第2話 虚ろな女の起こした奇跡

 ところが驚いたことに、突然シエロがぴたりと大人しくなった。


 棹立さおだちしていた前脚をそっと地につけると優しくいななきながらその女性の周りを歩きまわって顔や身体に鼻面はなづらを押し付ける。僕には何が何だかわからない。これではまるで仔馬を気遣きづかう母馬の仕草だ。


 彼女は無表情なまま不器用な手つきでシエロの鼻面はなづらでる。そのぎこちない様子を見て分かった。なんだこいつ、全然素人じゃないか。こんな奴がどうして一瞬でシエロを手懐てなづけたんだ。僕には全く理解できなかった。あの何事にも無関心に見えるうつろな眼と、ど素人としか思えない仕草。なのにこのたった一瞬でシエロを完璧に手懐てなづけたことが頭の中でどうやっても繋がらない。僕も原沢も言葉を失う。


 その女性がシエロから目を離しゆっくりとこちらを見る。美しかった。きれいで無垢むくはかなげで。僕は耳が熱くなるのを感じた。だけど光を失って疲れきったうつろな目。その目に僕はまたぞっとした。既視感デジャヴュを覚える。あの表情、あの眼。間違いない、やはり彼女は――


「あ、あのっ――」


「センパイっ」


 僕が声をかけ原沢がそれを止めようとする。僕が一歩二歩前進すると、その横からムネさんが彼女に向かって突撃していった。まるでラグビー選手がタックルを仕掛けに行くように。ムネさんは大学時代ラグビー部に所属していた。


「くおおおらああっ!」


 ムネさんがどら声で彼女に食いつかんばかりに叫ぶ。


「なに勝手に入ってきてんだっ! ここは馬がいて危ねえんだぞっ!」


 普通の人なら思わず首をすくめてしまうようなムネさんの大音声だいおんじょうを浴びせられたのにも関わらず、彼女は光のない瞳で不思議そうな表情をするだけだった。小さくて綺麗きれいな鈴のような声でつぶやくように話す。僕はその声にも魅了された。


「危ない……?」


「ああっ、だからすぐここから出ろっ」


「でもこの子……」


 と彼女がシエロの鼻梁びりょうを指でぎこちなく撫でると、シエロはさっきまでとは打って変わって穏やかな目のまま、軽く鼻を鳴らして一生懸命彼女の頬や肩や首に鼻面はなづらを優しくこすり付ける。


「……」


「……」


「……」


 僕たちは絶句するしかなかった。僕たち三人が身の危険を感じるほど暴れていたシエロが、彼女を見た途端まるで借りてきた猫の様に、いやそれ以上におとなしくなるなんて。確かにこれはもう一つの奇跡と言って良かった。


「ま、まあ、ごくごくごくまれに例外はある……」


 ムネさんは気まずそうに咳ばらいを一つするとシエロの手綱を取った。


「とにかくあんたはここから出ろ、そもそもよそんちの敷地なんだからよ」


 そしてシエロの手綱を引いて装蹄場そうていじょうへ向かおうとした。その女性も黙って柵をくぐってそこから出ようとする。


 と、突然シエロが高くいなないてまた棹立さおだちになった。ムネさんでも手に負えない暴れ方で、手綱たづなを振りほどこうとするシエロは一直線にあの女性の方へ向かおうとした。そしてムネさんを引きずって彼女の前に行くとさっきと同じように、自分の仔馬でも心配するかのような仕草を繰り返した。


「どうなってるんだこりゃ……」


 頭をかいて途方に暮れた表情のムネさん。だが僕は思いついたことがあった。


「それならいっそ」


「ん?」


「いっそこの人を連れて装蹄場そうていじょうまで行けばいいんじゃないですか?」


 ムネさんへの提案を原沢は即却下した。


「は? 何言ってんすかセンパイ。素人を入れるって言うんすか?」


 僕はほほ笑んだ。


「きっとシエロが守ってくれるよ」


 僕にはそう思えるくらいシエロのこの女性へのこだわりは強いように見えた。


 だが僕の本当の思惑はそこにはなかった。このまま彼女を放置したらいったいどんなことになるか。今度はシエロの前に立ちはだかる以上のことをしでかすかもしれない。そんな暗然とした思いがあった。


 付かず離れず彼女のそばにいてそれをぜひとも阻止しなければ。僕はムネさんに強く進言した。


「試す価値はあると思います」


「ううむ……」


 原沢からムネさんに向き直ると、難しい顔をして考え込むムネさん。が、すぐに面を上げた。


「よし、じゃあんた俺たちと一緒に来てくれないか。くれぐれもこいつの後ろに立つんじゃねえぞ。裕樹ひろき、この人が怪我しないようよく見てやれよ」


「はい!」


「ちぇっ……」


 安堵あんどした僕は勢いよく返事をしたが、原沢はあからさまにつまらなさそうな顔をして舌打ちをした。



【次回】

第3話 隈原牧場「シェアト(Scheat)」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る