博物館・通常業務-後編

第19話「ブレイク・ザ・ブライトゴールド・ブレインサイクロン」

「わかってるとおもうケドねつうじょうはべつめいこうしんきとよばれるじょうたいになるほろかがのまかぬれはいちばんやばかったケースがこうとまじんしんこうのときにしきけいとうがくずれたのはまさにほろかがのあくえいきょうさいがいほうどうセンターのひとがあれたしかオレレポートかいたきがするんだよねほらいちとくんのときとおんなじように……」


 モルグ市魔神博物館、早朝5時。

 駐車場に1台のバンが飛び込んできた。


 ぐわんと大きく1回揺れた車体を見て、駐車場でサボっていた夜勤組が「おー」と腑抜けた声をもらす。

 今宵のモルグ市は静かだった。

 魔神は出ず、朝焼けの濃い橙色に向けて、カラスが高く飛んでいく。


「あれって出張いってた昼組だよな?」

 夜勤組はそれぞれ、タバコを携帯灰皿にしまったり缶ジュースを飲み干したりして"騒動"に備える。

 すぐにバンの扉が開き、騒動もんくと共に回収員が飛び出してきた。

「うぉおーいそこに居る"3班"! 手伝え! シガヤが魔禍濡れだ!」


 枕木ハバキの声に、カーキのジャケットを羽織った3班の3人が肩をすくめた。

 ひとり、灰色ジャケットを着た青年――回収員"4班"が「いってらっス」と手をふるも「いちぬけ禁止」と首根っこを掴んで同行させられた。


 ハバキは「医務室運べ!」と言い残すと博物館裏口に駆けていく。

「てめぇは運ばねぇのかよ!」

 ツッコミの声にハバキは「先に事務に連絡してくんだよ!」と振り返らずに声を荒らげた。

「きょう鈴木さん休みだから気をつけてね〜」

 館内に入るために除染作業も挟むだろうから、ハバキは当分戻ってこないだろう。


 やがてバンの助手席から、真っ青な顔をしたヤマヅ副館長が下りてくる。

 後部座席からはスグリが、白いタオルでぐるぐるになったミイラのような誰かを駐車場のアスファルトに引きずり降ろした。


「それダレ?」

 尋ねる回収員に、スグリがむっとした顔で「シガやんだよ!」と返す。彼女も顔色は悪いが、ヤマヅほどではない。


「しがやセンセ、また魔禍濡れしちゃったの」

 笑って尋ねる白髪の男回収員3班に、スグリはぷぅと頬を膨らませて詳しくは語らない。

 見下ろせば、頭付近に覆われたタオルはオレンジ色に染まっていた。

 タオルの下でシガヤはとりわけ嬉しそうな声をあげる。


「やっぱりほしいのはひとでだよネきしがただったらおれはあばれてだれかをなぐるぜおまえさんらはそれをおさえるじめんにはりたおしてうごかないようにするいちばんかしこいたいしょほうだこのようにいかいくぶんによってたいしょほうはことなりますほらほらメモとれいちとくんおまえさんのためのこうぎだよどうせわかんないっていうんでショまったくオレが1から10までおしえてあげるヨしょうがないにゃあオレほらあたましかとりえがないもんうちのこうこうからこうだいいったのオレだけなんだよすごいことだヨだからなにってかんじだけどな」


 シガヤの終わらない語りが続く……軽い気持ちで尋ねた回収員たちだったが、異様な雰囲気と後悔がまざりあいどんどん顔色を悪くしていった。


「これ聞いて大丈夫なやつ!? 内容が半端に理解わかるからいやすぎるぜ!」

 にわかに危機を覚えた黒髪の青年回収員3班が焦り声で耳を塞いた。

ってまずいよね。ずっと聞いてたの? 黙らせればよかったのに」

 赤髪の青年回収員3班がやさしく、しかし物騒にスグリに問いかける。

「黙るとしんどいってシガやんが言うんだもん」

「補水液での中和はしなかったんスか?」

 灰色ジャケットを着た短髪の青年回収員4班が指摘するが、スグリはぶんぶんと頭を振った。ボサボサのおさげがあわせて揺れる。

「出張だよ? 持っていくわけないじゃん!」


 タオルぐるぐる巻きシガヤを囲んで立ちつくす回収員たちを手でかきわけ、惑羽イチトがアスファルトに跪いた。鮮烈なオレンジ色を反射したようにも見える、焼き尽きた茶の眼は険しい。

「失礼する」

 イチトはシガヤを抱えあげると、急ぎ足でバックヤードへ向かった。


「うわ、あのひと力持ちだね!」

「ファイヤーマンズキャリーってやつっスよね?」

「そこはお姫様だっこやれよ~」

「成人男性を横抱きは腰に負担が来そうだなぁ」

 

 去るイチトを見送りながら物見遊山の夜勤組。

 そこにフラフラとヤマヅ副館長が歩み寄る。


「あ、不座見さん、出張おつかれでーす。おみやげください!」

「今回の魔神ってHk型だったんですね。ご愁傷さまでした」

「つーか顔色悪いですよ。副館長も魔禍濡れにあてられちゃいました?」

「回収員全員揃ってるなんて超レアケースっスよ。あとで、全員で、記念撮影しましょ!」

「ええい、囲うんじゃない。質問には順番に回答する……」


 顔色が悪いままのヤマヅは、口元を抑えてその場にうずくまった。

 あわてて夜勤組4人が副館長の細い背を思い思いに撫でて宥める。

 状況を見ていたスグリが「副館長のそれ、ただの車酔いだからあんま心配しなくていーよ!」と呆れた声をかけた。


「車酔い!? も~、不座見さんってばオーバーな」

「……貴様らにも忠告しておこう。惑羽一途にハンドルを託すな……」

「それなら副館長か枕木くんが運転すべきだったのでは?」

「私は昨日の魔神戦で、枕木ハバキは不眠で体調不良だったんだ。背に腹は代えられない」


 スグリが黙って荷物を下ろす中、回収員に囲まれながらヤマヅは説明を続ける。

「おみやげは買う暇がなかった。真道志願夜のせいにしなさい」

「急いで帰ってきたんならしょうがないですよ。でもどうして早朝に、かっ飛ばしてまで? 魔禍濡れごときで大げさな」

「次。今回の魔神はHk型じゃない。Sd型とKh型だ」

「んん?」

「次。顔色が悪い原因はもう言った」

「ア、これ質問した順から答えてるな。全部覚えてるのすご」

「次。記念撮影はしない」

「え~!? そんなこと言わずと~りーまーしょうよ~~~~! いつ遺影になるのかわからないんスよ!?」

「貴様はいつでも不吉なことを言う。次、魔禍濡れごときと誰かが言ったが」


 ヤマヅが言葉を切ったので、周囲を囲う男4人は黙り込む。

 背後でスグリが「シガやん荷物多ッ」と愚痴をこぼしながらアスファルトに旅行鞄を並べていた。


「レアケースだから、博物館で記録をしたいと煩くて。真道志願夜本人が」


 夜勤組の3班たちは、顔をみあわせると、「狂ってる」とため息をついた。

 ひとり、灰色ジャケットの青年は「そうスよねぇ、まどうパイセンなら、そういうのはキッチリ記録しておきたいっスよねぇ」と満足そうに微笑んだ。



 ……。



「すっげぇ当たり前のこと言うけどいいか?」

「ああ、忌憚なき意見を聞かせてほしい」

「こんな時間に、医務室の先生は居ねぇ」


 ハバキの指摘に、医務室にかかった時計を見たイチトだったが、そのまま無言でベッド上に視線を戻した。

 白いシーツの上には頭部をオレンジ色に染めるシガヤが転がされている。

 イチトはベッドサイドの椅子に腰掛け、ハバキは扉横の壁に背を預けていた。


「……結局、一晩経っても落ち着く気配はないな」

 シガヤの体表に浮かぶ橙色の汗をイチトはタオルで拭う。甲斐甲斐しいなとハバキが文句をつければ、イチトよりも早くシガヤに次の波が来た。


「はなえさんないてたネオレひとのおやなかせるのだいとくいなんだよねさいあくだよはなえさんもうみにいくなってひっしでほんとかわいそうみなんてジエンしからどれくらいはなれてるとおもうあのやまからくだるかわがだこうしてけんをこえたさきのうみにながれこむんだそこでなくなったひとのきろくもあったとおもうけどだめはなぢでさくらんしてゆくえふめいになってしたいでみつかるなんてよくあるわけだしどうしてみんなしてまかぬれでしぬことはないなんてむせきにんにいえるんだろうねにじひがいさんじひがいよじひがいアハハうみにいくなっていちとくんがいるかぎりムリなのに」


 シガヤの妄言を、イチトは薄く微笑んで受け流す。たった一晩でこの状況に順応してしまった。

 一方ハバキは、薄笑いを浮かべるイチトの横顔を見て引いていた。否定も肯定もない、相棒の位置にいる男の気持ちが分からず、おそろしささえ滲んでくる。

 まるでシガヤの流すオレンジ色に誘発されるように。


「……花江さんが一番ビビってたよな。魔神なんていないって突き放したくせに、魔禍濡れなんかに敏感でよぉ!」

 平常を取り戻すため、わざと明るい声で早口がちに語るハバキ。

 世間話を受けて、イチトはゆっくりと扉側に首を向けた。

 

「ところでハバキ。魔禍濡れって何なんだ?」

「は? アンタ、知らずに今までいたのかよ? この仕事についてんのに?」

「まかぬれはねぇさいしょにきょうとでていぎされたことばでサにほんせいふがおととしにさだめたあたらしいことばだからしらなくてもむりない」

「シガヤ、アンタはいいから……」

「ちほうによってよびかたはいっぱいあっておれのじいちゃんばあちゃんちのちかくじゃシンプルにのろいってよばれてジエンしいったいはだめはなぢこことおなじよびかたをするのジエンしよりひがしがおおくて」

 シガヤは常よりおしゃべりだ。異常状態がそれを加速する。

「どうしてモルグしでこのよばれかたされてないのかあいだにやまがあるからそこがわかれめかなこんどしらべてみようオレへのしゅくだいハバキくんもガイドべんきょうちゅうでしょうけんきゅういんにきくならオレにまかせなさいモルグしまじんはくぶつかんのひとたちはちょっとかたよってるからサ」


「……いまので分かったか?」

 ハバキの問いかけにイチトは厳かに首を振って答えた。

「なんとなくの把握はできたが、もう少し簡潔な説明がほしい」

 またシガヤが喋ろうとするので、今だけはイチトもシガヤの口を塞ぐ。


 ハバキがようしそれならと意気込んだが「辞書に定義されるような説明が好ましい」と追加注文を受けて「ぐぅ!」と黙り込む。そんな難しい説明がオレなんかにできっかよ、とそっぽを向くしかなかった。



 ……。



「もーすっごい夜だったんだよ。男子部屋がうるさいの! 念仏みたいな?」

 場所はモルグ市魔神博物館バックヤード、回収員待機室。

 部屋にいるのはスグリと夜勤組の3人の青年。


「魔禍濡れなんだしそのうち退くから、ほんとはもっと遅い時間に帰る予定だったんだよ」

 スグリがこらえきれずに大あくびをした。目尻に滲んだ涙を拭う指先は、昨日の魔神戦のせいでガサガサに傷ついている。


「宿泊先、民家だったんだよね。いいなぁ、お泊まり会みたいで楽しそうだ」

 赤髪の青年がやわらかく尋ねる。手には飲みかけのアイスココアの缶。

「えへへ、柄本さんち、皆すっごくいい人でぇー、特にみつるさん! やさしくて、スグリのお気に入り」

 お気に入り、という言葉に灰色ジャケットの青年が文句をつけたそうにスグリを見やるが、彼女はおしゃべりに夢中で気づくことはない。


「バタバタの帰りになっちゃったから、しっかりお別れできなかったな。落ち着いたら、お礼を言いに行かないと!」

「そだよな。泊まらせてもらった挙げ句、魔禍濡れまで起こしちゃって。宿泊費、菓子折り、あとはクリーニング代か」

 黒髪の青年が指折り数えてスグリに笑いかける。しかしスグリは笑い返さなかった。眉をひそめ、言いにくそうに唇をモゴモゴ動かしてから。


「……柄本さんちのお母さん。魔神を信じてない人だったんだけど。魔禍濡れへの、畏れが強くて」


 トーンの落ちた声で打ち明ける。

 スグリは、明け方の出来事を思い出す。


 早起きだった柄本花江は、2階から聞こえるシガヤの念仏を不審に思い部屋を訪れた。

 ――そして橙色に魘されるシガヤを見て、彼女もまた、発狂したのだ。


「魔禍濡れのこと『駄目鼻血』って呼んでた」

「ああ、そう呼ぶ地域もあるよな」

「特にオレンジ色がトラウマだったみたい。親友がね、死んじゃったんだって」


 ――だめ、だめよ、だめ、こんなの。

 シガヤの肌をぬぐって、涙を流して、手を握り祈る他人の母の姿が、スグリには忘れられない。

 ――はやく縛って、海には行かないように。絶対に、海はだめ。

 海なんて近くに無いのに、花江は強く強く懇願した。


「昔おんなじ色の鼻血を出して、海に向かった子がいたんだって……」


 死体は遠く離れた地の『海』に浮いていた。オレンジ色は海水に溶けて消えていた。

 それでも尾頭花江当時の彼女は忘れられないそうだ。

 保健室で見た、燦爛たるオレンジ色を流す親友の目を。


 スグリも忘れられないだろう。

 海はだめだと繰り返す花江を見下ろす、金色燦爛たるイチトの眼を。



 ……。



 背を預けていた引き戸がいきなり開かれたので、ハバキはよろけて乱入者とぶつかってしまう。

 ハバキの肩を受け止めたのは、先ほど駐車場でたむろしていた夜勤組の回収員のひとり……アロハシャツを着た白髪の男だった。


「どーも失礼するよ」

「『ドーズ』、何の用だぁ?」

 不機嫌そうにハバキが問う。ハバキが不機嫌なのはいつものことだ。

 ドーズと呼ばれた夜勤組は首を傾けた。脱色された白髪は横に流れ、ツーブロックの側頭部、刈り込まれた黒髪があらわになる。

「夜間はクマせんせー居ないじゃん? 代わりに見てこいって、副館長命令。どうせ今日はもうあがりだし、魔神もでなくて暇だったし」


 ハバキとドーズのやりとりを見ていたイチトは険しい表情を崩さない。

「妙なあだ名だな……」

 己への指摘だと気づき、ドーズはニッとわらった。カラーコンタクトを入れているのか、両目は鮮烈な紫色だ。


「おにーさんは新入りだっけ。知らないのも無理ないね。ぼくら"夜組"は特別で、おなまえは秘匿事項なの。だからドーズは仮の名前さ」

「しじきくるうさんじゅうよんさいもとりくじょうじえいたいしょぞくのいかんぜんしょくマレビしどうぶつえんしいくばんモルグしにきてからはリストーラーのちコレクターおまえさんいちとくんにねこなでごえつかうんじゃないよかえれかえれ」

「さっき本名は秘匿事項だってぼく言ったよね!?」


 橙色に浮かれるシガヤにノリツッコミを入れるドーズ。一方イチトは、どれが本名だったんだ、どう書くんだと言いたげに眉間のシワを深くしていた。


「とーにかく、かえれと言われても帰んないよ。補水液は持ってきたけどぉ、しがやセンセがやりたいのはコレだろう?」

 ドーズは懐からリトマス試験紙に似たサイズの紙片を取り出すと、おでこにぺたりと付着させた。じわりと色が滲んだ紙はシャーレに雑に放り込んでいく。

「枕木ぃ、このひと夜通し魔禍を分泌してた?」

「あー、多分そう。波はあったみたいだけど……シガヤのやつ、ずーっとブツブツ言うもんだから、こっちは寝不足だぜ……幌加賀型の魔禍濡れって最悪だな」

 愚痴を伴い弱り笑いをするハバキの目元には疲れが浮かんでいる。


「ジエン市でも悪さしたみたいだな。この色の異界は」

「ほろかが」

「シガヤぁまだ喋んないとダメか? もう声かすれまくってるぜ」

「だまってるとあたまばくはつしそうオレのかんがえがあふれてしぬいちとくんうみいこううみ」

「海には行くなと言われただろう?」


 もちろんモルグ市近辺にも海は無い。それは何かの符号だろうかとドーズは疑い、穏やかにやりとりをする2班をそっと盗み見た。

 ――回収員2班のふたりは、期間限定の出向職員。

 国内の魔神研究第一人者と、皇都のエリート警察官を、博物館の館長はモルグ市まで引っ張ってきた。

 魔神戦の腕前は超一流。神器の扱いも卓越している。はじめから、魔神に対応するために生まれてきたかと思うほど。

 そしてふたりのまどうは複数回の異界落ちを経験した帰還者だった。

 

 夜勤組4人の、拗れに拗れて博物館に流れ着いた状況と、系統の違う異質さがこのふたりにはある。


「ほんでぇ、今回の出張じゃ、Hk型の魔神とは戦ってないんだってぇ?」

 ピンセットで試験紙をつまみ上げながらドーズは抑揚をつけて尋ねる。

「そう! なん! だよ! 今回相手した中に居ないんだぜ。だからワケわかんなくてよ!」

「……溜まってたんじゃ?」

「やめとけよドーズ軽率な下ネタ言うとイチトが怒るぞ多分」

「いや、気にせず続けてくれ」

「下ネタを?」

「事情聴取を、だ」


 意外と軽口が通じる相手なのかもしれない。そうドーズは考えながらも、リクエスト通りに"事情聴取"に付き合う。


「副館長から聞いたよ。1班と2班は別行動だったって?」

「イチトたちがドアー内の探索で、こっちが拠点防衛きょてんぼーえーな!」

「そんじゃドアー探索中に他の魔神を相手にしたんだろ? 2班の報告漏れじゃない。ほら、にーちゃん言ってみ? ぼく怒んないから」

 ドーズはシガヤの額に指をのせ、滲む体液を弄んでいた。

「……怒らないと言ったな?」

 だからイチトがそう言った時、どんな顔をしていたのかを見ていなかった。笑った声に聞こえたから、表情を見逃したのは痛恨だった。


「シガさんを乗っ取ろうとした魔神を殺すためだった。俺の第壱神器・公色警棒で、オレンジ色を最大出力で照射した。シガさんの頭に向けて」

 罪の告白のような雰囲気があった……イチトが腰から警棒を引き抜き、刀身を己の手のひらにパシパシと打ち付けはじめるまでは。

「うわ、最大出力で照射……それって何秒くらいかな?」

「秒数は覚えていない。光を使い尽くすまで」


 イチトが警棒の底をきゅる、と回す。バラバラと落ちるボールペンの替芯に似た14本のカートリッジの中に、オレンジ色は見当たらなかった。


「うわぁ、イチトのせいかよ! シガヤがおかしいの、アンタの!」

 糾弾のために突きつけられるハバキの指先をイチトは鼻で笑い飛ばす。

「真道志願夜を異界で失うのと、どちらがマシかという話だ」

「なんでこのこと言わなかったんだよ!?」

「怒られたくなかった」

 真顔で答えるイチトにハバキは頭を抱えた。イチトなりの冗談なのか、それとも大真面目なのか、まだハバキには判断がつかない。


「たしかに魔禍濡れの方がマシだってぼくも思うよ」

 魔禍の採取が終わったドーズは、乱暴な手付きでシガヤの額に浮いたオレンジ色を拭う。もっと丁重に扱えとイチトは文句をつけたが「ぼく元医官だから」と軽くあしらう。


「いいかいおにーさん。魔禍マカは精神堆積物。それが体表に分泌される働きが『魔禍マカれ』。発汗や嘔吐、排泄や射精と同ランクの現象だ。だから、魔禍濡れに陥っても死ぬわけじゃないのが厚生労働省の公式見解」


 ゆるゆると解説をはじめるドーズを前に、イチトは静かになった。ハバキは腕組みをしたままふたりのやりとりを眺めている。


「魔神や異界から強い影響を受けると、血や神経、一部の内臓に魔禍が蓄積されていく。一定量を越えると吹き出してしまう」

 暗記しているのか、それともそれを常識として語るのが彼の常なのか。ドーズは淀みなく説明する。

「主に頭部の汗腺、目や鼻や耳口といった大きな穴から漏れることが多い。同時に奇妙な行動をとる。いわゆる『発狂』」


 満足そうな笑みを浮かべながらドーズは指先でシガヤの唇を押す。弾力、のちにシガヤの口の端から、オレンジ色のヨダレがこぼれていく。


「奇妙な行動は影響を受けた異界により様々だ。オレンジ色は異界区分第二種幌加賀ホロカガ型。特長行動は……よく喋ること」

「おれはあのままでもよかったんだよさいづのいかいにいるかもしれないじゃんまだいきて、せめてしたいを、そうじゃないとこうだぞ」

 イチトの選択を咎めるシガヤの声を隠すように、イチトが説明を被せる。

「喋ると楽になることはわかる。俺も一度、成ったことがある。あの時に何を口走ったか覚えていないが。日本語ではなかったと、シガさんが言っていた」


 イチトはそれまで手先で弄んでいた警棒をようやくしまった。説明が終わったとみて、ハバキがイチトをビ、と指をさす。


「アンタも魔禍濡れになったことあったのかよ。カマトトぶりやがって!」

「そもそも鮮烈な色の体液が出る現象は俺だって皇都で何度も目にしている。皇都警察の間では、単に色の名前で呼ばれていた。『あおいろです』、で通じたんだ」

 あおいろです、そう言う時のイチトの声は張っていた。警察官然としていた。

「触っても害がないこと、この液体を流す者は総じて様子がおかしくなることも知っている。しかし改めて正しい定義をありがとう、ドーズ。心に留めておこう」

「……おにーさん、思ったよりよく喋るんだねぇ。好みだよ」

「シガさんには負ける」

「おしゃべりが加速している魔禍濡れ患者と比較されてもな」


 ドーズはベッドの上で大人しくしているシガヤに視線を落とす。顔にタオルをかけられた様は、さながら死人のようだ。


「そろそろしにたいなはずかしいしざいあくかんでずっとしにたいんですあとのはまにかえりたいおねがいたすけていちとくん」

「な、これまずくね? 本格的にヤバいこと言いだしたぞ」

「幌加賀の魔禍濡れは"受信内容の拡散"がほとんどなんだ。でも今回は、ウチで精製した攻撃光に起因する魔禍濡れだから……しがやセンセの考えてることが、フィルターもかけられずに口から飛び出してる状態だろうなぁ」


 ドーズの見解を聞いて、とうとうシガヤに変化が訪れた。

 何も言わなくなった。いつのまにか、タオルを口に含んでいる。

 強く噛み締め、嗚咽をこらえるように。

 タオルで隠された眦からは、橙色の涙がずっと流れ落ちていた。


 涙に似た魔禍を指ですくうと、ドーズはイチトに向けてうっそりと笑う。

「ありがとうね、おにーさん。その警棒で発狂できるって知れて、たいそうな収穫だ。ぼく、魔禍濡れだーいすきだからさぁ……」


 医務室内の空気が変わった。

 ハバキが露骨に怪訝な顔を見せ、イチトも椅子から立ち上がり警棒を構える。神器としての扱いではなく、正しく敵対者を制圧するための立ち方だ。


「そっか、おにーさんは知らないか。新入りだから」

「俺は知らないことだらけだぞ」

「あはは、無知の知? ぼくってば館内でも有名な"魔禍中毒者"なんだ」

 えへらと笑う口元は緩い。

 その顔にかつての家族の顔がだぶり、イチトは苦痛に顔を歪めた。

「だから"夜勤組ワケアリ"」

 辟易した様子でハバキが付け足した。


「だいじょーぶだいじょーぶ。しがやセンセは、魔禍濡れの才能があるだけ。頭がいいからかなぁ。これって排毒の側面もあるから、このまま寝かせておけばどーせ治るし……」

 ドーズは指についたままの橙の体液を口に含める。反対の手でポケットに入れていたパウチ飲料を、イチトに投げてよこした。パッケージには赤色の文字で「Kh型│鬼子│キシ」と印字されている。


「こいつで中和させな。それでもダメなら京式昇華法だなー」

 ドーズはわざとコツコツとブーツを鳴らしながら医務室を後にする。

「ぼくもうあがるから。日中のモルグ市は、まかせたぞー」


 パウチを片手にイチトはいつまでも廊下の奥を睨んでいた。

 残されたハバキは長い溜息をつく。

 どいつもこいつも狂ってると、己だけは例外のように呟いて。



 ……。



「魔神の遺体、ほとんど回収できてないじゃないですかぁ」

 徹夜あけの鑑定員長ヘッド・レジストラは、甘ったれた声でヤマヅに不満をぶつける。


 場所は博物館バックヤード1階、鑑定室。

 シャーレの中には緑の苔。どうにも"展示"ができる魅力に欠ける。


「仮称・苔偽猫だと、まどう先生からレポートもらいましたけどね。調べたら別地区で、すでに命名を受けていた観測済の魔神です。残念です」

「名前があるということは?」

「はい、壊滅的被害ですね!」


 鑑定員長はホワイトボードに資料を貼って、水性マジックで文字を書く。

 不座見ヤマヅがあまりデバイスに強くないため、アナログで説明した方が理解してもらいやすい。


「ランクはC、Kh型魔神『借錆(カリサビ)』です」

 鑑定員長は楽しげに説明する。

「サビ……」

 対して副館長の声は重々しい。

「はい。中部地方で多く見かけられる魔神のようですね。今回のジエン市のものとは異なり、茶色や紫色の個体が多く……なんでも芝刈り機に集中的に乗り込んで……」


 鑑定員長はここで一旦言葉を切った。続きを言っていいか、という確認だ。

 大体そういうお話は、悲惨な結末を迎えている。


「……被害者数だけ教えなさい」

「おや、一番厭なことを。18人です」


 それを少ないと安堵するか、多いと嘆くか。ヤマヅは「ランクに対して被害者が多い」とひとりごちた。


「金属というガワにいち早く辿り着いた群だな。うちも、ドローンが狙われた」

「ドローンお高いのに……此方の目や調査の足を潰してくるのは厄介ですね。注意しないといけません。やっぱり半端に機械を使うより、人間を使うのがコスト削減になりますかねぇ」

「人間の命も貴重なのだが」

「んー、でも産めよ増やせよ政策に入っているでしょうこの国が。それに、意外と壊れないものですからね、人間って」


 ちょうど鑑定員長の眼鏡に部屋の光が反射した。

 ヤマヅからは目が伺えなくなり、まるで相手は安い物語の悪役のよう。


「あいにく真道志願夜が壊れかけているが」

「どうせいつものことでしょう。大丈夫ですよあの人なら! マジで壊れたら困りますけどね! 皇都大学に怒られちゃう! あっはっは」



 ……。



 場所は変わりジエン市。

 早朝、駅前のビジネスホテルの一室にて。


「皇都警察の方は、惑羽一途まどうイチト、生年月日は城栄元年10月21日、天秤座。血液型はO型……へへ、これって私と相性いいんですよ!」

 スーツ姿の女が、スマートフォン片手に騒いでいる。

『ちょっとズッカさん!? 報告はまじめにしてください! あと"情報番"を業務外に使わないでください!』


 ホテルのデスク上の鳥籠には伝書鳩。鳩の首に付けられた古い通信機から、慌てた女の声がする。交信相手から『ズッカ』と呼ばれた女は、諌める言葉に悪びれもなく口答えした。


「業務外じゃないですよー。我ら"買付番"のための大切な情報収集の一環です!」

『もう……ああいえばこういう……』

「あ、大学先生のデータも頂いてますよ。真道志願夜まどうシガヤ、銀岸81年4月1日生まれ、血液型O型……へーえO型コンビかぁ」

『……ズッカさんって血液型占い信じるタイプだったんですか?』

「そうですね、結構信じます。占い全般。ちなみにってB型だから、私とあわないんですよねぇ」

『そんな、かなしい……』

 打ちひしがれる若い"園長"の声が鳩の首からむなしく響く。


『ん、あれ? ズッカさんが会った博物館のひとたちって、兄弟なんですか? まどういちとと、まどうしがや……』

「ちがいます~苗字の漢字が違います。警視の方は困惑の羽で、助教授の方は真実の道。それぞれ『まどう』です」

 ズッカは化粧をしながら会話を続ける。今日は外回りの後、直帰の予定と楽しそうに呟いた。


「あ、そういえば園長は、怖い系と飄々系、どちらの男性が好みですか?」

『あのー……ズッカさんは男性が苦手って……前に言ってなかったですか?』

「とーっても苦手です。なんだか上手く話せなくって」

 通話先の園長は、ズッカが日頃言う「男性が苦手」の本当の意味を察した。


『……博物館の人には、迷惑かけてないですよね?』

「別によくないですか? 博物館なんて。私のオキニのズメイ先輩を引き抜いちゃったとこですよ?」

『私、彼の本名と連絡先知ってますよ』

「え」

『教えたら、真面目に仕事、してくれますか?』


 ズッカは化粧の手を止めない。長い長い溜息のあと、鳩に向かって嫌悪の声を投げかけた。


「……園長、他人のプライベートを切り売りするのって最悪だと思います。見損ないました。尊敬レベル2低下です!」

『ええっそんなぁ!』

「それにズメイ先輩、あのひと魔禍中毒者じゃないですか。とても付き合ってられませんよ~」

『うーん、変なとこ潔癖ですよねズッカさん』

「だって私、魔神とか異界絡みごときで、死にたいわけじゃないですもん」


 ズッカは窓の外を見る。穏やかな朝だ。

 明け方の空に十字に切れた黒い線が見える以外は。

 テレビから、去年異界落ちした者が死体で見つかったニュースが流れる以外は。

 命乞いを繰り返すJ-ROCKが、ヒットチャートとして紹介されている以外は。


「ま、博物館に殺される前に保護しないとですね。あらゆる魔神は、マレビ市魔神動物園として」

『その意見には同意します』



 ……。



 帰宅間際、ハバキはイチトに小声で尋ねた。

「アンタさ、あとのはまってとこで、シガヤと何があったんだ?」

 興味本位を隠さないハバキを横目で見やって、イチトは。


「内緒だ」の一言だけ。

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