゃった」


 シエロは空さんのお尻のポケットに鼻先を突っ込む。空さんはニンジンを取り出しシエロに与える。シエロは夢中でニンジンをかじっている。本当はあまりやりすぎるのもいけないのだが、今の空さんにとって、シエロとの繋がりが唯一の希望なんだと思った僕は大目に見ることにした。



【次回】

第25話 初めて裕樹を手伝おうとする空

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