狸の虚【5】土地を侵すは誰の令、土地を守るは誰の命
「あの子は神さまに嫌われているんですよ」
噂話をする、女の声。
「この町では彼にあやかって『夜』の名を与えられる子が増えました」
物珍しげに語る、男の声。
「神隠しから
ブランコに乗って話す、少女の声。
「かみさまは夜がキライなんだよ」
すれ違いざまに聞こえる、少年の声。
「
対面で語る教授の声に。
「でもオレ、もう地元帰んないから」
かつてのシガヤは、目を合わせることなく言い切った。
――虚の"底"が近い。
惑羽イチトは竹に囲まれた獣道を走る。天で揺らめく金の光が宙に浮く細い葉で遮られ、まだらな影を湿った土に落としている。
使いの案内がなくても迷わないと最初こそ思えた。しかし、次第に道が分かれ、虚は混沌を構成する。
鍾乳洞の内部に名前がつけられるように、この獣道にも呼称があった。『笠棄て小道』と書かれた白い看板をイチトは飛び越える。由来はきっと、かつて迷い込んだ者が使いのタヌキを見つけてなりふり構わず駆け寄ったのだろう。
イチトには此処に捨てるものなど何もない。ぬかるんだ地面に遺る足跡を追って走り続ける。
シガヤの足跡は、獣、人、鳥、猫、地面を穿つような穴から、複雑な模様を残す円まで、様々な形に変わっていた。
右左、みぎひだり、愚直に前に踊り進むシガヤの第弐神器『赤い靴』の痕跡を追ってイチトは雨上がりに似たやわい土壌を踏みしめる。
緑に輝く葉が視界の端でちらつくたびに、イチトは虚の入口で繰り返した"予行練習"を思い出す。今まさに異界に落ちていく相棒を見逃せば、イチトの『家族語り』の悪癖に『相棒語り』が加わるのだ。
「俺はまだシガさんのことを語る気はないぞ!」
走りながら己に喝を入れる。イチトを誘い込もうとする、緑に染まった子狸たちをジャンプで超えれば、コンバットブーツには追い縋るような苔の手形が残った。ちいさくちいさく、かわいいものだ。
此方の歩みを止めようとしているのか。そんなものに絆されることはなく、イチトは冷静に脳内にアルファベットを並べていた。
『Ta<Kh』という相性の不等号をイチトだって頭の中では分かっているつもりだ……いつかシガヤがホワイトボードに記した、人の良さが隠せない筆跡が蘇る。
今の世の常識に従うのならば、あの場でシガヤが負けるはずはなかった。
ではシガヤの踊りを変えた
「色、記号と名称がまったく一致せん……」
警棒の出力スイッチを指先で弾いて切り替えながらひとりごちる。
イチトは他の回収員に「異界の相性を覚えない」と散々呆れられてきた。その必要が無かっただけだ。相応の力があるから、そしてサポートが十分だったから、無知を許されていた。
しかし今の状況で安易に
イチトは走る。
ビシャ、バシャ、バシャ、と水場を走っているような音が続く。
周囲をとりまく虚の空気は、どんどん濃く湿っぽくなっていく。
息を吸い込めば肺いっぱいに重苦しい香りが広がり、自分たちは「異界落ち」の真っ最中だと、まず身体が認識する。思考は未だ鈍いまま。
『大広間』から『笠棄て小道』。やがて『遣いの塒』を通って『陽留寝の底』。
深い藪を踏み分けてイチトは拓けた場所に出た。
そこにはドローンが写した映像通りの光景が広がっている。
黄金の竹柵に囲まれた日本庭園。
真ん中には大きな岩がひとつ鎮座している。
それを見上げるように、真道シガヤが立っていた。
結晶に覆われ、人間と言うよりは不安定な彫像に近い様相で。
「……シガさん」
名を呼べばゆっくり振り向いてくれる。テーザー銃の落ちる音がカランと響く。シガヤの鼻から上はきらめく結晶に覆われていて、いつもの三日月型の目は隠されている。展開している
「いちと」
やさしい声で、諦めている声で。
「名前をつけよう。仮名でも、その方が殺しやすいしネ」
シガヤはどこを見ているのかわからぬままイチトに告げる。
「オレに取り憑く白いのは、そうだな、
カキン、カキン、と舌から結晶がこぼれ、語り口はほんの少しぎこちない。
「そしてハタヒロの
雪の結晶がシガヤの全身から舞っているように見えたものだから。
神域の空から降り注ぐ金の輝きと混ざり合い、イチトは思わず「きれいだ」と零してしまう。
「ほら、ちゃんと真面目に聞いてな。これが属する世界による相性差だ」
咎める指が示す先、シガヤの足元から、苔の群れが縋るように覆いはじめる。盾となるために、賢明にシガヤの身体を這い上がる。
「……仮称・ハタヒロは、苔を
イチトの手にある確光レンズの鏡面は真っ赤。苔が発する
怪異と化したシガヤが目の前で手をたたくような動きをみせる。パチパチという快哉の音はあいにく響かず。
「よくできました。いま此処の生態系の頂点は、侵食の異界・幸津の魔神ハタヒロだ。では、そいつに勝てるのはどんな色?」
「……覚えていない」
「それなら単位はやれないじゃんね!」
真道志願夜助教授による講義の時間は終了だ。
そこはイチトが映像で見かけた、
今ならそれの正体がイチトでも分かる。
「シガさん、やめろ!」
願掛けはもう届かない。蓋の役目を果たしていた苔の塊が柵向こうに堕とされて、空いた隙間から暗く冷たい風が流れ込む。
異なる世界が迫っている。柵の向こうから、結晶と苔が入り混じった"侵略的怪異"が這い寄ってくる。
シガヤが自ら壊した柵の隙間から出ていくために身をかがめた。
「ダメだシガさん、超えると帰還困難になるぞ!」
腕を掴むのが、ギリギリで間に合った。偽装に使われる苔はもろい。やわく分け入り腕をつかめばヒヤリと冷たい。
イチトが第壱神器・公色警棒を点灯すれば、紫の光がふたりの間に輝いた。虫が飛び去るように苔が霧散する。その下から『ハタヒロ』と命名された魔神に支配されたシガヤが現れる。開かれた口から覗く舌は白い。
シガヤの身体は弛緩していて抵抗の意志は見られなかった。イチトはシガヤの袖口に噛みつくと、自由になった両手で公色警棒を2本構える。
そうして片方はシガヤの首に、片方は脚に当てた。
指先で出力を切り替える。順繰りに色がまわり、鮮烈な山吹色になった瞬間シガヤの身体がビクンと跳ねた。
イチトは指を止めると、Hk型攻撃光の照射を続ける。やがてバツン、と何かが切れた音。シガヤにまとわりついていた結晶がずるりずるりと溶けだした。
零れ落ちた
未練がましく視線を落とせば、シガヤが蹴り飛ばした"苔の塊"が金色の草むらに転がっていた。人の貌をしている。
「ジエン市の行方不明者か」
市警察で調査済、いなくなった町の青年の輪郭をイチトは認める。
「……シガさん、すまない。やむを得ず最大出力をした。眩しかっただろうか?」
イチトの腕の中のシガヤは答えない。気を失っているのかもしれない。ため息をつくと、イチトはシガヤを引っ張り上げて竹柵に寄りかからせた。
人によって整備された異界『虚』と、人が支配を諦めた『幸津型異界』の境目がこの竹柵だ。
怪異は祓われ、シガヤの異界落ちは未遂に終わる。
「さて、ここの魔神はこれで全部か?」
――相棒の危機にイチトは囚われすぎていた。
振り返った先。白岩の上に、大きな獣が横たわっていることにようやく気が付いた。人の身3人でもまだ足りないほどの大きさを誇る『大狸』だ。
確光レンズをかざせば御身は
「土地神までもが」
零れ落ちた声には驚愕と落胆が絡む。
その矢先、離れた竹藪から数百の眼差しを感じた。不敬を咎める、使いの狸たちの目だ。それまで見ているだけだったくせにと、イチトも使いに対して不機嫌に眉を顰めるだけ。
白岩のすぐ下にシガヤのテーザー銃が落ちていることに気づき、イチトは大狸を警戒しながらも拾い上げる。
そうして、此処を訪れた時のシガヤがテーザー銃を構えた姿を思い出す。
試しに
この場に辿り着いたシガヤはまず地主神から苔の除去を試したのだろう。
「ハタヒロに侵食された身で、よくそのような余裕があったものだ」
そうやってシガヤの使命感に感嘆していると。
グ、オ、と地主神が大きく鳴いた。
イチトは反射的に腰を落とす。右手はテーザー銃を握ったまま、左手の甲には銀色の呪紋が広がっていく。
首をもたげた大狸はイチトを見据えてぱっかりと口をひらく。
舌は白く結晶化し、歯も喉奥も、宝石のようにギラついている。
それを認識した瞬間、総毛立つ強烈な悪寒がイチトを襲った。
髪さえも逆立つような感覚。
地主神は自らの身体に魔神を封じていた。
Sd型魔神・ハタヒロ。
幾重もの偽装を試みる、鉱石体の侵食怪異。
そして封じるのも限界だった。大狸が立ち上がる。双眸が鉱石に変貌していく。体中の傷から雪の結晶が吹き出す。支配されていく。変貌していく。
「『神殺し』は得意だ。しかし、それでいいのか!?」
もはや言葉が通じるとは思えなかったが、イチトはそれでも尋ねた。
ギャウー、と狸の鳴き声が呼応する。
しめ縄を付けたタヌキたちが、たまらず茂みから飛び出しイチトを囲う。
彼らの半身は苔に覆われている。今奮い立つ行為がもはや誰の意志なのか、獣たちにもわかっていないのだろう。
少なくとも地主神はその行為を喜ばない。ギャウ、と鳴き返して手下を諫める。
使いの獣を侵す苔。その苔を従える鉱石。だがしかしそれらの頂点に、大狸が地主神としての矜持を示して立ち上がる。
人は、その相関図のどこに組み込まれるのだろうか。
キュー、ギュアー、ニャー、と、タヌキやネコが揃って騒ぎはじめる。
大狸が喉を反らすと、碧色の風が不気味に渦巻いた。
苔は地を這うどころか風にも乗って、やがて大狸を核に収束する。
地主神の表皮に群がる苔は別の獣の貌をとった。耳が尖って山のよう、尾は長く、まるで狡猾な猫の姿。使いのタヌキたちの声が響く。イチトが一瞬目を向けると、彼らは苔から解放されていた。
「お前は、それでいいんだな!?」
再度の問いかけに『苔偽獣』が叫ぶ。虚全体が大きく揺れる。
弾型に膨らんだその身は、口のようなものを3つも開いて、口腔内で輝く鉱石を見せつける。
"魔神がこちらを伺っている"。吠える声はひたすらに痛ましい。
獣は6つの脚で地を蹴り、イチトに向けて駆け出した。
しかし、苔の獣の脇腹にシガヤの蹴りがぶちあたり、突進は妨害される。穿つ勢いの蹴りは苔の薄い装甲を剥がして魔神の肉を傷つける。
「オレが殺るから。イチトくんは"回収"しといて」
魔神を屠るまで止まらない、シガヤの第弐神器『赤い靴』。血で濡れれば黒い脚も赤く彩られるだろう、しかしもう地主神は血を流せない。代わりに土留色の体液がシガヤの脚を濡らしている。
「……承知した」
シガヤの暴虐の音を背で聞きながら、イチトは竹柵へ向かう。
左手を振ると
イチトは竹柵の向こうに落ちた亡骸の回収に取り掛かる。
自らは異界に足を踏み入れぬよう、鉤とロープを使って引っ張り上げた。
改めて見回せば柵の隙間に、他にも"人"が埋まっているのだと分かる。
己の身体を使って蓋をしているようだった。
「竹を取りに来て、境目の亀裂に気づいたんだな。埋める手筈が、己の肉しか無かったと?」
労るように死体を撫でると、苔はサラサラと消えていく。泥にまみれたウインドブレーカーが死者の生前を過ぎらせる。
一段落ついた頃、グ、ア、オ、と大狸の泣き声が虚中に響き渡った。
イチトが亡骸から白岩に目を向ければ、大狸の百に開いた口から砕けた結晶が吐き出される様が目に入る。
シガヤの表情は、イチトの位置からでは分からない。どんな顔をして踊っているのだろうか。『赤い靴』は今は始祖鳥の脚に変容し、苔と結晶と大狸の肉をまとめて斬り裂いた。
それはトドメとして過不足なかったようだ。
3つに裂かれた肉がドサドサと順番に地に落ちる。
シガヤは吐かれた結晶のひとかけらだけを水筒に収めると、残りは丹念に
「イチトくん、いろいろ迷惑かけちゃってごめん」
歩み寄るシガヤだったが、両足が体液だらけのことに気が付き足を止める。
「別に構わん。最後は自分でケリをつけたようだったしな」
イチトは構わずシガヤの近くに寄る。シガヤは一歩引いたが、それだけだった。曖昧な笑みを浮かべてイチトを見上げる。
「まんまと魔神に取り込まれちゃった」
「そういうこともある」
「あってたまるかよ」
シガヤがクツクツと喉奥で笑う。徐々に普段を取り戻していく。
「魔神が二重になっているとは、初めての案件だった。魔神同士でもつぶしあいをするのだな」
イチトが差し出すテーザー銃をシガヤが丁寧に受け取る。
「水が合うって言葉は、そのまま異界や魔神にも適用できるみたいなんだよネ。仲違いをうまく利用させてもらうのが神殺しのコツよ」
それぞれに支給された第壱神器『公色警棒』と『十色テーザー』は、汎用神器ゆえに各異界の"力"を切り替えて出力する仕掛けが組み込まれている。それゆえ魔神と相対した時は有効属性の判断が必要で、今回のイチトは
「……シガさんが、向こう側へ行ってしまうのかと焦ったぞ」
「今回はマジでヤバかったな! イチトくんが居てよかったヨ。な~んかまだ頭ん中がチカチカするけど……」
「Hk型の最大出力だ」
「最大て。ちょっとは加減しろっての」
片頬を抑えて笑うシガヤの目の奥で複数の色がチラついている。その顔がとても楽しげだから、イチトには限界の判断が付きにくい。
どちらともなく、ニィニィという泣き声が周囲で強まっていくことに気がつき目配せを交わす。
3つの肉塊に裂かれた土地神の周りにタヌキやネコがたくさん集まっていた。そのうちの何匹かは互いを励ますように尾を絡ませあいながら、回収員ふたりをねめつけている。
「……ネコもタヌキも、特に敵対しているように思えないが?」
「『狸と猫の争奪』ってのは、言っちまえば人間が考えたお話だからねェ」
ジエン市に居ないと伝わるネコは、虚で静かに暮らしていたのかもしれない。表立って人間の相手をするのはタヌキの役割。隠れて地主神を支えていたのがネコだと"想像"することもできる。
「オレの持論じゃ、最も危険なのが『小説家』……つまりお話をつくる人なんだよ。お話がなければ教訓も思想も宗教も、機能しないからサ」
「不名誉を語られたネコの誤解を解いてまわるか?」
「いんや、そいつは
深入りをするなとシガヤはイチトに注意してきた。そのスタンスは変わらない。
「では、次の議題だ。殺してしまった地主神をどうするか」
イチトが3つに裂かれた神の肉を指さした。
「博物館で展示をするか? おそらくあの大狸は、『異界性』にも『侵略的』にも該当しない『怪異』だが」
「……彼女には、これからもこの地の神で居てもらうよ」
シガヤの指示で、イチトは竹柵に詰められたままの人間の亡骸を引きずり出した。埋められていた残りのふたり、拾い上げたひとりとあわせて合計3人。
大狸の内臓と死肉を詰めた麻袋で、竹柵に空いた3箇所の隙間を埋めた。剥いだ大狸の皮は柵に貼りつけて、麻袋そのものが見えないように覆い隠す。
こうして異界と『虚』は正しく遮断される。竹柵にしつこくしがみついていた苔も、公色警棒を照射したらすぐに枯れ死んでいった。
「"想像"だけど。この人たちは、乞われてか、志願したかのどっちかで、境目を守る役割を受けたんじゃないかな」
回収した3人分の亡骸に腐臭は無い。
「俺も同じようなことを考えていた」
苔を祓ったそれぞれの顔はのっぺらぼうで、身体もずいぶん軽かった。
「人知れず町を守ったんだ。
個を失った亡骸たちだが、それでも人の世に戻ってこられたのならば、身元を照合する手筈はある。
「守り神の役目は、元来の地主神に任せるべきだ」
亡骸に話しかけるようにイチトは言う。
「俺たち人間は
異界を出ていく人間の背を、使いたちがトコトコと追いかける。
虚の危機は去り、この地では滞りなく神事が繰り返されるだろう。
どんな
扉がなければ、そもそもこんな悲劇は起きないのだから。
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