狸の虚【終】神を遠ざけ、一件落着

 家族たちが泣いている。

 涙が声に絡む者、押し黙っている者。

 机を何度も叩く者、固く拳を握る者。


 それは神事の時期が近づく中、戻ってきた行方不明者たちを前にして。

 場所はジエン市の市警察署内、霊安室。


 遺体用台車に横たわるのは、モルグ市魔神博物館の回収員が持ち帰ったホトケ。顔の表面が削ぎ落とされ、まるでマネキン人形のような3人の成れの果て。それがこの町を魔神の侵攻から守った志願者いけにえたちだ。


「彼らは、虚内と異界の境目を自らの身体で封じていました。その役目を地主神に継がせたので、彼らはできたんです」

 真道シガヤの説明を、果たして集められた家族のうちの何人が「ほんとうのこと」だと認識できるだろうか。「ネットで見かける怪談話のようだ」と取り合えなくても仕方がない。

 ただ、説明の前に渡した『皇都大学飢村研究室・助教授・真道志願夜』の名刺が彼らの怪訝の眼差しを和らげた。権威ある大学の威光は地方にも燦然と降り注ぐ。


「……だから、どうか労ってあげてくださいネ」

 シガヤはそう言ったのに。遺族のひとり、中学生くらいの女の子が亡骸の胸を乱暴に叩いた。弾力は無く、乾いた皮とスカスカの肉の音。

「ッおにいちゃんのバカ!」

 両親も、娘の行動を咎められない。俯いた憐憫の眼差しは昏い。


「わたし、ずっと待ってたのに、言いつけ、守って、虚の入口で、待ってたのに……なんで、勝手に死んで! 何年も、何年もッ」

 1人の死者に、いくつもの物語ドラマ

「何年もッ!」


 しかしシガヤは遺族の慟哭なんてすっかり聞き飽きている身分であった。

 だから暇を覚えて、隣に立つイチトに目線を向ける。


 イチトの感情は読めなかった。亡骸の家族を視界に収める瞳は、いつも通りの焼け尽きた茶色だ。


 

 ……。



「自分の家族のこと思い出してた?」

 藪蛇だとわかっていながらも、シガヤは柄元家に戻るバンの中でそう尋ねられずにはいられなかった。


 助手席のイチトは、頭を折り込むような動きでシガヤを見た。下から覗き込み、伺うように。

「最初に、兄を亡くした時の父を。次に、妹を亡くした時の姉を」

 惑羽一途は淡々と語る。

「でも、俺もああして泣けばよかったと、後悔を覚えた」

 町中の信号機は全部赤色。どちらかが青色に変わるまでの刹那の時間。


「泣かなくてよかったんじゃない? 泣かれる側からしたら迷惑なんだよな」

 からから乾いた声で告げるシガヤ。そして彼がこれまで身を置いてきた微妙な立場を、この頃のイチトはまだ深くは知らないので。

「シガさんが死んだ時は俺だって泣くと思うぞ」

「えー、うれしい……」

 大勢に泣かれながら詰め寄られる真道少年を知らないので、ふたりは車内でへらへらと笑えた。


 信号は青に変わり、ふたりを載せたバンはそのまま山道へ。

「ん、意外な話題の着地したワ……てっきりイチトくんの家族の新しい教訓話が解禁されるかと思って話題ふったのに」

 中腹に向けてアクセルを踏み込む。やがて日本家屋の屋根が見える。

「聞きたいのなら披露するが、柄本家に到着するまでに終わるかは――」


 柄本家に続く道の途中で車は止まる。

 否、バンの天井に衝撃を感じてシガヤが強くブレーキを踏んだ。


 車内が影に覆われる。窓を覗き込む、鬼の細い眼と目が合った。

 反射的にイチトは警棒を取り出し、シガヤはテーザー銃を窓に向ける。その動作は一瞬だった。

「やめろよ」

 鬼は喚いた。くぐもった声だ。ガラス越しにもそれはハッキリ聞こえる。

「なァんだ、ハバキくんじゃんね」

 シガヤはテーザー銃を構えたまま笑う。イチトは無言のままだ。


「もう片はついてんぞ」

 ハバキがそう言ってふたりの前で顔に手をかけた。顔の皮を剥がすように、黒い手の中に面が現れ、鬼の体が溶けて、枕木ハバキの姿に戻った。

「おや、拠点防衛は成功したんだネ。お疲れさま」

「……苔の魔神の方はな」

 ハバキの表情は険しい。鬼の面を口元に当てたままなので、声はまだハバキを取り戻していない。くぐもって掠れた人外の声。


 ハバキの含みのある言い方を受けてイチトが片眉を上げる。

「他にも魔神が? 結晶型がこちらにも?」

「いんや、

 簡潔に、それだけを告げられる。


 イチトはチッと舌打ちを落としてバンを飛び出した。シガヤもそれを追うようにゆっくり運転席から降りる。


 柄本家の敷地内は思った以上に荒れていた。

 何かが暴れた跡。生垣は壊れ、玄関先に伸び切って掠れた血の跡がある。色はまだ赤い。

 風が木々をざわめかせる。大気は春のものというより、幾分冷たく感じられる……庭の中心で、風が小さく渦巻いていた。

 その中心で、ショートヘアの女が、ドローンを壊している。

 踏み鳴らして、バラバラに、愉しそうに。


「ああ、すごい、すごい!」

 女は喚いていた。濡れたような暗い黒髪が揺れている。文様に彩られた彼女の足から風が湧き上がっていた。山の神に連なる、人知を超えた力の類だ。

「この力、すごい!」

 博物館のドローンが、足で砕かれ粉々の金属片に変わっていく。


「柄本美蔓か?」

 イチトが声をかけると女は首だけをぐるんと向けた。彼女の細い首に、裏見草の紋様が執着のように絡みついている。

「ああ、博物館のお兄さん!」

 女は友好的に笑った。裸足の裏からパラリと金属片が落ちる。

「……それは博物館帰属の偵察用機械ドローンだ。壊したことに弁償の意思は?」

「ええでもだって、魔神に乗っ取られてたのを私が倒したのに!」

 女は小さく憤慨して、歯をいーっと剥いて見せた。後ろ盾を得て強気の顔だ。これが、神を味方につけた者。

 そのまま女は「えい、えい、もう悪さしないように!」と地団駄を踏み、ドローンのパーツをさらに砕く。


「……あの苔も鎧代わりにされてたし、殻の必要性でも学んだのカナ?」

 イチトの背後でシガヤがニヤニヤ笑いながら分析する。

「機械のボディはお誂え向きだ。その点、仮称・ハタヒロより選択は正しい。やわい苔よりかたい鉄。ドローンはまこと有用な器だ」

 その器は美蔓に壊されていく。こびりついた苔も力の余波にやられていく。

「てっきり幸津型に使役されるばかりのものだと思っていたけど、なるほど、魔神がそう貧弱なワケないよネ」

 シガヤの分析にイチトは頷くことはなかった。ただ、村人みつるを眺めている。


「ああ、もうこなごなだ!」

 美蔓はつまらなさそうに喚いた。

「他にも魔神いないのかなー……せっかく力を貰ったんだしさぁ」

 彼女の周りを持て余した風が舞う。土を細かく切り刻んで遊んでいる、と思えば、イチトたちの背後にある木がドサと音をたてて倒れた。

「わぁすごい、すごい! この力わたし、すごい!」

 子供のようにはしゃぐ様子に、イチトはとうとう息を吸い込むと。


「村主ィ!!」

 イチトの咆哮が、敷地内に響いた。


「仮にも主なら、村人ぐらい正しく管理しろッ!!」

 怒号に釣られてスグリがイチトのもとへやってくる。屋根の上に居たのか、高く跳んで着地する。その様は山ではしゃぐ悪鬼の姿によく似ていた。

「村主ってそういう神様じゃあないんだよう」

 イチトに怒られることを覚悟して弱々しい声をあげるスグリ。イチトは憤りを隠さず、村主の元へ歩み寄る。ザスザスと土を踏みしめ近づく音は、二者の距離が縮まるごとに大きく響く。


 墓地に近しい重たい気配がスグリからは漏れ出ていた。鴇色の髪はボサボサになっている。主の身を案じて、従者のように美蔓が側に控えた……そして周囲には人の足跡、どれも裸足でサイズは小さい。


「村主。柄本美蔓を"村人"にしたな」

「……だって、ミツルさん、一緒に戦ってくれるっていったからさぁ」

 叱責の声にいつもは萎縮するスグリだったが、今は負けない。戦闘後の高揚感か、それとも美蔓信者がいるからか。

「早く村人化を解除しろ」

「あはは、それがさぁ、思った以上に気前よ~く髪の毛を貰えちゃってぇ……ね、お願いイチくん、しばらくこのまま! 見逃して!」

 美蔓に抱きつくスグリ。久しぶりの信者むらびとを得て嬉しくて、彼女の腕に頭をすりすりと擦りつける。美蔓もまた、スグリの頭を撫でて応じた。


 しかし、イチトの声は冷たい。

「村主」

 神の名を呼び、人差し指を家屋に向けた。

「彼女を案ずる者の顔を見てみろ」

 指さした先、納屋の近く。不座見ヤマヅに肩を支えられる形で、柄本晃正が立っていた。遠くからでも分かる、娘を追う眼差しは不安で揺れている。


「"市民"をお前の下に置くな。お前の山は死んだ。村人も死んだ」

「お、大げさだな~イチくん! スグリは、決してわたしのしよく私欲じゃなくってね」

 イチトの怒りを弱めようとスグリは馬鹿に明るい笑顔をつくり、美蔓の腕を引き離す。その指先は名残惜しく、美蔓の腕をなぞったまま。

「ミツルさんの願いに、応えただけなんだよぉ」

 しかしイチトは無言でスグリを見ている。言い訳を許さない、高圧的な男の顔。


「……だってねイチくん! ミツルさん、わたしの力見ても怖がんなかったし!」

 言いくるめが効くわけもないのにスグリは弁明を続ける。

「だから力を貸した! そのために村人に……ああどうか市民、理解を……汝らが"市民"のままではの力は渡せないから!」

 村主の快活な声に、聡明そうな少女の声が混ざっていく。スグリの足元を囲う足跡が、深く、深く沈みはじめる。

「それにどうせ短期的な契約だし、痕も残らない。はとても気を遣った!」

 幼い男児の声も混ざる。声は切羽詰まった圧になり、この場に居る者の神経を逆撫でする。

「オマエだって、帰ってきたこともあったでしょう!?」

 まるで子供たちの癇癪、絶叫。

「四方矢山の村主の力は我が民の為だけのものだ! だから村人にッ」


 悲痛の渦と化した"村主たち"の声を、イチトの一喝が断つ。

「選民思想の悪神め!!」

 スグリの目が大きく見開かれた。驚きと戸惑いを孕んだ白橡色の瞳が、しかしすぐに憎悪に歪められる。自らに影を落とすように立つイチトをスグリは上目遣いで睨みつけた。イチトもまた、村主達幼子見下みくだしている。


「お前の村は、滅んだだろう」

 イチトが諭す。ふたりの鼻先を一瞬、火の匂いが掠めた。それはかつての悲劇。魔神侵攻の時に嗅いだ覚えのあるものだ。

 スグリは若い警察官に手を引かれて山を降りた光景を思い出す――若い警察官は惑羽警部補であるが、彼の実働服の背に書かれた『皇都警察』の文字がスグリには読めずにただの図案として記憶されている。

「でもみんな、山で待ってる」

「いいや、お前が守るべき民はもう居ない。だから、もう、増やすな」

 バタタタタという忙しない音と共に、周囲の足跡が数を増した。怒りを孕んだ何十もの視線がイチトを射抜く。


 しかし、その場の張り詰めた空気を裂いたのは、柄本美蔓の声だ。

「……村主は悪くないんだよ……」

 それまで笑みを浮かべたまま控えていた村人は、やさしい声を残してその場に崩れ落ちた。村主の信者としての力が失われたのか首元の文様は消えている。


 倒れてしまった美蔓を介抱するでもなく、は自身の胸元に手を当てて立ち尽くしていた。悦びを噛みしめる笑顔。最後まで、彼女を神と称えた信者の為に。

 まだ高い陽が逆光となり村主の貌を陰に変える。足元の子供の足跡が増えていく。散開したのか、それぞれが好き勝手な方向へ。


 一方、ヤマヅから離れた柄本晃正は、力の入らない四肢で、賢明に娘のもとへ向かっていた。


 一度転げたが、すぐに這い上がり、土と湿り気を帯びた姿のまま。寝巻きの浴衣はすっかり汚れ、それでも這い進む姿はまだ地主神が人と寄り添っていた頃の、鉄と科学の力なき弱かった頃の、民の姿にそっくりだった。

「美蔓……!」

 他者を案ずる心は時代を経ても変わらない。ましてや、親から子など言うまでもない。

「無茶をしたなぁ、ああ、髪の毛だって、まったく」

 契約として捧げられ、短くなった美蔓の黒髪を父親は撫でる。彼は彼女がどんな想いで日々髪を手入れしていたかを知っている。少なくとも、超常の力を得るために伸ばしていたのではない。

「ああ、とにかく、無事でよかった……」


 そんな人の仔を村主は無感情の目で眺めるのだ。

 今村主に親は居ない。親の愛情は理解不能想像不可わからない


「……ハバキ、スグリを回収してこい」

 背後に控えていたハバキに、イチトが目もくれずに命令する。

「ちっ、アンタが説教したんなら、ちゃんとアンタが尻拭いしろよ……」


 文句を言いながらもハバキは独りで立ち尽くすスグリの側に寄った。

 声をかけてもスグリの反応は鈍かったが、ハバキは無理やり腕を引っ張って柄本親子から遠ざける。

 

 イチトとシガヤの元へ戻る頃には、ふたりはやあやあと文句を言い合う日常いつもに戻っていた。

「ハバくん力強いー! 労ってよ! 苔の魔神のすごい攻撃どうにかしたの、わたしなのに! 頑張ったのに!」

「風ぶわーってして散らしただけだろ! いっつもてきとーに戦いやがって」

「だっててきとーに戦ってもなんとかなるじゃん!」


 様子を見ていたヤマヅもまた回収員たちのもとへやってくる。頬が土と苔で汚れていたが、彼に目立った外傷はなさそうだ。

「2班、虚の件、ご苦労だった……」

 言葉短く労われるが。

「……貴様らは、神なら何でも殺せるんだな」

 普段に比べて柔らかい口調にも関わらず『地主神殺し』を責めていた。


「問題ない。次代は既に居る。この地は問題なく廻る」

 イチトが言うがヤマヅは首を振って否定する。

「モルグ市ならともかく、人様の土地に干渉し過ぎた」

「土地がそれを望んでいた。だからこそ俺たちが出向く事態になったのでは?」

「貴様は案外オカルト思考だ」

「……副館長サン、柄本親子は無事なの?」

 割って入ったシガヤは、軽蔑した目をヤマヅに向ける。

「"神はダメ"でも、人ならどうなってもいいってワケ?」

「利用できるものならすべて使う。それが、我がモルグ市魔神博物館の方針だ」

「そりゃあくまで不座見家の方針でしょうに」

「館長たる不座見ヒルメの方針が、イコール、組織の方針だ」


 その時「キャア!」と素っ頓狂な声が坂下から聞こえる。

 振り向くと、タクシーから下りた着物姿の淑女が眼を丸くしていた。

「あなた! 美蔓! おうちボロボロ! どうしたの!」

 旅行に出ていた柄本家の母が戻ってきたようだ。

 その場の空気が急速に萎び、日常に切り替わっていく。


「お久しぶりです、花江さん」

「あらやだ、不座見くんじゃない! ひっさしぶりねぇ! あ、ひょっとしてあっくんとみっちゃんが何かご迷惑を!?」

 再会の喜び一転、家族の不出来を察して顔を青ざめる柄本花江に向けて。

「いや、このふたりはよく頑張ってくれました」

 労いの言葉をヤマヅは寄越す。

「ただし、可能なら早めに厄払いの御祈祷を」

「まあ、それなら今すぐやるわ!」

 事情が分からずも明るく笑う花江に、シガヤも美蔓を指さして助言をひとつ。

 

「あの子、明日は筋肉痛、覚悟してた方がいいですヨ」


 明日は来る。生きている限り繰るものだ。



 ……。



「いや~ほんとに私すごかったんだよ母さん! 切った張ったの大活躍よ!」

 全身湿布だらけの柄本美蔓が下座で元気よく言う。娘の武勇伝を聞き流しながら柄本花江はうんうんと相槌。

「農家やってるんだし、力仕事なら活躍どころよね!」

「そうじゃなくて! 相手は苔だから! 跳んでる虫の集合体みたいなもんで!」

「あら!」

「クワとか使ってもなんとかなるもんじゃなかったの! わかる!? それをこう、スグリちゃんの凄い力でね!」

「へぇ~すごいわねぇ!」


 時間をあけて柄本家のリビング。皆で座卓を囲んで夕食の時間。

 一帯の除染と美蔓への厄除けを済ませて、ちょっとした打ち上げだ。

 山間を飛ぶ鳥の声が遠くに聞こえる。人里は、今や平和である。

 

 柄本母娘が今日の振り返りをする中、父はヤマヅから肘を使っての肩もみを受けていた。座卓の端でシガヤはノートパソコンを使って博物館と連絡をとっていて、その横でスグリがニコニコとすき焼きを食べている。ハバキは「ビール飲みてぇ」とぼやきながらコーラを煽って、イチトはシガヤの分の卵をといていた。


「豪勢な夕飯、すみませんネ。旅行から帰ってきたばかりだってのに……」

 パソコン画面から目を離さずシガヤが柄本母に感謝する。報告書を書き上げながら鑑定員長とチャットでもしているのか、画面上に愉快なスタンプが並んでいた。

「だってお庭からおうちから、ぜーんぶきれいにしてもらったんですもの!」

 柄本家の母は愛嬌のある声で感謝を告げる。

「労働にはご褒美が必要よねっ」

 魔神襲撃を目の当たりにしていないためか、母は明るく日常の色。

「だって母さん、この人たち魔神退治のプロなんだよ! それに私だってさ」

「いやねぇ、みっちゃん」

 柄本花江は着物姿で嫋やかに笑った。

 

「魔神なんて、うふふ」


 ――その言葉だけで回収員の全員は理解が及んだ。

 柄本の母は、このご時世においてなお、魔神と縁遠い者だ。


「不座見くん、むかしっから幽霊が見えるって言ってたものね!」

「まぁ、魔神とは『異界性侵略的怪異』のことだ。幽霊は怪異に含まれる。似たようなものだ」

 この手の反応は慣れているのか、ヤマヅのあしらいは軽かった。何かを言おうとしている晃正の口を手で覆いながら淡々と説明する。

「ちょっとお母さん! 魔神は、いるんだってば!」

「はいはい!」


 イチトが溶き卵の器を座卓に置く音が、嫌に響いたので全員が注目する。

 立ち上がるイチトの姿を横目で負いながらシガヤは「はぁ」とため息をついた。しかし何も止めようとはしない。


「美蔓さん」

 母ではなく娘に向けて、イチトは語りかける。

「次に魔神と相対する時は、神の力に頼らないでくれないか」

 イチトは他人に命令する時、必ず立ち上がる。隣り合って座っていた柄本母娘は、彼に見下みおろされる。


 オウム返しに「神?」と訝しげに呟く母の隣で、娘は困ったように首元を撫ぜている。ショートヘアになったことで、首筋のホクロも今朝ついた痣もよく見える。

「スグリちゃんにはもう頼るなってこと?」

 美蔓は夕餉の楽しい時間を壊さぬよう、努めて明るい声色で尋ね返した。

「そうだ。村主を頼るな。力ある者を待っていては助からない」

「でもそれじゃ、また魔神が出た時どうすれば?」

「『神頼み』など、現代日本にはそぐわん。民を守るのは民であれ。それさえ心に留めて貰えれば良い」

 啓蒙のように語るイチトを、花江は胡乱な眼差しで見つけている。当のイチトは美蔓しか見ていない。


「民であれって……無理だよ。父さんじゃあるまいし」

 口を尖らせる美蔓。どういうこと、と旦那に目を向ける花江と目があったのか、晃正は「はは……」と弱った微笑みを浮かべて誤魔化した。

「俺は『神頼み』で、手段を与えられることを待ち、結果、家族を失った」

 回収員たちが「こりゃ家族語りが来るか」とイチトに手を伸ばしかけたが。


「でもわたし! スグリちゃんと戦えて、よかったと思ってるからね!」

 ピースサインをつくった美蔓に、イチトはそれ以上追撃しなかった。

「本件を成功体験にはするんじゃあないぞ」

 そう言い残すと席に戻り、己の取り分のすき焼きを食べはじめる。


 ヤマヅだけは、晃正の耳元で小さく呟いた。

「惑羽一途の妹、惑羽三雨まどうミウは、魔神の眷属になったことで彼らきょうだいを救ったそうだ」

「……そうか、だからあんなことを」


 こうして皆は緊張から解放され、すき焼きを楽しむ夕餉の時間が戻ってきた。

 だから誰も、中庭ではしゃぐ子供村主たちの嬉しそうな誇らしげな笑い声には気づかなかったのかもしれない。

 

 灯籠の側ではタヌキが踊っていて、ネコも歌うように鳴いている。

 この地は平穏だ。これからもこの先もきっとずっと。


 狸の虚は正しく囲われ、人が歩ける異界に戻る。

 めでたし、めでたし。


 

 ……。



 さて、さらに夜は更け、2階和室に控えるのは男が3人。

 イチト、シガヤ、そしてハバキが寝巻き姿で並べた布団の上に座っている。

 明日はモルグ市に帰還の予定だ。これが柄本家で過ごす最後の夜。


「報告書も無事終わりました! Sd型魔神・ハタヒロ、Kh型魔神・苔偽猫、マレビ市魔神動物園の妨害、そしてドローンの破損報告!」

 ドローンは残基1。修復不可レベルの破損は2基で、ざっと損害80万円。

「なんて出張だ! でもまとめるべきことはまとめたから、もう安心!」

「おつかれさまだなシガさん」

「イチトくんのせいでお疲れ2割増しだヨ。誰彼構わず喧嘩腰になるのはやめなって」

「ケンカのつもりはないぞ。必要な警告をしたまでだ。それに、美蔓さんのお母さんも、ちょっとは現実を知れただろう」

「神は居るって?」

「魔神が居るってことだ」


 2班の会話を黙って聞いていたハバキだったが、不意に諦念を含んだ声で呟く。

「……スグリに友達ができるのはいいことだって、オレは思ってたんだよ。あの人と話してて、アイツ、ずっと楽しそうだったし」

 いつになく真剣そうなハバキに、ふたりは目を向け続きを待つ。

 言葉に迷ってしばらくハバキは黙っていたが、決してふたりは急かさなかった。

 やがてハバキは大きく息をついて、重い頭を布団に落とす。


「でもアイツ、いつでも道を踏み外しかねない存在なんだなって……改めてわかっちまったな」

「村主の相手、今さら怖気づいたのか?」

「ま~あんな簡単に人を支配する力を見せつけられちゃあネ」


 今も耳をすませば階下の楽しそうな声がここまで届く。スグリと美蔓に花江の3人で、テレビの前で談笑しているようだ……バラエティに出ている人の話、コマーシャルの話、これからの天気の話。


「イチトくんもさ、神さま名乗ってる相手にあそこまで喧嘩腰でいけるのスゴいヨ」

「む、もっと褒めてくれ」

「これはあんまり褒め言葉じゃないカナ……」

「あ~~そういうダルいやりとりやめろや! もういい、もうオレの話もいい。考えるのって性に合わねぇ!!」

「ふむ、ハバキはそれでいいと思うぞ」


 満足気にイチトが言うとハバキに枕を投げつけた。とっさのことだったが、ハバキはなんとか反応して避けられる。

「んなにすんだよいきなり!?」

「枕投げだぞ。無事に帰ってこられたらやるって言っただろう」

「せめて開戦を宣言しろや!!」

「好きな子の話の方が良かったか?」

「こっち投げないでイチトくん! てか昨日の死亡フラグ覚えてんのな!」

「誰も死んでないぞ」

「フラグが立たなくてよかったねェー!」


 もはやイチトによる投擲と回避の訓練と化した枕投げ。

 予備まで引っ張り出して、行き交う合計5つの枕。

 ボスッ、と布団に着地する枕の音が、重い。


「そもそもイチトって好きなヤツいたことあんのか?」

 ハバキが枕と質問を同時に投げるとイチトは「む」と首を捻った。頭上すれすれに枕が掠めて壁にぶつかる。

「お、言語と行動は同時処理できないタイプとみた。攻略の糸口!」

 瞬時にイチトを分析したシガヤが「好きな子のタイプとか聞きたいなー!」と言いながら蕎麦殻枕を投げつける。

 イチトは枕をふたつそれぞれに投げ返しながら「人から情報を得たい時は自分から開示しろ!」と叱りつけた。


「ええー!? オレを立ててくれる子がいい!」

 ハバキが投げ返した枕をイチトは「亭主関白め!」と跳ね返す。

「ちげーよ姉貴と真逆のタイプが好みなんだよ!」

「ほう、ハバキには姉が……」

「やっべ、おらぁイチトくんこっちだ! オレはめんどくさくない子が好み!」

 シガヤが投げる枕を「自分がめんどくさい男だからか?」とイチトは難なく跳ね除ける。

「え!? 今これケンカ売られてるよねオレ!?」

 シガヤのツッコミをイチトは微笑みで受け流した。


「枕だけじゃ足りねぇ、布団も投げろ!」

「こっちが開示したんだからイチトくんも答えな!」

「今考えている!」

「シンキングタイムが長ェー!」


 シガヤが油断した時を狙ったイチトの枕が、見事顔面に激突した。

 角度がよかったのか、枕が顔にはりついたままシガヤの動きが止まる。


「オレ思ったんだけどよ。めんどくさくない子が好みって、それ従順なヤツが好きってことかよ? 支配者タイプじゃねーか」

 大人しくなったシガヤに、ハバキが言葉で追撃をする。

「シガさんが他人を支配する人とは思い難いが」

「いちいちマジレスやめろって」

 ハバキがイチトのやりとりの後、シガヤの顔にぶつかった枕がようやくボタリと布団に落ちる。


「シガさんのいち負け、……」

 声をかけたイチトだったが、言葉を失った。

 落ちた枕に、橙色。

 まるで吹き出した血のようだった。

 シガヤの鼻からも、橙色の液体が流れ出ている。


「シガさん、鼻血、色が!」

「こりゃ『魔禍マカ濡れ』だ! でも、なんでだ!?」


 当のシガヤは他人事のように、虚ろな灰目をさまよわせて笑う。

「……すきになるってむずかしいなぁ」

 額にも橙の液体をにじませながら。

「どしたらかみさまにすかれんだろうね……」


 顔中の穴から鮮烈なオレンジ色を流してシガヤは倒れた。

 直後に寝息が聞こえるが、呼吸は不規則。


「ハバキ、こういう場合どうしたら?」

「死にゃあしねぇが……まずヤマさんに報告。中和剤の準備。明日は朝イチで帰る。汚した布は専用のクリーニング、ってとこだ」

「これはとんだ幕引きだな」


 イチトとハバキの嘆きをよそに、シガヤは悪夢にどっぷりと浸かる。


 教室の端から順に消えていく子供たち。

 真道志願夜は神の加護なく、今もひとり置いていかれたまま。

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