第34話「怪物の面影【後】つかずはなれず難しく」

「里帰りしねーの?」

 床に広がる液体を拭き取りながらハバキが尋ねる。同じく雑巾がけをしていたスグリは「ないない、絶対にない!」と明るく笑った。


 いつかのモルグ市魔神博物館、バックヤード。液体の出どころはスグリが落としてしまったアンプルで、中身は精製した魔禍……つまり第壱神器に使うカートリッジ用なので健康な人間であれば害は無い。


「四方矢山はもう禁足地になっちゃったんだよネ」

 破棄となったアンプルを計上しながらシガヤがため息をつく。

「てかハバキくん『里帰り』てマジで聞いてる? 故郷滅んだ人に向かって残酷すぎじゃんね」

「うわそうだった、わり。さっき調査員たちとお盆休みどうするーって話したからその流れでよー……え、お詫びにジュース奢るぜ?」

「も~変に気を使わなくてもいいのだよ市民!」

 スグリは気安い神様だ。だからすぐに「ハバくんは里帰りするのかな?」と話題を向ける。

「いやオレ地元民だからよ。里帰りとかないんだわ」

「つまんないな~、あっじゃあシガやんは!?」

「オレは実家嫌いなんだよネ」

「ええ~~じゃあイチくんは?」

「そうだな、墓参りに帰るのもいいかもしれん」


 スグリがハバキとシガヤを交互に見たが、ふたりはそっと目を伏せ首をふるばかりだった。悪いのはスグリだが、きっかけはハバキだ。あと、シガヤが突かなければこんな流れにはならなかったかもしれない。全員同罪ということでここは手を打つ。「恨みっこなし」という結論をアイコンタクトだけで3人は成し遂げた。


「い、いいよね~お墓参り。スグリもしたいなぁ!」

「バカやめろ深追いすんな話を逸らすの下手かよッ」

「あ~そういえば『村主』の慰霊祭とかないのカナ?」

「お、いいぞシガヤそういう難しそうな話にしてくれ……」

「いれいさい? 考えたこともなかったなぁ。村主ってそういう神様じゃないし」


 スグリが存外しっかりと話に乗っかったので、民俗学者でもあるシガヤは少し身を乗り出したし、ハバキは冷や汗をぬぐってイチトを見た。イチトの表情は凪いでいて内心が掴めない。


「でも、村のみんなを守る神様でショ。感謝の気持ちを伝えるお祭りとかあってもおかしくないじゃんね」


 シガヤは子供の現人神が悪習だとわかっていて話を掘り下げる。部屋の温度が下がっていくのは、前村主たちが集まっている証拠だ。裸足の子供が集まる、ペタペタとした音が聞こえる。


「別に感謝されることじゃないんだよねぇ。村主はそれをするための神様だから。たしか先代は大火で、先々代は大雨の責任を負ってたかな」

 顎に指をあてて思い出すスグリの話を聞きながらシガヤはゆっくりと頷いた。ハバキが「責任?」と小さな疑問を口にしたが、冷気がくしゃみで疑問は霧散した。


「歴代の村主たちが責任とったこと、オレとしては気になるなァ」

「残念ながら記録なんて残してないよ~」

 ぐいぐい迫るシガヤにスグリはへらへら笑い返す。

「もの好きな誰かが書いてたかもしれないけど、どのみちお山にはもう入れないしね!」

「それならば前村主たちに直接聞いてはどうか?」


 イチトが口を開いた途端、部屋の温度が元に戻った。

 夏の湿度を感じる息苦しさ。

 それが逆に回収員たちをぞっとさせた。


「……イチトくんって退魔の才能があると思うヨ」

「村主は『魔』じゃあないのだよ市民、『魔神』と違ってね!」


 ハバキはバケツにつけた雑巾についたオレンジ色を睨んでいるだけで無言だ。そして事態を収束させたイチトもまた、室内灯の反射で瞳がオレンジ色にギラついて見えた。



 ……。



「最近の美蔓、変じゃないか?」


 日本家屋の談話室、時刻は午後10時。向かいあうのは1組の夫婦だ。柄本晃正はお猪口を手に、そして彼の妻の花江は農薬のカタログを手に。時計の針の規則正しい音がカチカチと部屋に響く。


「独り言が増えたり、床をじっと見ていたり……」

 そんな夫の心配を妻は受け流す。

「あの子、やる気が出ない時はそんなものよ。夏バテかもね」

 庭先でネコがニャアと鳴いた。こんな時間にもかかわらずだ。盛っている声ではなく、相槌を思わせるような妙なものだった。

「そうか。熱中症には気をつけさせないと……」

 晃正はそれ以上言及せず酒を煽った。遠くでまたネコの声。

「やあね、最近多いわね」

 ネコの鳴き声を指し、ちょっと不気味と花江は続けた。


 晃正は「虚での出来事」を博物館の回収員から聞いている。この一帯にネコは居ていいのだと、晃正は町の人にも妻にも伝えているが「与太話」としか受け入れられていないのかもしれない。


「ネコはね、きっとこれから増えていくよ」

 だから心配しなくていい、と晃正は続けた。

「あなた、ネコ派だったの? 私は断然タヌキ派だけど」

「この町の人はみんなそうだろう。でも彼らは、自分が好かれていようと嫌われていようと関係がない。見守るものとして、高潔な存在だ」


 晃正は視線をあげて庭先を見た。猫の目が光る。幾十もの大きな眼。揃ってニャアと鳴く。夏の夜、月は出ていない。



 ……。



 今日の美蔓は男児村主を伴って川遊びだ。家から歩いて十分程度のお手頃なお出かけである。手に持つ大きなスイカは、近所に住む同級生から「おれのがここいらで一番甘いぞ」と押し付けられたものだ。美蔓も「育ちすぎたキュウリ」を押し付けたがこれは本筋とは関係がない。


「清流で冷やしたスイカは最高なんだぞ~」

「えへへ、今村主にじまんしよーっと!」


 男児村主は果物が好きだ。その次に好きなお供え物が洋菓子。逆に手料理は嫌がった。美蔓は自分の手料理を断られ落ち込んだが、男児村主が最も避けたのは父がつくった塩焼きそばだ。あれよりはマシだと思って己を慰めている。


「スグリちゃんもおみやげは果物の方がよろこぶかな」

「今村主は果物ならミカンがすきだよ。ミカンゼリーもすき」

「きみはなんの果物が一番好きなの?」

「ぼく? へへ、これからスイカがいちばんになるかも」

「そりゃ翔平が喜ぶね。あ、翔平ってのはこのスイカをくれたヤツで……」

「みつるは、ぼくよりもしょーへいがすき?」

 男児村主がまんまるな目で上目遣いをするから、美蔓は一瞬息がつまった。急に「間違えてはいけない選択肢」を突きつけられるのはおそろしい。


「市民にはとても比べられませんね」

 陰る話題を茶化して笑ってスイカを掲げて見せる。

「ほら、早くスイカ食べよーよ」

「うふふ、市民はせっかちだなぁ!」


 男児村主が得意げに指を振る。空気が渦巻くような気配、それからスイカの表面にピシピシと小さなヒビが入っていき、自壊するように割れた。神様の使う不思議な力である。

「いつ見ても凄いなぁ……」

「みっちゃん、今のなーに?」


 遠巻きに声をかけられて、美蔓は驚いて振り返った。画板や水彩絵の具を持った女の子たちと、その中心に日傘をさした母がいる。美蔓に声をかけたのは女の子のうちのひとりだ。


「ねぇねぇ今、スイカ勝手に割れてたよ!」

 和装の裾を引っ張られて柄本花江は女の子たちを見下ろして朗らかに笑う。

「裂果じゃないかしら?」

 そうして子供たちを河原に散らした。子供の幽霊を引き連れたスグリに少し似ていると美蔓は思う。


「……母さん、どうしてここに?」

 割れたスイカの果肉をトレーに集めながら美蔓は問う。花江が視線を外している間に男児村主がスイカの果肉をつまんで食べた。

「生花教室に来られてるお母さんたちから引率を頼まれたの。夏休みの宿題で、この辺りの絵を描かないといけないんですってよ」

「川の絵描くの?」

「どうせみんな、山は見飽きてるでしょ!」


 明るく笑う母の横顔が美蔓は好きだ。しかしその顔が強張る様を見てしまう。まさか男児村主が見えたのかと焦ったが、川に視線を落として理解した。

 上流からオレンジ色が流れてくる……花江は立ち眩み、その場に座り込んだ。支えようとした美蔓はトレーを放る。

「こらー! 筆を川で洗うなー!!」

 美蔓の怒った声を聞いて女の子たちは「ごめんなさいー!」と口々に謝った。


「ね、大丈夫だよ母さん。なんだっけ、駄目鼻血だっけ。アレじゃないから」

 オレンジ色の絵の具はそのまま流されて消えていく。それでも花江の肩は小刻みに震えたままだ。

「ごめんね美蔓……お母さん、あの色の液体がどうしてもいやなの。こういうの、なんて言うんだっけね。カタカナで、やだド忘れしちゃった」

「トラウマ?」

「そう、それ。トラウマ……」


 母が狂乱せずに済んだので美蔓は安堵した。女の子たちに、あのような母を見られなくて済んだ。実の娘の美蔓ですらショックを受けたのに、子供が目の当たりにしたらどう思うか。

 ……きっとあの時、男児村主もあの場にいたはずだ。母の姿はどのように写っただろうか。


「この間の男の子は、大丈夫だったのよね?」

 男の子、と言われて今度は美蔓の肩が跳ねた。

「か、母さんにも、見えてるの?」

「なにがよ。前に駄目鼻血を流してた子のことよ……」

「ああ、博物館さんのことかーびっくりした。あの人なら大丈夫だって。お詫びの手紙も、お詫びのお菓子も、クリーニング代も貰ったでしょ!」

 美蔓が気丈に説明しても花江の顔色はまだ悪い。

「……その後に容体が急変したり、とか」

「無いってば。スグリちゃんに聞いてるから本当だって」

 母の背をさすってあげるが、どうしても手応えがない。

「大体ねぇ母さん、駄目鼻血って……えっと、たしか、正式には『魔禍濡れ』って呼ばれてるらしいけど、あれは」

「治るものなの?」


 花江は川を睨んでいる。夏の日差しを受けて水面が煌めく。

「じゃあどうして私の親友は死んじゃったのかしらね……」

 この川を伝って、魔禍濡れを起こした友は海に逝った。


「シガやんが死ねばよかったねぇ」

 これまで黙っていた男児村主が怖いことを言い出したから美蔓は驚いた。ちびちびと砕けた赤い果肉を拾って食べる少年は、さながら賽の河原で飛散した屍肉を拾い集めて口に運ぶ悪鬼のようだった。

 美蔓だって、母が彼の死を望んでいるのだとわかってしまった。そうすれば諦めがつくからだ。仕方のないことだったと言えるから。


「……母さんは『魔神』のことを信じてないけど。魔禍濡れって魔神のせいで起こるんだってよ」

「わからない話だわ。魔神なんて、ふざけた名前で……ばかばかしい」

「博物館の人たちはそういう怪物を倒してくれてるんだよ」

 母にも伝わりやすいように、魔神を怪物と言い換えた。博物館の展示で見た姿はそう形容するにぴったりだった。異界性侵略的怪異と呼んでも、きっと母にもピンとこないだろう。

「あの人たちが頑張ってくれるから、海へ行く人はなくなるよ」

「ぼくもがんばる!」

 足元にすがりつく男児村主の頭を美蔓は撫でた。柔らかい髪の感触が指を滑る。


「……美蔓。さっきのやりとりは、お父さんには言わないでちょうだいね」

 怪物を憎む母は、整った顔が不機嫌で崩れたままだ。

「絶対に悲しい顔するから言わないよ」


 そろそろ帰りましょうかと花江は立ち上がり、絵を描いていた子供を集める。美蔓も女の子たちに囲まれたものだから、男児村主も不機嫌な顔をしていることに気が付かなかった。


 ネコの鳴き声がする、と誰かが言ったが美蔓以外は「きのせい」で流した。



 ……。



『お姉ちゃんも博物館に就職したらいいじゃん!』

 電話の向こうで美蔓の妹が笑う。子供の泣き声と、旦那があやす声も耳に入る。

「やだよ。給料はいいらしいけどね、きついみたいだし」

 美蔓も男児村主をあやしている。公園の滑り台の上にふたりで座り、男児村主が足をブラブラさせる姿を眺めている。


『魔神を倒すの楽しかったって言ってたじゃん。あと、農業やる人は体力あるからいけるって』

「父さんが本気で心配してたから。もうあんな顔はさせたくないな~」

『向いてると思うんだけどなぁ。お姉ちゃん、適職診断が警察官だったでしょ』

「覚えてんの? 記憶力よすぎ」

『モルグ市魔神博物館は、新時代の、市民を守るお仕事です!』

「やけに押すねぇ。私には畑がありますから~」

『……実は最近さ、モルグ市魔神博物館のバイト募集のビラがよく入ってるんだ。うちの近辺でも、魔神が出たって話があるから……』


 子供がいるとそういうのちょっと心配になる、と妹がこぼす。警戒するように犬がわんわん吠えている。男児村主は滑り台を降りてブランコに向かっていた。


『ね、お姉ちゃん。お父さんとタッグ組んで、魔神バスター柄本やってよ~』

「名前ダサ! てかお父さんが戦えるの知ってたの……?」

『そういう大袈裟なやつじゃないけど。お父さん、除霊できるタイプの人じゃん。私も実家いる時に金縛りから助けてもらってたから』

「知らんエピソードきたわ……」

『あはは、お姉ちゃんは母さん似だから霊感ないしね。そういうのに関わりない人生の方が楽でいいよー』


 スマートフォンを持つ指先に力が入った。羨ましいと思う気持ちに釘を差されたような気がした。誰も乗っていないブランコがゆらゆら揺れている。


「あんた言ってること矛盾してるよ。博物館は勧めるくせに」

『だって給料いいみたいだし……あ、やば、ちびが泣きはじめたからもう切るね』

「はいはい、がんばってねぇ」

『あっ、切る前にひとついい? うちでネコ飼い始めた?』

「飼ってないけど?」

『うそ、マジ? 鳴き声やばいよ。聞こえてない?』


 聞こえているけど、と美蔓は答える。


『聞こえてて無視してたの!? 大合唱だよ!?」

「そもそもここ家じゃなくて公園だからさ~」

『この数は異常だって。あ、ひょっとして猫の幽霊の声? そっちにネコがいるわけないもんね』

「ところがどっこいネコはいるよ。そっちが地元を離れてる間に、町も私も変わってんの!」

『えー、なにそれお姉ちゃ』


 これ以上咎められたくなかったので通話を切った。通話をはじめた頃は水色だった空が橙色に染まっている。

 ブランコから降りた男児村主が「ながでんわー」と言いながら駆け寄った。しっかり抱きとめると嬉しそうに顔を擦り寄せられる。

 かわいいな、返したくないな。そう思う気持ちは頭を振って追い払う。


「つかれたな」と甘える男児村主をおぶって美蔓は帰途につく。眼下を流れる川辺でスイカ割りをした日がもう昔のように感じられた。村主も「またあの川行きたい」と背中でごねている。地元が好かれるのは悪い気分ではない。


「ああ、美蔓ちゃんだ。元気してる?」

 自転車を押して山道をのぼる駐在さんと出くわした。蝉の声とネコの鳴き声がやかましい。

「え~元気してないように見えた?」

「そんなんじゃないけど、近ごろは下で見かけないからさ」

 そこまで言って、駐在は美蔓の背で眠ったふりをする男児村主に目を向けた。

「あれ美蔓ちゃん、そんなおっきな子供いたっけ?」


 思わず「見えるんだ?」と言いかけて、美蔓は口をつぐんだ。


「似てないでしょ。預かってる子だよ」

 ウソは言っていない。疑問を挟まれる前に美蔓から質問を向ける。

「駐在さんこそ、こんな山でどーしたの。事件?」

「そんな大したもんじゃないよ。井戸端会議連中が『山にネコがいっぱい居るから変!』ってうるさくって。見回りだけでもしておこうとねぇ」

「ネコ? ああ、まだみんなには珍しいのかな。大丈夫だって、ネコは」


 ネコの声がうるさい。

 ここ最近ずっと、柄本家の周りだけでずっと。


「……ネコも虚の使いだって、父さんから話があったと、思うけど」

「そうは言うけど都会でもネコは害獣扱いだよ。ここいらで急に見かけるようになったのも、誰かが捨ててるんじゃないかって。地縁市にネコはいないしね」


 タヌキとネコの争奪は決着がついている。ふたつの種族はかねてよりこの地を守っている。その物語が浸透するまで、まだ年月を必要とする。

「でもネコは、大丈夫だから」

 念を押すように繰り返す。ネコは大丈夫。ネコが見ているから大丈夫。


 ……ネコたちはずっと、柄本美蔓の住む日本家屋を見守っている。いや、違う。彼らが見守っているものは。視線を追って美蔓は林を振り返った。幾重もの金のまなこ。背負う男児村主は爪を立てる。


 互いに警戒しているのだ。そうだ、己は長らく町に下りていないと美蔓は気づく。この山と男児村主の間で「柄本美蔓」の世界が完結しつつある。取り込まれているという言葉がどうしてもちらつく。


「美蔓ちゃんっていいお母さんになりそうだね。あ、これって何かしらの失言になっちゃうかな。そんなつもりじゃないから」

「ん、だいじょーぶ。私にとっちゃ褒め言葉かな」

「助かるよ。それじゃあ帰り道気をつけて」


 駐在さんの笑う声はすぐに遠ざかる。何匹かのネコが彼の後を追い、それ以外はまだこちらを見つめていた。美蔓の背にいる男児村主はずっと黙っている。

 ネコは遠い場所に居る者ほどうるさく鳴く。警句を向ける先がタヌキであれば「ネコとタヌキは仲が悪い」と笑っていられるのに。


「きみってさ」

 背負いなおして、少年の冷えた温度を確認する。

「動物の言葉は分かる?」

「わかんない。わかったほうが、みつるの役に立てる?」

「……いいんだよ。役に立つとか、気にしなくて」


 山の道の伸びた影、蝉の声、空を覆うトンボの群れ。離れて歩くネコたちに「大丈夫だから」と小声で唱え続ける。距離感が狂っている、と美蔓は自覚している。何が大丈夫なのか分からないまま「大丈夫だから」と言い聞かせている。


「スグリのご両親って、どんな人だったの」

「土砂崩れでしんじゃったからわかんない」

「そうなんだ」

 間違っても「母親に似ている」と言われなくて良かった。これなら今後もとしてやっていけそうだと美蔓は考える。

「みつる、ぼくのこと知りたいの? それとも」

 男児村主の問いかけは、ネコが「ギャア」と強く鳴いたから続かなかった。



 ……。



 何事にも例外は訪れる。父の気まぐれは、かくして平日の夜の中庭で。


 喧騒の怒声。続けざまに、ネコの騒ぐ声がうるさい。赤子の群れが泣いているようで耳を塞ぎたくなる。虫の声は聞こえない。

 風呂あがりだった美蔓は、声を聞きつけて裸足で中庭に飛び出した。


 破魔矢を片手に握る柄本晃正。彼の目線の先には、殺気を露わにした男児村主の姿があった。少年は小さな獣のように見えた。

 このふたりが出会うとは思わなかったので美蔓は面食らう。男児村主が父を避けているような気配があった。父もまた、日ごろはお天道様が坐す時分にしか中庭を訪れないくせにどうして。


「父さん……!?」

「下がっていなさい、美蔓」


 いつもの柔らかい声を忘れたような張り詰めた気配。父の手に弓はなく、矢だけを握っている状態だ。とっさの行動だったのだろう。

 男児村主も四つん這いのまま、髪を逆立てるような勢いで男を警戒している。その様子は、晃正を殺すというものよりは、むしろ。


「待って父さん! その子は『村主』なんだって! スグリちゃんの一部! ほら、四方矢山の神さま!」

 叫ぶと、晃正は驚いたように美蔓を見て、そしてまた男児村主を見やった。


 一瞬視線を外されたことで緊張の糸が切れたのだろう、男児村主は大泣きしながら縁側にのぼる。そのまま家の中へ転がり込み、トタトタと走る音。


「美蔓、どうしてあの子を……」

「ご、ごめんって、ずっと黙ってて。でもあの子は、悪霊とか、そんなんじゃないから! そんなんじゃないんだからね!?」


 言い残すと美蔓は男児村主を追いかけた。なだめてあげないといけない。父親に説明をしていなかったと、己の落ち度を謝罪しなくては。


 男児村主は、美蔓の部屋の姿見の側に蹲って泣いている。

 やっぱり最初に見つけた場所と同じ位置にいた。


「あの、ごめんね、うちの父さんが」

 開いた戸から廊下の灯りが差し込む。部屋に踏み入れると脱ぎっぱなしだった自分の服が足に絡んだ。それをつま先でおいやって、美蔓は姿見の前に座った。


「驚かせてごめん。父さんには村主のことを黙ってたんだ……私がちゃんと説明してなかったから、」

「いや、いや、こわい、やだ」

「え? 父さんにもう何かされた? ごめん、謝らせるから」

 男児村主の両目からは涙が溢れ、小さな体はずっと震えている。

「くぅ、ぅぅ、おじさん、おこってる、やだ。ゆるしてゆるしてゆるして」

「父さんは怒らないよ。やさしい人だから。一緒に会いに行こう」

 美蔓は姿見の後ろに手を差し伸べる。男児村主はそれを跳ね除ける。


「ぼく、ちゃんとカミサマやるから、いたいこと、う、しないで」

 何を言っているのかよくわからなかった。

「おじさん、おじさん、ぼく、やだ、うあ、ごめんなさい、ゆるして」

 男児村主は泣いている。


「父さんはそんなことしないよ?」

 嫌な予感に臓腑が冷えた。どうしても声が震えてしまう。それは恐怖からの震えではない。

「する、ぜったいする。おじさんたち、みんなして。おこって、ヒッグ、わらうんだ。やだよ、なでないで」

 全身が総毛立つ感覚。見たこともないはずの怪物の顔が思い浮かぶ。

「ぼくはみんなのために、しねるのに」

 少年がどんな目にあったのか思い至る。それは憶測の域を出ないが、しかし。


 それ以上に。


「みつる、あのおじさん、しかって。どうかすぐりを、なでないでって」


 ダメ押しの一言だった。

 美蔓の体温が一気に上る。


「父さんはそんなことしないッ!!」


 怒りから大声をあげた。男児村主が大きく目を開く。


「父さんはちがうッ、あんたの村の男とはちがうッ!」


 やさしく、ただしく、清らかな存在である。

 どこぞの神が父を貶めるなんて許されることではない。


「私の父さんはッッッ!!」


 ガタ、と姿見が音を立てた。

 目を向けると鏡に激高する怪物が映っている。

 恐ろしい形相をした己の顔が暗闇に浮かんでいた。


「あ……」


 美蔓は姿見の後ろに視線を戻す。

 そこにはもう男児村主の姿はなかった。


 静寂が辺りを支配する。遠くで小さく虫の鳴き声。安堵を含むネコの声。

 夜の間、男児村主は美蔓の布団に戻ってこなかった。



 ……。



 翌日。柄本家に、唐突に"今村主"が訪れた。


「えへへ、既読つくのが待てなくて来ちゃいました~!」

 スグリは麦わら帽子をかぶり、花柄の白いワンピースを着ている。カーキのジャケットはどこにもなく、仕事で訪れたわけではないようだ。

「どうしてうちに……」

「"村主あのこ"を迎えに来たの」


 麦わら帽子はスグリの目元に影を落とす。

 美蔓は何も言えず、唇をぎゅっと強く結んだ。


「だいじょうぶだよ美蔓さん! べつに、怒ったり責めたりするつもりで来たんじゃなくてね!」

 スグリが、自分の腰にすがりついている男児村主の頭を撫でていた。この時に美蔓はようやく男児村主の存在を知覚する。

 とうの少年はこちらに目を向けようともしない。セミの声がうるさい。ネコの声は聞こえない。


「というかわたしが謝らなきゃだね。預かってくれててありがと! いないのは気づいてたんだけどさ」

「あのさスグリちゃん!!」

「わひゃ!」

 明るく驚いてみせるスグリとは対照的に美蔓の顔は険しい。声は揺れるし喉はカラカラだ。


「……こんなこと聞いていいのか、わかんないけど」

 耳の奥にはまだ少年の怯える声が粘つきまとわりついている。

「自分の村で、大人に乱暴されてなかった?」

「誇らしいことに、村人は自戒ができるのだよ」

 スグリは男児村主の頭を撫で続けている。宥めるように、慰めるように。

「わたしは大丈夫。みんなのおかげ。心配してくれてありがとう」


 やりきれない思いで美蔓は拳を握りしめる。鏡に写った怪物を思い出す。


「ごめんなさい。私、村主に酷いことを言った」

「それは村主もだよ。ごめんなさい。美蔓さんのお父さんを侮辱したね」


 ふたりは少しだけ沈黙する。

 外は蝉の声の嵐、あるいは近づく台風による風の音。

 柄本家の周りはいつだってうるさい。


「晃正さんにも謝った。わたしからになっちゃったけど」

 スグリのワンピースの腰元にシワが寄った。しかしそれはゆっくり緩み、男児村主の姿は、何を告げることもなく消えていく。

 美蔓はそれをぼんやりと眺めている。結局、何もできなかった。


「お父さんについて怒ることができるの、ちょっと羨ましいですなぁー」

 場を和らげるためにスグリは笑う。

「……あの子のご両親は土砂崩れで亡くなったんだっけ」

「え、そこまで聞けたんだ!? いいなー初耳だよ」

 そこまで許してくれていたのに、美蔓から彼を突き放したのも同じだった。

「私、私は……スグリちゃんと、ただ……」

「わたしも一緒! 仲良くしたいな。おともだち、できるの初めてで!」


 スグリが力強く言ってくれたのに、美蔓は憔悴した笑顔しか返せない。

 差し伸ばしかけた白い手をスグリは引っ込め、ひらひらと振てみせる。


「それじゃあ"市民"、また近いうちに会おう!」


 神さまを見送り、美蔓はひとり玄関に立ち尽くす。

 手で口元を覆い、どう告げるのが正解だったのかと自問する。


「美蔓」

 廊下の奥から晃正が姿を見せた。洒落たデザインの紙袋を下げている。

「さっき博物館のスグリちゃんが来てね。水ようかんもらっちゃったよ」

 父は昨夜のことを追求しない。いつも通りのどこか抜けた顔だ。しかし、きっとスグリから聞いてすべてを知っているのだろう。それをわざわざ告げずにやさしく続ける。

「冷やしてから食べよう」

「そうだね……」

「あと、母さんが麦わら帽子さがしてたけど、知らないかい?」

「麦わら帽子?」

「カカシ用に準備してたやつだよ」

「ああ……」


 スグリの麦わら帽子は、男児村主にお供えしたものとはリボンの色が異なった。そもそも男児村主に渡した帽子は子供サイズだ。


「……村主にあげたよ」

「え~?」

 父は笑い、それ以上追求しなかった。「冷蔵庫、冷蔵庫」と言いながらリビングに消える。


 父に続こうと思い、美蔓は顔をあげる。

 しかし玄関の姿見に映る己の顔を見て足が竦んだ。

 怪物の面影がどうしてもちらつく。


 何が魔神だ、何が怪異だ。本当におそろしいものは。


『みつるといると楽しいねぇ』

 麦わら帽子をかぶって笑う少年の顔は、罪悪感でもう思い出せない。

「……ごめんね、"村主"」


 ニャアと鳴くネコの声が美蔓の背を刺す。

 こうして、柄本美蔓は神から解放されたのであった。

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