狸の虚【4】緑の小道、走る奔る赤い靴

 緑に輝く虚の内部に、ふたりのまどうの声が響く。

「シガさんは……頭がいい。なんせ皇都大学の先生だからな」

「うんうん、皇都大学出身かつ皇都大学飢村研究室所属の将来有望な"助教授"ね」

 指折り数える惑羽イチトの言葉に真道シガヤが同調する。足元でサクサクと音が弾ける。


「それにシガさんは机上の空論を語る派閥の学者でもない。フィールドワーク派だ。つまり行動力のある男だ」

「そうそう。頭が良くて頼りになる男」

 ふたりのまどうは、神域を歩いている。ピシャピシャと湿った音が足跡に置いていかれる。


「あとは……シガさんは、神器の扱いも上手い。複合型の神器を扱えるのはシガさんぐらいじゃないか?」

「そういうのより、真道志願夜は賢いイケメンだとか愛嬌ある天才とかさぁ……」

 ワークブーツが枯れた葉を踏むガサガサという音が整備された異界に反響する。


「む、性能面での評価か? そうだな……タフだしテクニックもある」

「なんかアレな意味に聞こえちゃうな」

 イチトは小脇に偵察用機械ドローン収容箱を抱えていた。すでにドローンには先行して周辺の様子を探らせている。昨夜の哨戒で白い機体はバッテリーが切れたので、持ち込んでいるのは黒の機体のみ。

「徹夜ができるし技能も高いということだが」

「お前さん分かって言ってんでしょ」

「なぁ、シガさん」


 イチトが立ち止まった。ガサ、と竹の葉がひときわ大きな音を立てる。

「俺に予行練習をさせないでくれ」

「お、『予行練習』だって分かってんじゃん?」

 引きつった笑みのままシガヤは軽口を叩いた。


「……そろそろ副館長サンらが潜ったとこより深くなるね。"警告"しとく?」

「じゃんけんで決めよう」

 それぞれがじゃんけんに勝つための気合い入れなりポーズ取りなどを行ったのち、じゃんけんぽんという声が虚に響いた。

 3度のあいこの後、イチトが敗北する。

 咳払いをするとイチトが大声で歌いはじめる。シガヤに仔細は分からないが軍歌というのはかろうじて掴めた。

「皇都警察って、軍歌推奨してんの?」

 歌の切れ目にイチトが反論した。

「祖父の趣味だ!」



 ――時刻は、少し前に戻る。



 アラームが鳴るよりも前にイチトは目が覚めた。何か悪い夢を見ていた気がするが、覚えていない。

 辺りを見回すと、ハバキは布団を乱さず大人しく、シガヤは枕を抱き込むようにして寝ていた。ふたりとも目覚めはまだ先のようだ。

 イチトが最も布団の扱いが悪かったので、誤魔化すように整えてから足音を立てないように窓際へ向かう。


 窓を開けて深呼吸。朝の冷たい空気が肺に染み渡る。清涼感にわずかに混ざる違和感があった。イチトは小さく咳き込む。

 白のドローンがちょうど眼前を飛んでいたのでリモコンを使って回収する。プロペラ音がうるさいが、ハバキがうーんと唸っただけで起きることはなかった。

 夜間に警報が鳴らなかったということは、誰も外に出ていない。念の為と影響画面で映像を確認したが、早回しをしても不審点は見つからなかった。


 イチトはドローンを解放すると、足音を殺して階下に降りる。柄本晃正がリビングのソファで眠っていた。

「風邪を引いてしまうではないか」

 思わず小声で呟き、リビングに放置されているブランケットをかける。きっと彼の妻も娘の美蔓も、友人である不座見ヤマヅでさえも似たようなことをした経験があるのだろうとの想像は容易かった。

 微笑みを零すイチトであったが、座卓に目が向かうと同時に口元が強張った。


 卓上にある密封袋。中には苔と金属。

 イチトはポケットに入れたままだった『確光レンズ』を取り出してかざす……鏡面が一瞬だけ赤色に揺らいだ。


「魔神……」

「早いな、惑羽一途」

 声をかけられ振り向けば、ジャージ姿の不座見ヤマヅが立っていた。首からかけたタオルで汗をふいている。

「さすがだなヤマさん」

「どうせ『さすが年寄り、朝が早い』とでも言いたいのだろう」

「……なぜわかった」

「貴様の云うことなど想像に難くない。早朝ランニングは私の日課でな、どこに居たとしてもやっておかないと落ち着かん」

 己も似たようなことを昨夜ハバキに言ったとイチトは思い出す。


「ところで。その苔に、反応があっただろう」

 ヤマヅが指差した先はイチトの手元の密封袋だ。

「ドローンに付着していたものだ。それが魔神の一部か、異界に関連するモノかは分からない。昨夜のうちに博物館にサンプルを送ったからじきに検証結果が戻ってくるだろう」

「きっと本件はシガさんが適任だな。赤色に有効な神器を使っているから」

「雑なくくりをするのはやめなさい。赤色を示す異界区分は3つもあるんだぞ」

 指3本たてて憤慨をするヤマヅだったが、ソファで眠る柄本が「うぅーん」と声をあげるので小さく息を吐く。


「貴様には『銀の盾』がお似合いだ。アレは異界の相性など考える必要がない」

 声を落としてヤマヅが小言を続ける。

「む、人を考えなしみたいに言うのはいかがなものか。赤色は、鬼子キシ型と稀火マレビ型と六人部ムトベ型だろう?」

「最後だけはずれだ。六人部じゃなくて六波羅ロクハラ……現場でも真道志願夜の言うことをよく聞いて動きなさい」

 イチトは視線を一瞬、天井に向けた。音はない。まだ寝ているのだろう。


「今日の2班は、私と村主が向かったよりも深く潜ってもらうことになる。交戦は覚悟しておきなさい」

「俺は構わんがシガさんはどうかな」

 小首を傾げるイチトにヤマヅは眉間を抑えるしかない。

「引きずってでも連れて行きなさい。いつまでも心的外傷に浸っているのは彼の身にならない」

「シガさんは乗り越えられる男だぞ」

「その、度の過ぎた信頼が、真道志願夜の負担になっていなければいいが……」


 シガヤについての話し合いはそこで終わった。

 玄関口から美蔓の叫び声。反射的にイチトはリビングを飛び出す。

 腰に下げていた警棒を手に開きっぱなしの玄関へ向かうと、怯えた眼の美蔓が追いすがってきた。

「博物館さん、外、外ォ!」

「離れていろ!」

 イチトは第壱神器・公色警棒をてきとうに切り替えると展開点灯する。『Ta』の光学サインが浮かぶと共に、ズァと擦れるような音が聞こえた。


 春の清々しい青空。道の向こうから柄本家の玄関まで、苔の道ができていた。

 まるで誰かを求めて異界から這ってきたような、長い長い緑の痕だった。



 ……。



 ――そして現在。《虚》の内部。


 1班は柄本家周辺の調査、2班は虚の調査という役割分担。

 昨日の時点では「お使いの確保」が優先業務だったが、今は「魔神の確認」が急務となっている。


 葉が浮かぶ緑に輝く虚の内部に、イチトの歌う力強い軍歌が響く。

 これは敵対意志を示す行動で、異界での魔神のおびき寄せに利用される特殊行動。当然、神器を持たない場合は禁止行為に変わる。

「オレはクラシック派なんだよね。再生装置が必須だけどサ……」


 異界の怪異に対して言葉は伝わらずとも"音"は振動として察知できる。魔神と交戦し、振動と痛い思いが結びつけば儲けものだ。以降、その怪異は歌を警戒するようになる。付随効果として、異界落ちしてしまった者が響く歌を頼りに戻ってこられたという報告も毎年2件ほど。


 周辺には灯籠の形をしていただろう岩が、崩れたまま転がされていた。

 それを認めたイチトが歌を止める。

「出迎えだ」

 空気が湿っている。足元がぬかるむ。ふたりの視線の先にタヌキが1匹、待ち構えていた。

 スグリの報告通り、しめ縄は身につけておらず、身体は"変な色"――緑混じりの茶色をしている。

「釣れたものは神の使いか……」

 シガヤは観察、イチトは警戒。普段なら敬意を示すべきだが魔神疑いのある今なら無礼が許される。イチトは警棒を構え、シガヤもテーザー銃に手を伸ばした。


 やがてタヌキが「ニャア」と小さく鳴いた。

「ネコじゃんっ!」

 シガヤが喜意を隠せない声をあげた。しかし同時に、相対する獣の表皮がざわめいた様子を見逃すこともない。

「……苔、だ」

 短くイチトに伝える。


「これ、苔をまとわせてお使いタヌキっぽい見た目をつくってんな?」

「むぅ……使いのタヌキのふりをして、人を迷わせていたのか?」

「そんなことしてたらネコは余計に嫌われるヨ!」


 嘆いている間に、眼前の獣が大きく大きく膨れ上がった。

 苔の獣は4ツ足の大ぶりな化物に変貌を遂げる。

 口を開けば、か細い声でニャアという声。

 一瞬だけ、苔が歌うようなざわめきを聞く。


 敵意だ。


「やっぱ苔だな苔! 苔ぜんぶ消さないとダメだ!」

 シガヤの指示と同時に獣が跳ね、上空から差し込む金の陽光を遮った。碧い影がふたりの男を覆い隠す。

 すでに大きな猪ほどの大きさとなった化物は、表面の苔をうねらせながらイチトとシガヤに突っ込んできた。

「こりゃテーザーでなんとかなるデカさじゃねェ!」

「シガさん、第弐神器の準備を!」

 イチトが第壱神器・公色警棒をそれぞれの手に構えた。

「俺が時間をかせぐ!」


 灯身は紫色、Ta光を放つ。事前にシガヤが指定した色だ。イチトは屈むと同時に腕を振り上げた。

 撒き散らされる紫の光によって苔があっという間に散らされていく。腹下から攻撃を受けた苔の獣はドォと音をたて転げ倒れた。

 ニャア、とその場にそぐわぬか細い声。


 攻撃を引き受けてもらっているうちにシガヤはツールバッグから第弐神器を取り出す。文様が刻まれた手のひら大の黒杭。ワークブーツと靴下を脱ぎ捨てると、己の右足の甲を勢いよく貫いた。

「……ッ」

 シガヤの呼吸が一瞬乱れる。そのまま左足にも、2本目の杭を打ちつける。

 杭はズブズブと両足の甲に飲み込まれた。その傷を中心に文様が広がり、文様の間を埋めるように黒い液体が吹き出して脚全体を覆う。

 Ta型・Oz型複合神器『赤い靴』の展開が完了した。


「イチトくん、こっちオッケー!」

 苔の獣の右足を削いだばかりのイチトが振り向いた先、シガヤの右目は紫色に、左目は青色に輝いていた。

 イチトは声をあげられない。「はしれ」とだけ、口の動きだけで伝える。


 ド、と、音をたてて、シガヤが駆け出した。


 黒い硬質の脚、それは右、左、右、左と、駆け出すごとに適切な形に変様する。空を斬る蹴りが、苔の獣を裂いていく。

 振り上げた脚は、最初はロングブーツを模していた。だが振り下ろす頃には、かぎ爪を持つ脚に変わっている。

「見立て通りだ。効果バツグンッ」

 獣が苦しそうに鼻頭を荒く動かし、噛みつこうと果敢に大口を開く。だがそれをシガヤは軽々避けた。両足は今は、黒い猟豹。

「名前はあるのかなコイツ。鬼子型魔神・タヌキネコ?」

 シガヤが愉しそうに声をあげる。赤い靴を構成する『Ta/憑子タノシ』型の力は、鬼子キシ型の異界性怪異たる"苔"に優位をとれる。異界の優劣関係は絶対だ。

「でも親近感わく名前はよくないよねェ」

 足を振り上げるたびに苔が、出血のように神域内に散る。

「そうだな、コケギビョウ、とか?」

 神器の展開中シガヤの脚は勝手に動く。だから思考も並列で可能。


 全自動オートで魔神を屠るために踊るので、黒色外装に関わらずソレの名前は『赤い靴』だ。

 ハンス・クリスチャン・アンデルセン作の童話に準えて。

 "死ぬまで踊る"は、展開者の敵を呪う言葉に。

 それがOz/御頭オズ型の性質を関する理由だが、理解する者はそう多くない。


 その、いまいち理解できない者のひとり――イチトは、シガヤの踊りを横目に次の攻撃の準備をしていた。公色警棒のカートリッジを入れ替えて攻撃光を補充する。バックアップの支度が徒労に終わることも考えながら。

「ニャア」「ニャア」「ニャア」

 ふと視界を手元から外せば、周囲には無数の苔狸。ネコの声色で媚びてくる。

「……なんだ?」

 違和感は後から追ってきた。

「数、が」


 こちらを見ている獣が、多い。


 苔に覆われたタヌキネコの群れに、しめ縄をつけたタヌキも混ざっている。

 ネコだけではなく使いも侵されていたという、最悪の想定がイチトの脳裏を撫でていく。


「ッ、シガさん、まだ何かありそうだぞ!」

 声を張り上げて相方を振り返る。イチトの視線の先には、上半身が削ぎ落とされた苔の獣と、呆然と立ち尽くすシガヤの背中。


 シガヤはいつのまにか攻撃を止めていた。

「……シガさん」

 イチトは咎めるように声をかける。

「なーんだろ、なんか、脚うごかなくなっちゃった」

 引きつった声が返ってくる。

「多分やらかしたわ。ごめんネ、イチトくん」

 シガヤの脚に視線を落とせば、白く輝く光がまとわりついている。


 ド、と、音をたてて、シガヤが駆け出した。

 苔の獣を無視して、虚の奥へ。


「行くなシガさ、ぐぅっ!?」

 張り上げた声は苔の嵐に飲まれる。周囲でイチトを睨んでいた獣たちが、シガヤのあとを追うように一斉に跳んだから。

 とっさに公色警棒を点灯していたことが幸いで、イチトに苔の付着は無かった。


 イチトはとっさに確光レンズ越しに遠ざかるシガヤを見る。鏡面はにぎらついていた。これまで見た赤色ではない……別の異界しゅるいの魔神が居る。


 そのまま虚は静かになった。

 この場に遺るのはイチトひとりだ。


「……。」


 やがて静寂を切り裂く羽音。先行していたドローンが戻ってきた。苔は付着していない。飛ばす前に念入りにTa光を照射したのが功を奏したようだ。

 イチトは映像情報を展開すると同時に、柄本家に残る1班に通信を飛ばそうと試みる。アンテナアイコンは1本も立たず。式神の手が関わらずとも、すでに外界から遮断されている。


「こちらモルグ市魔神博物館・回収員2班惑羽一途」

 ひとりぼっちで、届かぬメーデーを試みる。イチトはドローンの通話機能に冷静な声を吹き込んでいく。

「真道志願夜が、恐らく、虚の奥へ向かった。任務は続行する……今回の本命、鬼子型魔神じゃなかったみたいだぞ」

 いつか誰かが拾い上げる、犠牲者の手記になるように。しかしイチトに死ぬつもりは毛頭ない。現在状況の音声記録を、ただ淡々と続けていく。

「この苔は、虚から回収したドローンを取り戻しに来たと真道先生は推測していた。ドローンが魔神の次の"標的"だったのではないか? 生物よりも都合がいいと考えたのか……」


 声を記録しながら、同時進行でイチトは映像を確認していた。

 竹柵によって閉ざされた空間が写っている。柵には隙間があり、そこは不自然に苔で覆われていた。


「……この神域と呼ばれている異界。此方と彼方の境界が明確に造られている。本当にここは、人里と共存ができていたのだな」

 イチトはドローンの液晶画面を指でなぞる。汚れた手が、画面に写った"隙間"を執拗に。

「きっと少し前までここは、人のための庭と等しかった」

 それが何らかの原因で崩れてしまった……画面内、広場の中心の大岩には、ひときわ大きな影が横たわっている。画質が悪く詳細はわからない。強いKh型の反応が検出されているようだ。


 イチトは録音を止めるとドローンを中空に待機させる。あとから来る誰かに。


「さて、仕事がひとつ追加だな。真道志願夜の確保といこう」

 第弐神器を展開したシガヤは誰よりも速い。

 イチトだってを解放すれば飛翔すらできるが、今は使用を許されていない。


 虚の奥から歌が聞こえる。シガヤの声にも、獣たちの鳴き声にも聞こえた。

「ひとり残すとは酷なことを……」

 まだ誰にも言ったことはなかったが、イチトは"追いかけっこ"が嫌いだった。


 より神気の強まる奥地へ駆け出す。

 まだ"戻れる"範囲であるが、竹柵を超えてしまえばそれまでだ。


 地元の者が「大広間」と呼び親しむこの場には、ドローン1基とシガヤが脱ぎ散らかした靴だけが残された。

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