第28話「置き傘事件」
『警告:開いている間は記憶が消える』
奇妙なテープが持ち手に貼られたビニール傘がある。その異様な文字列に面食らい、惑羽イチトは思わず周囲を見渡してしまった。
場所は博物館のバックヤード、職員用通路の一角。
己以外に誰も通らぬ朝の時間。
不信感を胸に抱き手に取ってみれば、それは普通のビニール傘。しかしイチトが小脇にかかえている雨合羽と違って濡れていない。
つまり誰かの
「おいイチト~立ちっぱなしやめろよ。つっかえんだろ」
背後から枕木ハバキの声。イチトは「すまん」と呟き傘立てから離れた。奇妙なビニール傘は手に持ったまま。
「アンタ『傘』派に鞍替えかよ?」
イチトの手元を見たハバキが不機嫌そうに眉を寄せて文句をつける。
「この間、散々ビニ傘について文句言ってたじゃねぇか!」
惑羽一途が雨合羽派であるというトピックは、梅雨の時期の館内でちょっとした広がりを見せていた。やっぱりアイツは変わっているよというレッテル込みで。
イチトはイチトで、いまだ見つからない同居人の傘や、店先に置いていたら盗られたらしいシガヤのビニール傘について嘆きを返していた。
だからイチトがビニール傘を持っていると誰しも「何かの間違いではないのか」と思ってしまう。今のハバキがそうだ。
「これは俺の物ではないぞ」
訂正するように、柄の部分を見せつけながらイチトは折りたたまれたビニール傘を突きつけた。
「なんだこのテープ?」
持ち手に貼られた『警告:開いている間は記憶が消える』というテープをハバキはすばやく目でなぞり、それから露骨に嫌悪感を浮かべた。
「意味わかんねぇこと書いてあんな」
ハバキはイチトから傘を乱暴に受け取ると、なにも躊躇せずに開いてみせた。バサッと乾燥した大きな音が響く。
「おい室内だぞ」
イチトの注意にハバキは応えなかった。
ぼんやりとビニール傘越しに天井を見上げている。
視線の先には、剥き出しの蛍光灯と、館内出入口に必ず記される退魔の印。
「……オレ、アンタにディスク返してもらったっけ?」
急に飛んだ話題にイチトは「ディスク?」とオウム返しをするしかない。
「急になんだ。どのディスクだ?」
「プロレスのやつ……」
ハバキは首を広げた傘に向けたまま目を閉じた。何かを思い出すような仕草に見えた。
「プロレス? ああ、あれか。とっくに返しただろう。ゴールデンウィークあけだったか」
その日のハバキは機嫌がよかったということもイチトは覚えている。
「そうだっけ?」
ハバキの口調はぼんやりとしたまま。天井からイチトに視線を下ろす。弱った眼をしていた。
「覚えてねぇや」
イチトは傘の持ち手のテープを思いだし、慌ててハバキの手から傘をはたき落とした。
「いってぇ!? 何すんだよあぶねぇな!」
ハバキが元気よく文句をつける。傘を開いる間の大人しさは霧散した。
イチトが無言でハバキを見つめるので、ハバキも思わず押し黙る。遠くで小雨の音がする。
「んな顔してどうしたよ……」
「『記憶』は無事か? プロレスのディスクのことは覚えているか?」
「なんだよアンタ興味でたのか? 1回貸したじゃん、でも反応微妙だったからさ。あんま好きじゃねぇのかなって!」
ハバキは途端に上機嫌な顔を見せる。彼の三白眼は感情を2割増しで大げさに見せることに寄与していた。
「……覚えていたか」
ハバキの記憶は戻っているようだ。イチトは安堵のため息をつく。
「別の試合のやつ貸したろーか! ちょっと時間長いけどいい試合があるんだよ」
己の身に起きたことを知らないのか、ハバキは上機嫌でイチトに絡みだした。
「ちょっとー! こんなとこに傘転がさないでほしいんですけど!」
叱責する少女の声が響く。スグリが、広げられたまま無様に転がるビニール傘を己の細身の傘で指している。
「物は大切にしないと神様に怒られるよ~?」
スグリは自分のレモン色の傘を傘立てに、そして慈しむように粗雑な扱いをされたビニール傘に手を伸ばす。持ち手のラベルには意識を向けていない。
「待てスグリ、それは」
イチトの制止は間に合わない。スグリもまた、ビニール傘を掲げると、天井を見上げた。
それっきり黙ってしまう。
ハバキと同じように、ビニール傘越しに天井を見上げたまま。
「おいスグリどーしたよ?」
黙りこんだスグリを不気味に思ったのか、ハバキが控えめに声をかける。
「……やだ、きょう、調理実習の日なのに」
スグリの声はぼんやりしている。目線は天井からふたりの男へ。チャコール色の瞳が、イチトとハバキにゆっくりと向けられる。
「すみません、道案内をお願いしてもいいでしょうか?」
「はぁ? 道案内?」
「御堂に戻らないといけなくて……あれ? そもそもどーしてわたし、外に出てるんだろう……」
室内なのに『外』と言う。不安そうに周囲を見渡したのち、怒った顔でふたりの男を見据えた。
「お兄さんたちが此処に連れてきたの? 誘拐? わたしの世話役はどこ?」
イチトとハバキのことをまるで知らない相手のように接するので。
「何言ってんだよスグリ」
ハバキが引き笑いをする。その言い方に、明らかに侮蔑の色が含まれていたせいだろう。
「馴れ馴れしいぞ市民」
口調が変わり、
ハバキが困惑の呼気を吐く。続く言葉が出てこない。
空気が冷えていく。村主が何らかの威圧の手段を取っている……彼女の力の仔細をイチトもハバキも知らないが、己の身に起きていることくらいはわかる。
「やはりあの傘」
イチトはスグリから無理やりビニール傘を奪いとると投げ捨てた。
スグリはたいして抵抗もせず、パチリと分かりやすく瞬きをして、それからイチトを恐る恐るといった様子で見上げた。
「い、イチくん? どうしたの? 顔こわ……」
「いやいや、スグリこそどうしたんだよ!?」
ハバキが勢いよくツッコミを入れた。それと同時に場を支配していた緊迫感が解ける。スグリが威圧を解いたのだろう。
外の雨の音がイチトの耳にも届く。雨足は先ほどよりも強い。
「わたし怒られることしてないよ! 今日は、まだ!」
「はぁ!? さっきの覚えていないのかよ!?」
「あー、わたし、また奥に追いやられてた!? ごめんごめん、
ごめんなさい、と両手をあわせてウインクして。茶目っ気たっぷりに謝るスグリは、いつもの明るく気さくな
「いや、先程のは前村主ではなく……」
ハバキの記憶は一ヶ月前まで。スグリは
『警告:開いている間は記憶が消える』
その言葉通り、透明な傘にごっそりと記憶が削り取られている。
「ハバキ、スグリを連れて医務室へ行け」
「なんでだよ。アンタが連れて行けよ」
「お前も念の為に診てもらうんだ」
圧をかけて命令すれば、珍しくハバキはすぐに察した。
「ひょっとして、オレもスグリみたいになってたのか?」
「なっていた。俺がプロレスのディスクを返したことを忘れていたぞ」
「オレの記憶喪失の規模、なんだかちっちぇな……」
ハバキは異変のスケールの小ささを不満がりながらも、スグリの腕を引いて通路を後にした。
1班のふたりは仲が悪いように見えて、有事の時はフォローしあえる関係だ。イチトも安心して託すことができる。
「さて……どうするか」
広げたまま転がっているビニール傘をイチトは眺める。
あれは神器ではなく
奇妙な力を宿した道具はこの世に数ある。
日本政府は魔神と交戦機能を有するものを『神器』、そうでないものを『曰く付き品』として区別している。
そしてこの傘は博物館で管理しているものか、それとも誰かの私物なのか。
職員用傘立てに潜んでいた理由は分からない。
「おはよーイチトくん」
思考の海に潜っている間に、シガヤが遅れて姿を見せた。
「なんでビニ傘なんて観察してるワケ?」
シガヤは己のビニール傘を傘立てにつっこみながら呆れ笑いを漏らす。「相変わらず意味わかんないことしてんね」なんて軽口を添えながら。
――ほんの一瞬、イチトの好奇心が、あらゆる自制を上回ってしまった。
スグリもハバキも
安全性が保証されているから。
そんなくだらない言い訳を用意して。
シガヤがビニール傘を拾う行為を、イチトは止めなかった。
かくしてシガヤも同じように、ビニール傘越しに天井を見る仕草を見せることになる。
「……。」
視線の先は、剥き出しの蛍光灯、打ちっぱなしのコンクリート、天井を這う通気口。ここはなんの面白みもない、モルグ市魔神博物館のバックヤードだ。
「オレ、戻ってきたの?」
シガヤは目線を室内に下ろすと、辺りをゆっくりと見渡した。表情は怪訝よりも、不安の割合が強い。
「みんなはどこ……」
「みんな、とは?」
問いかければ、シガヤは泣き出しそうな顔になる。灰色の目が、茶に焼けたイチトの目を捉える。
「まさか、戻ってきてないの?」
イチトは否定も肯定もしない。わからないから。今のシガヤが、何時の真道志願夜なのかを。
「ウソだ、ウソだ、こんなの。だって、オレが遺るって決めたじゃん……」
シガヤはビニール傘の柄をぎゅうっと握りしめた。警告のテープは手に隠れて今は見えない。
「『逆』だったってこと?」
思案の独り言は絶望の色。己のあらゆる失策を認め、ぐらりと揺れるあの日の少年の声。
「あの、すみません。ここは日本で……あってますか」
奇妙な質問だった。尋ねていながら、
「ああ」
イチトは手探りでシガヤの記憶レベルに話を合わせようと試みる。
「ここはモルグ市だ。きみの名前と、学年は?」
警察官然として、イチトは室内で傘をさす男につとめてやさしく問いかけた。
「じ、ジンゼン中、2年の、真道志願夜、です」
十年以上もの記憶が
イチトも流石に目が眩む。だが困惑を表に出す前にシガヤが崩れて笑いだす。
「ハ、ハ、またオレだけ、帰ってきちゃったのかよ……!」
「きみに何が起きたんだ?」
これは帰還時の記憶の再生だろうとイチトは把握している。
だがイチトの問いかけにあの日のシガヤは首を振るばかり。
「2年2組、オレのほかに、誰も帰ってきていませんよね。オレが遺って、みんなが助かるようにしたはずなんだ! 魔神もオレを食べるつもりだったのに? これじゃあ、オレが、みんなを騙したことになるじゃん! 俺がみんなを生贄にして、帰ってきたことになる……」
シガヤは喚き、落ち込み、その場に座り込んだ。
「オレが死んでそれで
震える手から曰く付きのビニール傘がゆっくりと落ちる。
「まーた皆に謝んねーといけねーのか……」
憤りで濁った彼の言葉は、いつものシガヤの声色で発せられた。
そうしてシガヤはゆっくりと顔を上げる。傘の支配エリアから抜けたので、もうあの日の後悔はシガヤの顔に遺っていない。
「っ、なんだろ、立ちくらみしたかな……イチトくん?」
イチトはシガヤに声をかけることができなかった。無言で立ち尽くす。
「だ、大丈夫だヨ。ただの立ちくらみだって。そんなに心配してくれるなんて嬉しいけどさ?」
己はとても酷い顔をしているのだと、灰色の瞳越しに解ってしまう。
「俺は、シガさんが……こうしてこの場にいることを……」
イチトは、声が揺れないように気をつけながら言葉を続ける。
「イチトくん?」
首を傾げるシガヤは、分からなくていい。分かってもいい。理解した後に怒るだろうか、失望するだろうか。
「……俺にとって、シガさんの判断は間違っていなかったと、あの日のシガさんに伝えてくれ」
「え、どしたのマジで。話がまったく見えないんだけど」
一方的な謝罪なんて困らせるに決まっていると、自覚できてもイチトの口は止まらない。
「くだらぬ好奇心で踏み込んでしまって、本当に申し訳ないと思っている」
イチトは広げっぱなしのビニール傘を拾うと、皆と同じように掲げた。
正確には、
ビニール傘越しの世界は室内なのに青空が見えた。
それは一瞬で終わった。
シガヤがイチトの腕を蹴り飛ばしたのだ。
不意打ちで手放したビニール傘を黒く細い脚が踏み潰す。傘の骨が折れる音が続く。癇癪のような破壊音。
「また忘れたら泣くから」
そうは言うけど泣きそうに思えない気丈な声。強い閃光にイチトは目が眩む。その光は何色か?
――気がつけば、イチトは床に転がっていた。
シガヤが不安そうに手を伸ばしている。
イチトは強襲を受け流せなかった己を恥じた。
「急にすっ転ぶからびっくりしたヨ」
嗤うシガヤに邪気は無い。イチトは素直に手を取ると、立ち上がった。
「シガさん……壊してよかったのか? あの傘、博物館の管理品じゃないのか」
「え、どの傘?」
「持ち手に妙なラベルがついている……」
シガヤは覚えがないのか、困ったように振り返った。もちろんそこにもう傘の残骸は無い。
「妙なラベルがついてる物品は、だいたい館長の私物って聞いたヨ?」
「そうか。あのひとは職員への嫌がらせが大好きなんだな」
イチトはシガヤを伴って医務室へ向かおうとする。シガヤもまた、イチトが昏倒したので己が付き添う側だと思っている。
「シガさんも念の為診てもらえ。スグリと、ハバキと、同じ目にあっている」
「なんの話? それよりイチトくんはどうなの。寝不足? 栄養不足? 夏バテ……にはちと早いか」
「俺はシガさんに蹴られただけだ」
「覚えのない罪状あげるのやめてくんない!?」
いつそんなことしたっけと可笑しそうに笑うシガヤの横顔を眺めながら、イチトは通路を後にする。
職員用通路は人の行き来が増えていた。開館時間も近いせいか、大勢の職員がそれぞれの傘を畳んで傘立てに立てて去る。
外から連れた雨の湿り気、そして雑音。今日の天気予報は雨のち晴れ、梅雨はそろそろ開けるらしい。
くしゃくしゃになったラベルだけが玄関横のゴミ箱で見つかるが、その日のうちに処分されたという。
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マジックアイテム『コントロールエックス』
非神器につき異界区分なし、館内で行方不明。遺失届は提出無し。
(元ネタ・開けるたび記憶が消えるコインロッカーの写真)
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