第37話「シらマナ【3】手に負えない自由研究」

「ッシャア待ってろボーナス!」

 水中を踊るように奔る『シらマナ』を追って、討代倫悟は魚とり網を振りかざした。水面は勢いよく波立ち、水しぶきと木漏れ日が男の肌に落ちる。

 綺空彩華はスマートフォンでシらマナの撮影を試みるが、首を傾げている様子からうまくいっていないことが遠目に分かる。


「ほらテメェラもつかまえろやァ!」

 討代が吠える。釣り糸垂らして『シらマナ』が釣れるなんて誰も期待していない。待つのではなく捕らえにいくという気概をもって各々は銀に輝く魚を追う。


 イチトは足元をすり抜けようとする1匹に狙いをさだめ、Ta光を放つ『第壱神器・公色警棒』を突きたてた。回収員ふたりの予想通り、シらマナの銀色は紫光に負けて消え失せる。ただのフナに戻ったサカナはプカリプカリと川下へ。無用な殺生をここにひとつ。


「魚のくせにクッソはえぇな!」

 地団駄をふむ討代はその口ぶりとは裏腹に楽しそうだ。

「水を得た魚、そのまんまだね」

 呆れたシガヤが思わず口を挟む。

「ハッハッハ、人間様ナメんなフィッシュども!!」


 いきりたつ討代をよそにシガヤは周囲を観察する。新手のシらマナが歪んだ黒穴から吐き出されていく……シガヤは黒穴に向けて『第壱神器・十色テーザー』を構えたが、一瞬ためらって、結局銃をおろすとツールバッグに手を伸ばした。

 中からキャップつき試験管や使いきりの薬液を取り出すと、彩華が「自由研究っぽい!」と感嘆の声をあげた。さすが大学の先生という称賛も続く。

「綺空さんはシらマナをヨロシク」

 早口でそっけない声かけになったが、彩華は気にすることなく魚捕獲にもどった。それでいい、とシガヤは心の中で呟く。


 簡易の水質調査はすぐに反応が出た。真っ赤な液体、鬼子型の強い反応を示している。試験管の画像を博物館に送り、シガヤは相棒に状況を伝えた。

「イチトくん、だいぶマズイ! 異界が混ざりはじめてる!」


 シらマナは人の手から逃れるように下流に向けて力強く泳ぐ。水に銀の残滓を撒き散らす様に目を奪われているようであれば気がつかないだろう。ゆっくりと逆流する魚影が、笹薮の奥に吸い込まれるように消えていくことには。


「つっかまえたァ!!」

 討代が弾けるような笑顔を浮かべて網を高々とかかげた。銀に濡れたフナは見苦しくうねる。

「俺様が一番乗りだな!!」

 笑顔は一転、舌を出す挑発的なものに変わり、イチトとシガヤに順番に視線を送った。ふたりは無視。彩華は色めきたってシらマナの写真を夢中で撮る。

「おじちゃんスゴいよ! 魚つかまえた子、ダレもいないのに!」

「うはははァ、俺様をナメんじゃねェ! めっちゃ崇め讃えろ! りんごおじちゃん大活躍でした~って青護さんにもちゃんと伝えろよ!」

「もちろん言っとく!」


 水から揚げて、はじめて分かることもある。『シらマナ』は、ぬめった銀色粘液で煌めいていた。討代は依頼主に渡すためにシらマナに素手で触れる。

「……ッ」

 パチリと何かが、討代の脳の奥ではじけた。


 同時に何かを理解する。

 討代の経験で例えるのなら、経路案内標識が急に眼前に現れた時と同じ感覚だ。


 ████まで、あと██メートル。


「Catch and release、だからね!」

 十分な写真がとれたので彩華はすっかり満足しているようだ。しかし討代の返答はない。スマートフォンから顔をあげて討代を見やれば、危ないことに川中に座り込んでいる。彼の下半身は清流で濡れ、銀に染まったサカナは網から脱出できずにもがき続ける。

「りんごおじちゃん? 立ちくらみ?」

 討代はシらマナの銀に塗れた指先で、自らの額をひっかき呻きはじめた。

「ん、ん、ン、ん」

 網が落ちる。シらマナは下流に向かって流れていく。討代はゆっくり立ち上がり、魚を追うように川下へ歩きはじめる。

「……ねえ、大丈夫なの?」

 彩華を無視して、フラフラと。焦点があわない黒い目は、もうシらマナを探さない。探す必要がなくなった。


「魔禍濡れでも起こしたか!?」

 異変を察知したイチトがすぐに駆けつける。そのまま紫色の光を放つ警棒で討代の腹を殴りつけた。唐突な暴力行為に彩華は面食らってしまう。

「そこまでしなくても!?」

 批難めいた驚嘆の声は、討代の派手な転倒音で掻き消えた。

「っテ、今、なんだ、その、このサカナァ!?」

 すぐに起きあがり混乱の声をあげる討代。そうしてくしゃみが続く。まったくいつもの調子だったので、彩華は安堵の息をついた。


 討代が水に濡れたことで崩れた前髪、そして恐怖に歪んだその顔は、シガヤが時折見せるものとまったく同じだ。

「――大丈夫だから、落ちついて話せ。何かが見えたか? それとも聞いた?」

 イチトは幼い子供を相手にするように穏やかに問いかけた。討代の背に手をあてる様子は、ここに到着するまでに大人げない小競りあいをしていた間柄には見えない。即ち、保護する側とされる側。


 討代は髪をかき乱しながら、それでも刀は離さず、懸命に言葉をつなぐ。

「下流……川にそって、ひろいとこにいけって。それから……戻る。戻るぞ俺は。████のとこに……なァ。なんだ? どこだって?」

 イチトと彩華は顔を見あわせた。討代が呟いた言葉の一部は濁って聞こえて理解ができない。


 清流に立ちすくむ3人の足元をシらマナの群れがすり抜けていく。「9、10、11、12」と彩華のカウントは続く。


 偵察用機械ドローンのひとつが、シガヤの手を離れて空へ向かった。機体にはシらマナから採取した銀の粘液入り試験管が収められている。簡易光学迷彩のおかげでドローンは青空にまぎれて見えなくなった。

「さて、だいたい分かってきた」

 イチトに押さえ込まれている討代を睨みながら、シガヤはバシャバシャと水を踏み鳴らして3人に近づく。


 小学生たちの自由研究。都度変わるシらマナの確認地点。今回の簡易水質調査。

「『シらマナ』の正体は、洗脳された魚たちだ」

「せんのう……?」

「そして今、討代サンも『シらマナ』だ」

「は?」

 声をあげたのは討代と彩華が同時だった。シガヤは確光レンズ越しに討代を観察している。鬼子キシ型の影響を示す、真っ赤な色に染まった男がひとり。


「シらマナを利用して辺りの環境を変えるつもりだろうよ。このお魚サンたち、思った以上に厄介な存在だったねぇ」

「……シガさん。銀に光る以外は普通、ということじゃなかったか?」

「そだネ、サカナはモルグ市出身だ。利用してんでしょ。捕まえる、塗りつぶす、放流する」


 魔神の意思、キャッチ・アンド・リリース。モルグ市を己の影響下におくための環境整備。毎年夏に来る怪異は、息を潜めて隣にいるのだ。その侵攻は天災である。台風と一緒で、どうしようもない。


 シガヤはツールバッグから水筒を取りだし、薬液を討代の頭にぶちまけた。紫色の水溶液をしとどにかぶるヤクザの男を彩華がハラハラした様子で見つめている。

 すがるように討代のジャージの裾をつかんだ少女の手を討代が撫でた。傷だらけのシルバーのリングは一瞬だけ夏の光を受けて光る。


「……じゃア大学先生さんよ、なんで、俺は、戻らなきゃいけねェんだ?」

「どういうこと?」

「討代は先程からどこかに戻りたがっている。場所の情報はないが、おそらく」

 イチトがそっとシガヤに耳打ちをする。シガヤもブツブツと見解を漏らしているが、聞いている討代には意味不明の文言だ。


 ――もしここでデタラメを言えば、仇敵はどうするだろうかと討代は思いついた。しかし今の思考回路ではろくな悪巧みもまわらない。己を見るふたりの目が真摯で腹ただしい。そして双眸の奥に確かな畏れの色も浮かんでいる。一体何を、と考えれば、全身に悪寒が走った。くしゃみをもうひとつ。


「先遣隊にゃ報告に戻ってもらわないとダメってことかな?」

 とうとうシガヤが結論を出した。イチトは頷き、討代は首を傾げる。気にせずシガヤは言葉を続けた。

「でも先遣隊は戻らない。現地生物の洗脳じゃそれはどうしても叶わなかった」

 シガヤが今度は彩華を見下ろす。少女は、討代が落とした網を持ったまま、強い眼差しでシガヤを見返した。

「『シらマナ』を研究した子たちも、おんなじように『シらマナ』になっていたんだろうネ」

「……そんな」


 彩華は思いだす。

 夕暮れの理科室前廊下、模造紙を前に耳打ちされたこと。

「次はあそこに出るから」って。

 ――あの子、どんな顔をしていたっけ。


「シらマナのご主人様は自分の元に戻ってきてほしかったんでしょ」

 しかし『小学六年生』の寿命は1年だ。

 それでも魔神ごしゅじんの命令を守ろうとして、知的生命体にんげんは律儀に次代へ託してきた。


 今年の先遣隊はキクウアヤカ・生後11歳9ヶ月・メス。

 オマケで3人連れてきた。申し分ない成果だ。


 ぬるい風が吹き、鳥が一斉に飛び去っていく。

「……討代、もう立てるだろう。お前は綺空彩華の護衛をしろ」

「命令すんなッ! もともとそれが俺様の役目なンだよ。てか護衛って、サカナから守れってかぁ? バカかよ!」

 凄む討代にイチトは真剣な眼差しで頷く。

「サカナどころではない。最悪なことに、もう来るだろう……時間がない」


 風にあおられた博物館のジャケットの下。回収員2班の帯革から下げられた、アンテナ・アナライザによく似た機材の針が極端に振り切れている。


「博物館には連絡済み。ドローン3基が哨戒中。ありがたいことに周辺に人は無し、オレら以外はね」

「まずは2名、離脱させなくてはな」

 イチトはジャケットを投げて彩華に渡した。羽織れ、と指の動きで指示を出す。取り落としそうになった少女に代わって、討代が受け取り彩華に羽織らせた。その一瞬、ジャケット内側の文様が目に入り、討代は呻き声を漏らす。虫除け、魔除け、厄除けの三ツ目模様に睨まれて具合が悪い。


「ンだよ、なにがおこるってんだ……」

「もう分かっているだろう!? 神器なら好きなだけ使え! ただし絶対にその子を守れ!」

「あんだけ使っちゃダメつってたくせによ!!」

「何のための特法サマサマだ!!」

 吐き捨てるように叫ぶイチトも、公色警棒の光量を最大解放する。

「……ッ、ケーサツが市民守るの放棄すんのかよ!?」

「今の俺は回収員コレクターだ」


 青空の下、煌々と輝く2本の警棒。シガヤもまた十色テーザーを構えて、宙に出現した異界の入口を睨んだ。


「おい、なんだこれ、このヒビ……?」


 川岸から空に向けて奔る亀裂。討代の問いに回収員は無言だ。

 本当は、討代だって知っている。皇都アルカ市に居たのだから。


 哨戒する偵察用機械ドローンは、博物館にリアルタイムで状況を送り続ける。


 魔神侵攻確認、規模はBクラス。

 場所は盛愚モルグ市、近衛コノエ川の中流、基浦キウラ付近。

 鬼子キシ型魔神、該当個体名は無し。


 魚影が逆流する。吸い込まれていく先は魚眼穴だ。藪に潜み、夏に動きだす観測怪物。宙のヒビが広がる。そうして最初に、赤色宇宙の大気が溢れ出た。


「んだよこれ……ッ」

 次に17本のうねる管。


「魔神の名前、対処法、その他情報はあるか!?」

 管は人の腕ほどの太さがあり、長さは伸縮により目視での判断は不可。


「登録無し、新手! マジで最悪!」


 ガラスが割れるような音と同時、銀色液体に濡れた洋梨型の巨大物体が身を捩り宙に飛び出した。川上に浮かぶ、10mほどの未確認生命体。表皮が波打ち、細かく震える。感覚器官は見受けられない。意思疎通の可能性すら感じない。


「アァ!?」

 討代は困惑した声をあげながら、ようやく鞘を投げ捨てた。右手で解錠術式を施せば神器の刀身が東ヱ型の水色に輝きだす。

「あんなの倒せるの!?」

 彩華が必死に討代にすがりつく。

「魔神だぞ!? できるわけねェだろ! ……逃げるからな!」

「正解だ!」

 怯える彩華の代わりにイチトが力強く叫んだ。


 魔神の顕現は災害である。ゆらめく細い管は、先端からしとどに銀の粘液を垂らし、吹き出し、泡を吹く。

 まずシガヤが十色テーザーを起動した。針が刺さり、紫光が炸裂し、魔神の表皮があわせてうねる。反射に近い動作で振りあげられた管を、イチトが警棒でいなしていく。


 しかしはずみで切り離された管も意思を有しているのか、そのまま水上をうねり滑り、蛇のように討代たちに飛びかかった。


「洒落臭ェ!」

 蛍光水色に輝く刀身が、飛びかかる蛇管を切り伏せる。それも銀の粘液をぶちまけたが、彩華を包むジャケットに付着した分は瞬時に蒸発して消えた。

「……ッ!」

 討代は慌ててイチトを見やった。シガヤはジャケットを羽織っているが、イチトは無防備なジャージ姿だ。

「おいオイおい、この銀色の液体で洗脳されるんだよな!?」

「己の心配だけをしていろ!」

「べっ別に心配してねーよ!!」


 イチトが警棒を振るうと軌道上の粘液は残らず霧散した。憑子タノシ型は鬼子キシ型に有利であり、その効果は顕著に現れる。


『生きて捕獲しろなど、動物園のような戯言は言わない』

 2班のふたりが装着したインカムから不座見ヤマヅ副館長の声が響く。

『殺しなさい。厳しいようであれば、真道志願夜の"第参神器"の展開を許可する』

「あれ展開に時間かかるんで、強襲対応中は厳しいですヨ!」

『厳しいようであれば、だ。第壱・第弐で済むならそれに越したことはない』


 胃袋にも熟れすぎた果実にも似た魔神は、身を震わせて着水し、再び大きく跳ねる。その衝撃でイチトとシガヤは転倒してしまう。

 魔神の狙いはこの場から逃げ出す男と少女だ。討代は愚直に川中を走り続ける。まるで自分を、水場以外では生きていけないサカナと誤認しているかのように。


「ッ、行かせるか!」

 イチトは光量を最大出力した公色警棒を投げつけた。棒は唸るような音をたてて飛び、魔神の胴体をいとも簡単に貫く。

「おお貫通!」

 シガヤが歓声をあげたが、魔神の表皮がボコ、ボコとよじるように動き、穴から管が吹きだした。代わりに表皮はゆっくりとしぼんでいく……。


「げぇえ、中身ない!? あの皮袋のなか、ぜんぶ管ァ!?」

「思考箇所はどこだ!?」


 イチトは皮袋が流木に引っかかっているのを見届けて、次のフェーズに移行する。手の甲に模様が浮かび上がると同時、イチトの『第弐神器・銀の盾』が宙に出現した。形成が間に合ったのは斧の刃部分のみ。相変わらず柄の生成は遅い。

 しかしすべてが具現化される必要はない。「自律双斧」と称される銀の盾は、イチトの意図を汲み青空を奔る。視界に捉える入道雲が、異界の影響を受けてぐるぐると歪む。


「銀の盾! 管を処理しろ!」

 イチトが命令すると、盾の滑空音が宙をのたうちまわる管を切り刻んだ。血しぶきに似た銀の雫が飛び散っていく。

 『銀の盾』は渡瀬ワタラセ型の神器である。渡瀬の神器はすべての異界の存在に効くが、中和の力は弱い。銀の粘液はイチトに降り注ぎじくじくと洗脳を開始する。

「ぐっ……」

 イチトはかぶった粘液を手の甲でぬぐうと荒い息を吐く。揺れる視界で、手元に残った警棒を自分の喉に突き立て、躊躇うことなく照射した。自傷行為に近い行動で、熱を持ち畝る思考は正気に戻る。


 一方、討代を襲った洗脳粘液は、東ヱアガリエ型の刀では中和できなかった。再び『シらマナ』に戻った討代が、彩華を抱えたまま下流に向けて走りだす。討代の足からは銀の波紋。水源をゆっくり汚染していく自走装置だ。

「ねぇ、りんごおじちゃん!? 待って!」

「大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫」

 早口で呟くその様は、かつて討代が皇都アルカ市で足蹴にしてきた『気の触れた男たち』と同じ。それでも無意識に近い判断で刀を振るい、少女を狙う蛇管は片っ端から切り捨てていった。


 かばわれながも彩華は討代にすがりつき、しくしくと泣き濡れる。こんな話はどの発表にも書いていなかった。彩華はただ、銀に輝く魚を見つけて、みんなに認められたかっただけなのに。こんなことになるなんて。


「イチトくん、魔神を水面に!」

 シガヤは己のジャケットを脱ぐと投げてよこした。シガヤの作戦を察したイチトは受け取ったジャケットを羽織り『銀の盾』に指示を出す。指揮者のように腕を振えば1対の刃は青空に向けて飛んでいった。

 これを好機とみたのか、うねる蛇管がイチトに襲いかかる。すべて左腕で受け止め、蠢く管の塊を右手で掴む。ジャケットに守られた腕は無事だが、右手からはジュウと嫌な音がした。

 イチトは臆さず、勢いをつけて水面に振り下ろす。遅れて長い管が着水音。それを見届けたシガヤが十色テーザーを水面に向ける。


「ごめん、ちょっとだけ耐えてよ!!」


 ドライブスタンによって水面が一瞬、強い紫色に輝いた。イチトもシガヤもその輝きに目がくらむ。魔神由来の管は力を失い水中にくたりと沈んだが、周辺の岩やイチトの腕に絡まり川下へ流れていくことはできなかった。


「ちょっとビリっとしたぞ」

「だからごめんって言ったじゃんね」

 シガヤが十色テーザーを確認する。

「でもこれでTa光のカートリッジはカラだわ」

「……ヤマさん、標的は沈黙したぞ」

 インカムで状況を伝えれば『ドアーの封鎖作業に移行しなさい』と命令が下る。


 イチトの足元を、喧騒など知らぬと言いたげに魚影がかすめていく。その対比のように、水面をプカリプカリとシらマナの遺骸が流れていった。


「イチトくん、ドアーどうす、ウワッ!?」

 シガヤの問いかけは中空に放られた。神器がおさまる瞬間を狙っていたのか、笹藪から別の管蛇が飛び出してきたのだ。ジャケットを羽織っていなかったシガヤが標的となり、あっというまに逆さ吊りだ。

「シガさん!」

「くっそ、やっちまった……ッ!」

 連なる10本の管で形成された残党は、ウロボロスに似た形をつくって宙に浮いている。背に貼っている湿布型護符のおかげで痛みはないが、対抗手段もない。


 シガヤの鼻先に、魔神が這い出てきた宙の亀裂が迫る。この先は赤色宇宙。刻一刻と代わりゆく星座。鬼子の異界に近づいている……。


 目を奪われていたシガヤの正気を取り戻したのは、右足を襲った鋭い痛みだ。なんの攻撃かと見やれば、いつのまにかシガヤの右足が黒色物質に覆われている……『第弐神器・赤い靴』の発動だ。


 シガヤの神器は決して自動発動しない。イチトが、黒杭をシガヤの脚めがけて投擲したのだ。

「ナイスコントロール!」

 杭に貫かれた痛みに歪むシガヤの目は、すぐに神器の影響を受けて青色と紫色に輝きはじめた。

「そう大人しく異界落ちしてたまるかよ!」

 蛇管に向かって勢いよく蹴り上げる。ヒクイドリを模した脚が器用に管を切り刻む。異界の相性など気にすることなく、魔神の耐久を上回る暴力が集合思考にトドメを刺した。


「っしゃあ!」

「後はドアーを……!」

 管から解放されて着水するシガヤの頭上を『銀の盾』がかすめる。宙のヒビ割れ、すなわちドアーを塞ごうと、空往く刃が果敢に挑んでいる最中だった。しかし出力が足りないのか、亀裂の破壊には至らない。

「すまないシガさん、俺の第弐では厳しそうだ。第参を展開頼む」

「じゃあイチトくんは、その腕に絡まってる死骸を回収しときな!」


 イチトの敬礼を見届けて、シガヤが号音喇叭ビューグルを取り出した。

 緩い風も止み周囲が独特の緊張感に包まれる。


 起きろと言ったら皆起きろ、とイチトは小声で追従した。

 シガヤの両目が紫色に染まる。

「起きないと隊長さんに怒られる」


 高らかに響く喇叭らっぱの音。

 勢いをつけて跳んだシガヤは再び宙に逆さ吊り。

 異空より姿を見せる戦艦部品の核と成る。


 廃工場を襲った竜巻のよう。あるいは天に落ちていく鉄鳥の群れ。

 戦艦部品は、轟音と雷光に巻き込まれてゆっくりと本来の姿を取り戻す。

 やがて艦首と第一砲塔までが青空に姿を現した。


 このドアーの規模であれば一部だけの展開で十分だ。

 空を海の代わりにした逆さ船。

 見るものが見ればそれは魔神の顕現だと見紛うだろう。


 発動者は真道志願夜。

 第参神器は花言カゲン型『幽霊戦艦ゆうれいせんかん』。


 戦艦の甲板、首の無い船員たちが地上を眺めている。

 ヒビ割れた鬼子の異界を指差し、ざわめき、糾弾する。

 響き渡るサイドパイプの音は艦内号令。

 船のコアと化したシガヤによる命令だ。


 砲塔がドアーに狙いを定め、熱砲を放つ。

 轟音が炸裂し、宙に入ったヒビを消し飛ばした。


 ……ドアーを封じたのか、あるいは侵食を試みた異界ごと滅することができたのか。神器展開にかかる時間と比較して、その決着はあっけなかった。


 戦艦の働きを、イチトは魔神の亡骸を抱えながら眺めている。爆風がアッシュグレーの髪をかきまぜる。逆さ吊りの戦艦に並び立つ船員たちが、イチトに向かって一斉敬礼。「U」のシグナルフラッグが揺れている。イチトは旗を認めて、首を振った。


 幽霊戦艦は宙でゆっくり解体されていく。



 ……。



 川を下り続ける不気味な男はモルグ市の市警察によって保護された。


「ちか██な、ア█カに████、な、█るな、ァ」


 意味不明の言動を繰り返している上、抜き身の刀を持っていたことでひどく警戒されていが、男が守っていた少女の証言、そして少女が羽織る『盛愚市魔神博物館』のジャケット、さらに駆けつけたイチトが提出した許可証付きの鞘、そして博物館から受けた『鬼子キシ型魔神・ピュルスPyrus』交戦報告によって「銃刀法限定解除特法」が適用された。


 その日を締めくくるのはパトカーと救急車の音。

 4人の自由研究はモルグ市総合病院で幕が下される。



 ……。



「今日のこと、模造紙に書ききれるかな?」

「むずかしいかもしれません」


 待合室のソファに並んで座るのは回収員の2人と綺空彩華だ。シガヤはゼリー飲料を、イチトはアイスココアを、彩華はほうじ茶を飲みながら、病院スタッフからの連絡を待っている。

 討代は鬼子型の魔禍濡れを発症していたが、病院で除染を受けて休養すれば大丈夫との診断がおりていた。


 先行して回収された粘液の解析によれば、銀の液体には高濃度の命令信号が含まれていたという。このたび「ピュルス」と命名された魔神の失態は、先遣を魚に委ねたことだろう。使役できる生物を選定する段階だったのではと鑑定員長ヘッド・レジストラは見解を述べている。


 つまり一連の怪異は、魔神ピュルスによる『自由研究』だ。


 役目を与えられたサカナたちが、銀に輝き子供の目につかなければ、魔神は密やかに侵攻を完了させていたのだろうか。

 ピュルスが姿を現せたのは、これまでの『シらマナ』の働きで土地が十分に異界化変質していたからという見解もある。

 あるいは『モルグ市魔神博物館』と同じ思考を持っていたのかもしれない。

「今年こそ」と、動きを見せた。


 そうして人間に敗北した。


「討代がいてよかったな」

 イチトは気をつかうように彩華に声をかける。

「うん……ちゃんと、おこづかいをあげることにします」

 その言葉にイチトとシガヤは笑ってみせた。

「綺空さん。シらマナの研究は、もうやめておきなよ?」

「はい、そうします」

 シガヤの提案に彩華はおとなしく従った。彼女は賢い子供なのだ。もはやアレを発表し、称賛を身に受けようとは思えない。


「田中先生にも、お礼言っときます」

「それがいい。本当に、彼からの情報がなければ今年は大事になるところだった」

 イチトの言葉に彩華は身震いをした。少女を落ち着かせるために、イチトは彩華の肩をゆっくりと撫でる。

「魔神は出てしまったが……そうだな、異界落ちしなかったのは幸いだろう」

 冷えきった討代の手とはまるで違う、大きくて温かい手だと彩華は観察する。指輪がない代わりにケガの痕が多かった。


「あの、異界落ちって……おちたらどうなるんですか?」

 彩華の質問に、イチトの眉が悲痛を象る。あの日異界に置いてきた、幼い妹の姿がだぶって見えたから。

三雨ミウ……」

 それだけ言って、イチトは口を噤んだ。


 困惑する彩華の肩を、今度はシガヤが優しく叩く。

「異界落ちについては、関連書籍がいっぱいあるからサ。自由研究の代わりに、読書感想文にしたらどう?」

「いっぱいあるんですね。どれにしようかな」

「よかったらオススメ教えてあげようか。綺空さんなら、中学生向けの本でも大丈夫かも……」

「あのっ、いっぱい親切にしてもらってありがとうございます。わたし、最初、すっごく失礼な態度とったのに!」


 今ではすっかりしおらしくなった彩華に、今度はシガヤは視線を彷徨わせる番だった。言おうか言わまいか、少し時間を置いて、シガヤは思考の奥で散る花びらに言葉を委ねる。


「……オレとちょっと似てたから、なんだかねぇ」

 渋々と告げるシガヤに、彩華は露骨に疑問符を浮かべる。

「まどう先生は、りんごおじちゃんに似てるのに?」

「いやいや、討代倫悟についてはオレは認めないよ。オレとしては、綺空さんに似てると思ってる」

 猫を思わせる目が意地悪そうに細められた。口が回る。舌が滑る。

「周囲から疎まれながらも、せめて優等生らしくあろうと必死に振る舞って」

 哀れだね、と棘を含む言葉に、彩華は顔をくしゃりと歪めてから、しかし気丈に笑い返した。

「じゃあワタシも将来、まどう先生みたいに立派になれる?」

「立派に見えた? どうかしてるヨ」


 会話するふたりの顔の間を大きな手が遮った。ふたりを見下ろすイチトが「きみを誰かが呼んでいる」と彩華に手短に告げる。

「あっ、お父さん!?」

 彩華は弾かれたように立ち上がり、病院受付で息切れを起こしているメガネの男に駆け寄った。"親子"の交わす会話は回収員の座るソファまでは届かないが、彩華はこれまでよりずっと年相応に見えた。父親に抱きつき、泣きじゃくっている。


「ちゃんと迎えにきてくれるお父さんで羨ましいヨ」

 声がとりわけ暗かったので、イチトは思わずシガヤの顔を覗き込んだ。

「シガさん、『船酔い』しているか?」

「してたって関係ないでショ。イチトくんもオレのことは助けてくれない、最終的には見捨てるじゃん」


 うっそりと微笑むシガヤの目の奥に、花言の残光が揺らめく。第参神器発動の余燼が燻ぶっている。


「……それ、ぜんぶ飲まないといろんな人に怒られるぞ」

 イチトはシガヤの手にあるゼリー飲料を指さした。『Mb型補水液』と印字されているだけのシンプルなパッケージ。業務用であり一般流通品はしていない。これをもって神器の影響を中和しないといけないが、シガヤはイチトの指摘を無視して話を続ける。


「オレさぁ思い出しちゃった」


 待合室にいる人々を睨むシガヤ。少女を抱きしめ泣く父を興味深そうに見る者、鬱陶しそうに耳をふさぐ者。反応は人それぞれだ。

 ゼリー飲料の残量が思いのほか多いことを確認したイチトは、ほら残っている、と文句をつけた。その指先を手にとって、シガヤは己の前髪をかきあげさせる。花言の影響が残る思考で、めいっぱいの卑しい笑みを浮かべた。討代倫悟を思い出しながら。


「似ているんでしょ。が、に」

 表情ひとつで区別がつかなくなるほどの、他人の空似。

「『亞屠ノ浜事件』の時、イチトくんはオレのこときらいだったんだよね」

「嫌いだなんて」

 イチトは手を離そうとするが、手首を掴まれていて容易ではない。

「オレを犠牲にしてでも帰るって言ったじゃん。絶対生還の信条だ。ねぇ、イチトくんがよかったら、次は絶対……」

!」

 イチトが強い語調で命じれば、シガヤは反射で右手を上げる。その動きでシガヤは我にかえった。もう幽霊戦艦から降りていると遅れて理解する。


 イチトは小さく笑うとシガヤの前髪をちらした。

「今日は『船酔い』が早い。日頃の疲れのせいもあるはずだ」

 やわらかいのに重苦しい声で尋ねる、詰める。

「……最近、はまってるゲームあって。寝不足気味かも」

 シガヤが言い訳をすればイチトが軽く息をついた。

「自愛してくれ。今日はもう市警察に任せよう。俺たちが討代倫悟の回復を待つ理由もない」

 イチトは立ちあがりシガヤを促す。室内灯のせいで、イチトの顔には濃い影ができていた。

「補水液がひとつじゃ足りないなら、病院からもらって帰ろう」

「これ以上はお腹タプタプなるからいらないヨ~」

 シガヤがいつもの軽い調子に戻ったのでイチトは頷く。そのまま連れだって、綺空親子に挨拶に向かった。


「先生、さようなら」

「はい、さようなら」


 ガラス窓から夕焼け色が射し込む頃合い。頭を下げるは影法師。



 ……。



 遅い時分。病室に現れたのは仕立ての良いスーツの男だ。

「よくやったねぇ倫悟クン、ボーナスあげちゃおうかな」

 室内禁煙という常識を気にかけることなく電子タバコを弄んでいる。


 ベッドに横になる討代はぼんやりとした様子で男を見上げていた。魔禍の影響がまだ残る討代は呆けていて、口はだらしなく空いていた。奇妙な様子の患者を気にせず見舞い客は話を続ける。

「実はねぇ、お前の信号の発信地にスゴいのがあったんだ!」

「よかったですね……でも発信機の方は、病院の連中にとられちゃいまして」

 より大きく口を開ける討代。男は歯を覗きこむと表情を変えずに「また仕込めばいいよ」と告げた。


「あーあ、今回のはアヤぴのご機嫌とりのつもりだったんだけどなぁ、思わぬ収穫で嬉しいなぁ!」

 男は顔の右半分を占める火傷痕を、同じように火傷の痕がのこる右手で覆い隠して思案する。

「青護さん、収穫って……」


 青護と呼ばれた男は、電子タバコを討代の顔にぶつける。入れ替わりに、腰から1本の『公色警棒』を取りだした。

 これは魔神に向けてイチトが投げ、そのまま川中に置き去りとなったものだ。本来であれば、博物館職員が回収する手はずだったが。


「光るんだよな、これ。ライブで使えそうだなぁ」

 目だけで笑う男は警棒の放つ色を好き勝手に切り替える。

「……ライブ行くンすか?」

「行くかよ」

 "綺空会会長"がとうとう歯を見せて嗤った。公色警棒から発せられる水色のAg光がふたりを照らす。

「そういや惑羽がこの街にいるんだってなぁ?」

「そっす」

「アハハハッ皇都の犬が死体安置所モルグに売られるとは」


 青護のご機嫌をとるように討代も笑いかえした。それは卑しい笑みだった。

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