青い春
柚里カオリ
青い春
ガタンガタン……ガタンガタン……
電車の走る音が右の耳から左の耳へと通り過ぎていく。電車の揺れに抗う気力もなく、揺らされるままに、私以外の人間がいない終電の車内で椅子に座っていた。外は真っ暗。電車の音以外、なにも聞こえない。
まだ、ほつれの一つもない綺麗なスーツに身を包み、履き慣れず、踵に血を滲ませるパンプスを見て、少しだけ、汚れていることに気が付いた。
それだけで涙がこぼれそうになった。
電車の揺れに身をまかせ、ふと車窓に映る自分の顔を見る。クマが酷く、やつれ、青白い。いまにも泣き出しそうな顔をしているのに、涙は流れていない。
いつからだろう。瞳を閉じれば、昔のことばかり鮮明に思い出すようになったのは。すべてが色づいていて見えたあの頃を、懐かしいと感じるようになったのは。
もう戻らない、青い春を思い出す。瞼の裏に浮かぶのは、声も名前も思い出せない、懐かしい君の顔ばかりだ。
◇
「|遥(はるか)! 見て! 同じクラス!」
地元の高校に進学した春、私の隣で君が嬉しそうに言う。大きな瞳に長いまつ毛、白い肌。華奢な体格で小柄な君は、誰が見ても可愛らしい女の子だった。それが、私の幼馴染だった。
地元から離れずに進学したため、周りは顔見知りばかりで、華の高校生活というにはあまりに代わり映えしないスタートだったけれど、あの頃はすべてがキラキラと輝いていて、これから始まる新学期に胸を躍らせていた。
私の隣にはいつだって君がいた。
放課後、嫌いな先生の愚痴を言いながら歩く夕暮れ時の帰り道も、授業をサボって眠っていた外の非常階段も、学校行事に浮かれて早起きをしてメイクをした朝の教室も。
そして、誰かに恋をした時だって。
私が恋した彼は、バスケ部のエースで、みんなのアイドルで、放課後、彼の雄姿を見るために、多くの女子生徒が体育館に集まるような、雲の上にいる彼だった。多くの生徒に紛れ、黄色い歓声を上げながら彼の姿を追いかける。君は、ずっと私に付いてきてくれた。
「応援してる! 大丈夫だよ! 遥、可愛いから」
そう言って笑う君の可愛らしい笑顔を鮮明に思い出せる。まだ未熟ゆえに沸々を胸の奥から沸き上がる劣等感も、あの時だけの宝物だった。
一世一代の勇気を振り絞った告白は玉砕に終わり、私は初めての失恋をした。
彼にとって私の存在など、自分を追いかける他の女子生徒と同等で、名前も顔も覚えられていないようなちっぽけな存在であったのに、そのときの私は物語のヒロインになれると思い込んでいたのだと思う。ヒーローと必ず結ばれるヒロインなのだと。
「俺、○○が好きなんだ」
目の前の好きな人が照れくさそうに言ったのは、いつだって私のそばで笑ってくれていた君の名前だった。
君はコロコロと変わる表情がどこまでも愛らしい、それはそれは可愛い女の子だった。私が男の子だったら、きっとすぐにでも好きなる。そう、確信できるほど。だからこそ、自分が惨めで仕方がなくて、醜く見えて仕方がなくて、そんな青臭い、いまや忘れてしまった感情は怒りに変わって、私は君から離れようとしたのだった。
「遥」
名前も思い出せない君の。
「ねえ、遥」
彼方へと消えてしまった君の。
「遥!」
おぼろげな記憶の中で私の名前を呼ぶ君の、美しさだけが思い出せるから。
「海に行こう」
無視し続けた私の手を掴んで、君はそう言った。
先生にバレないように校門を抜けて、まだ昼の学校を二人で飛び出した。君はずっと私の手を握ったまま、何も言わず、ただ私の前を歩いてくれて、私は静かに涙を流しながら君に手を引かれて歩いていた。次第に声をあげて泣き出した私に何も言わず、君はただ手を引いてくれた。
あの時の恋なんて、そんなに大泣きするほどのことではなかったのだと今ならわかる。舞い上がり、盲目的にそれしか見えなかったような、くだらない笑い話。それが世界のすべてだと思い込んでいた青い春。
電車に揺られ、君と海にたどり着いたときにはもう、太陽は水平線の向こうへと消えようとしていた。静かな波の音だけがあたりに響いていて、冷たい風が頬を撫で、泣きすぎで目を真っ赤にした私は、ただ美しい日暮れの海岸をぼーっと見つめていた。
「綺麗だねぇ」
私と手を繋いで離さない君が、私の隣で呟いた。その言葉になんて答えたらいいのかわからなくて黙っていると、不意に君が私の手を離して海に向かって行くものだから、なんだか君がこのまま夕日と共に水平線の向こうへと消えてしまいそうで、咄嗟に伸ばした私の手をすり抜けて、君はなんのためらいもなく、ザブザブと海の中に入っていった。
「私、きっと一生この景色を忘れないと思う」
君の黒髪が潮風に揺れる。瞳が夕日を反射してキラキラと輝く。君の白い肌が、影を落とすまつ毛が、そのすべてがこの世のものとは思えないほど美しくて、息を呑み、ただ見惚れていた。
「大好きだよ、遥」
恋に堕ちてしまいそうだった。
その後、君は笑いながら「やばい、寒い」と慌てた様子で海から出てきて、私が「どうやって帰るの?」と問いかけると「このまま帰るよ、寒いけど」と笑った。そして、私の手をまた握って「帰ろうか」と歩き出した。
二人で手を繋いだまま電車に揺られながら、肩から伝わる君の体温を感じた。心臓のうるさくて、君にそれが聞こえないように、なんともないような顔をしていた。
どうして私は「私も好きだよ」と言ってあげなかったのだろう。
あれは恋ではない。恋なんて簡単な感情じゃない。君のあまりの美しさに、そう、錯覚してしまっただけ。勘違いしてしまいそうになっただけ。その証拠に、君と一緒に帰った次の日、私たちは何事もなかったかのようにもとの友達に戻ったのだから。
高校三年間はあっという間に過ぎ去って。その間に幾度の恋をして。笑って、泣いて。君はいつだって私の隣にいて。
卒業式、桜の木の下で、最後に君と二人で写真を撮ったとき、ずっとニコニコと笑っていた君が、教室で他の子がどんなに泣いていても、私が他の子と一緒に涙を流していても「泣かないでよ~」と困ったように笑って友達を慰めていた君が、唐突にボロボロと泣き出したのを覚えている。
それにとても驚いて、ボロボロに泣く君に私はなにも出来ずオロオロするばかりで、しばらくすると君は困り果てている私の顔を見て笑った。
「また会おうね」
その後、何度か君とは連絡を取ったけれどそれだけで、君にもう一度会うことはなく、私は地元を離れて大人になった。
君もきっと私が知らない場所で、私が知らない誰かと共に大人になっている。
◇
電車が駅から発車した。私の家の最寄り駅まではあと数駅。電車に揺られる時間は、まるで永遠のように感じられる。このまま揺られていたら、あの頃に戻れるんじゃないかって。
君と一緒に見た海に、たどり着けるんじゃないかって。
あの頃はまだ永久と信じていた。早く大人になりたいなんて幻想を抱きながら、ずっと続くと信じていた時は一瞬の間に過去へと変わり、変わらずやってくる明日に怯えながら、私は今日も息をする。
大人になれば飲めるようになると思っていたコーヒーは今も飲めず、大人になれば上手くなると思っていた愛想笑いは上手くならず、とても遠い場所にいて、完璧だと思っていた大人なんて大人の世界にはいない。大人も子供もほとんど変わらず、ただの人間なのだと理解した。
汚い嘘ばかりが上手くなり、後悔は胃を痛め、逃げ出すことは許されないような気がして涙という存在を忘れようとしている、今日。
「……ふっ」
こぼれた息は嘲笑か、それとも嗚咽かわからない。ただ、頬を伝う冷たい感触が懐かしいと思いながら、数駅先の最寄り駅まで眠ろうと、目を閉じた。
君の姿を思い出す。いまはもう滅多に見なくなった夕日の色も。それに照らされた、美しい君の横顔も。
遥か彼方に消えていった君の名前を思い出せそうな気がして、忘れてしまった。
青い春 柚里カオリ @yuzusatokaori
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