第6話 天を見上げ、空と名乗る女は死を渇望する

 僕は彼女に声をかけた。


「じゃ、こっちです」


 一つ大事なことを忘れていた。


「あの、お名前は」


 彼女はうつろな表情のままちょっと困った顔をし、そして夕闇が迫りつつある天を見上げながらつぶやいた。


「……そら


 その空を見上げる様にはかなげな美しさを感じ、僕はまたはっと胸を打たれた。だがその一方で思った。間違いない。この「空」という名前はその場で思い付いた偽名だ。


「……じゃ、空さんこっちです。ここの食事は意外と美味いんですよ」


「そう……」


 すると厩舎きゅうしゃのシエロがいなないた。まるで空さんと離れたくないと言ってるみたいだ。空さんはゆっくり歩いて厩舎きゅうしゃのシエロがいる馬房ばぼうまで行く。僕も厩舎きゅうしゃの出入り口までついていった。空さんはシエロの鼻梁びりょうを不器用に優しくでるとつぶやいた。


「ごめんね」


 それまでの無感情で空疎くうそな顔ではなくどこか穏やかで優しげな顔をみせる。初めて見せるそのうれいと優しさの入り混じった表情に僕は吸い込まれそうになった。


 空さんは小走りに僕のもとに戻ってくる。彼女の言葉のせいなのか、驚いたことにシエロはすっかりおとなしくなっていた。


「行きましょう」


 空さんはまたもとの美と死のかげに彩られた能面のような表情に戻っている。


「はい……」


 僕はこの無愛想な彼女にずっと胸を鷲掴わしづかみにされたままだった。その空虚くうきょで光を失った眼、力ない言葉や儚げな雰囲気には本能的に庇護ひごしたくなるような何かがあった。もしかするとシエロも同じ気持ちだったのかも知れない。


 そしてその表情と眼に僕は心当たりがあった。思い出したくもない春の日。僕の傷痕きずあと。許されざる僕の罪。日が傾きかけて気温の下がってきた梅雨時の湿った風に吹かれ、僕の身体がブルっと震える。


 彼女の隣を歩きながら空を見上げると、僕はまた震えあがった。僕の見上げた梅雨空は、雲の切れ間から微かに漏れ光る濃いオレンジ色と、それに照らされた影絵のような雲の黒に彩られたとてつもなく不吉な色をしていたからだ。そこに六等星はおろか星の瞬きはひとつとしてなかった。


 シェアトの建物は主に6棟で構成されている。本館、分館、2棟の厩舎、作業棟、倉庫兼用具室だ。いずれも昭和17年(1942年)に建設された製材所の宿舎や作業小屋を改装している。外観だけ見ると歴史的建造物のようで独特の見栄えがある。だが夏暑く冬寒いだけでなく常に隙間風が吹きこむ最悪の住環境だ。当然断熱材などは入っていない。


 彼女をかつての製材所員が使っていて一昨日退職した女子スタッフが入居していた四畳半の空き部屋に案内したあとホールに戻る。そこではおかみさんが首をかしげていた。何せ空さんは荷物らしい荷物を持って無かったのだから。空さんがバッグを開けたところを見たおかみさんは、その中に財布とハンディタオルとポケットティッシュ、それと横30㎝くらいの大きな薄い箱があった。それだけだったそうだ。


 その話を聞いてさらに僕は確信を深めていく。恐らくその財布の中には運転免許証も健康保険証もないだろう。そこから僕は一つの確信を新たにした。


 このままでは空さんは死ぬ。



【次回】

第7話 死を求むる病

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