モルグ市北高七不思議【終】「ここにドアーはありません」
男子生徒はスマートフォンを見る。ニュース記事の新着が1件。
――盛愚市警察によると、✕月✕日午後✕時✕✕分ごろ、六ツ角交差点の路上で高校生へのつきまといが発生しました。実行者の特徴は、女性、✕歳位、黒色長髪――
時刻は放課後、文芸部の部室にて。
「あ、モリ先輩。"幽霊の記事"見てる」
スマートフォンを覗き込んで1年生が笑いかける。
「幽霊?」
そんなつもりで見ていなかったので、さすがに彼は眉を顰めた。1年生は細い指先で画面をスクロールして見せる。
「ほらここ、不審者の言動の記録。『私のこと見えてます?』って」
「……厭なつきまといだなぁ」
彼の言葉に、いつの間にか周辺に集まっていた部員たちが口々に呟く。みんな、この春に北高に入った1年生だ。
「なんか捏造っぽさありますよね。虚偽の通報、みたいな」
「もうそういうの区別付かなくなっちゃったなぁ」
「トトキ市に出た不審者情報もヤバいよ」
彼は視線を部室の窓の外に投げかける。
中庭につなぎ姿の男2人が植物をひとつひとつ調べていた。
"
博物館からよこされた用務員は、今日も無益な調査をしている。
「まだやってるんかいあの人ら」
同じ2年生の部員が彼に語りかける。
「モリくんも飽きないのう、おっさん見んの楽しいか?」
「きのうは体育館を調べてたぜ」
観察結果を教えてあげると
「ほんまに? アレ自信あったんやわ」
「ぜんぶ終わったら、映画研究部に売りつけてやろう」
眼下で目立つオレンジ色のつなぎを目で追いながら、話題だけは同輩に併せ。
「映研、ホラー撮るやろか?」
「モキュメンタリーなら引き受けるやもしれぬ」
昨日は体育館。その前は季節外れのプールサイド。
校内を駆けずり回る用務員を見て、文芸部のモリはうっそり微笑んだ。
あのふたりはもう、サザンカを頼ることをやめたのだ。
「あれ、今日✕✕さん来てないの?」
「放課後の『博物館講義』に参加してるみたい」
静寂の隙間を縫って、部室の雑談がモリの耳に届く。今日の吹奏楽部は休みのようで、フルートの音は聞こえない。
「参加者、女の先生ばっかり。気色悪さがあるよねぇ」
「でも魔神の話は大事なことだし……」
誂う先輩のやりとりの跳弾。誰も彼も手元の原稿用紙は真っ白のまま。
「今日
静かに外を見ていたモリに、部長が優しく問いかける。
「それは、おれに聞かれましても」
「そっかぁ……心配だね。もう何日になるだろう」
放課後のチャイムが濁って聞こえる。
はやく去ってほしいとジリジリ焦れる。
細めた眼差しは博物館への敵意であった。
……。
チャイムの音がうざったくて、サザンカは手元から彫刻刀を取り落とした。
カ、と小気味良い音をたてて刃が木の床に突き刺さる。
「おー、アーティスティック」
ぼんやりこぼすサザンカに、美術部員が「もう、危ない!」と母親のように咎める。放課後の日常茶飯事が戻ってきた。
「サザンカちゃん、『バイト』はいいの?」
サザンカの着崩した制服をじろじろ見ながら部員は問う。胸当てのボタンは外されていて、派手な色合いの下着とタトゥーシールが貼られた谷間が見えた。
「んーまぁ、アタシがいると邪魔だって」
サザンカはつまらなさそうに唇を尖らせる。その横顔を見て、美術部員たちはクスクスと友好的な笑みをこぼした。
「拗ねてる、拗ねてる」
「そんなんじゃないもん」
「そういえば七不思議っていくつまでいったの?」
「えーっとね、1、2、3、4」
サザンカは指を1本ずつ立てていく。指先のネイルは紫、青、緑、赤。
「5、6……」
また紫、最後は右手の人差し指の黒を添えて。
「ななつめは? やっぱり、知ったら死んじゃう系?」
恐るおそる聞く美術部員に、サザンカは眉を吊り上げほくそ笑む。
「ソレはこれから決まるかな!」
キャア、といっそう楽しそうな黄色い声。
……。
「さすがにオレらの存在にも慣れたみたいだねェ」
焼却炉の前に立つのは真道シガヤと惑羽イチトだ。
業務中に缶コーヒーを飲んでも文句をつける生徒はいなくなった。
「七不思議もまた、ずいぶん浸透したことで……」
遠目に、渡り廊下をのんびり歩く養護教諭のコバヤシを見つける。何人かの生徒に囲まれて鬱陶しそうなジェスチャーだ。しかし、心底疎んでもいないようで。閉じられた眼のつくる表情はやわらかい。
「さぁて今日はどこ探す?」
シガヤの上目遣いを一瞥し、イチトはサイドポーチからB6ノートを取り出した。『モルグ市北高七不思議』と題された、シガヤが笑って「手記」と称する文芸部の調査記録だ。
「……そういえばかつて、証拠が多すぎて、捜査が頓挫しかけた事件があったな」
「オヤ? 皇都警察でもそんなことあんの」
「その件はイガイ課にまわされた」
「ってことは最初から異界絡みじゃんね」
雑談のうちに缶コーヒーは飲み干される。
梨の礫の校内調査、ふたりはあいにく専門ではない。
「
「オレらも出張業務がくるって、副館長サンが」
現地調査が済んだから、とシガヤは次の案件の話を続ける。
……この高校の案件の、重要度は秒ごとに下がる。
ふたりが見上げる春の夕暮れ空。パステルオレンジに溶け込む雲に、夕日のピンクが映り込む。イチトは焼き尽きた目を校舎に向けた。
「握りつぶそうとしたって、そうはいかんぞ学徒ども」
幾人の生徒が此方を観察していると、惑羽イチトには視えている。
……。
それから数日。モルグ市北高、体育館へ向かう廊下にて。
生徒の誰かが「柱が歌うってマジなんだ」と囁いている……どうやら今日も鳴いたらしい。ここ一週間ずっとそう。"七不思議"は在ると主張する。
時刻は5限目。全校集会のちモルグ市魔神博物館による特別講義という話を聞くだけの50分。
「皆さん本日はお集まりいただきありがとうございます」
この日まで狭い空き教室で講義をしていたヤマヅ副館長は、体育館でもマイク無しによく通る声で挨拶をした。その隣にはスーツ姿の真道志願夜。
つなぎ姿のイチトは体育館の二階、キャットウォークから生徒を見下ろす。
体育館にサザンカの姿は無い。着崩した格好の注意をどこかで受けているのかもしれない。生徒の何人かが、伊藤先生にガミガミ叱られるサザンカの姿を見かけている。
「我々モルグ市魔神博物館は、本校内でドアー調査をしていました」
「しかし、ドアーは見つかりませんでした」
生徒たちは真剣にその言葉を受け止める。
「博物館による調査はこれでおしまいです。ご協力いただき感謝します」
ヤマヅの柔らかい声に、何人かの女子生徒が「キャー」と囃したてた。それに緩やかに手を振って応えるものだから、ここ数日の放課後講義で掴んだファンのさざめきが広がっていく。
「それではここから先は、皇都大学の真道志願夜助教授が……」
ヤマヅはシガヤにバトンを渡す。この国の魔神研究第一人者による、魔神の危険とその遭遇、異界から現世へ逃げ帰るサバイバル講座のはじまりだ。
話を真剣に聞く者と、あくびをする者の2択の中で。
「モリくん、うまくいったみたいだね」
2年1組の列の後方、文芸部の女子生徒が耳打ちをした。
「でもなんであの人、笑ってるんだろ」
壇上の助教授のニヤニヤ笑いを指しているんだとモリは思いこんでいた。
だから、キャットウォークの紺色つなぎの男には目を向けることが無かった。
……。
やがて放課後の社会科準備室。
居るのはイチト、シガヤ、ヤマヅの3人だけ。
北高のドアー探しの間、この教室が3人の更衣室であり作戦室であった。それも今日でおしまいだ。博物館のバックヤードより、ここは窓があるからマシだった。
「式神を見た時に、見たことも聞いたことも無いと生徒ははしゃいでいた」
つなぎを脱いで、博物館のジャケットを身に着けながらイチトが語る。
「それが七不思議かもしれないと宣うのだ」
イチトの証言を聞いてヤマヅは気難しそうな顔をさらに深める。
「『募集』をしていたんだヨ。
イチトとシガヤの結論に、ヤマヅは「なんでだまってた」と不満げに零す。
「ヤマさんには"部外者"として居てもらわなければまずかった」
「オレらもう校内関係者にカウントされちゃったもんネ」
「何の話だ」
「今してるのは校長室のカナリアの話」
「……、はぁ」
わからぬ、と眉間を抑えるヤマヅをふたりは宥める。
「学校が用意したバイト生徒は、『七不思議』をドアー候補として提供したワケじゃないようだ」
イチトはヤマヅの肩を撫で、シガヤは緑茶の紙パックを握らせて。
「博物館に提供したから、それが
「貴様らはそれをいつ知った?」
「疑いはじめはヤマさんが仕込んだ式神かな。確信したのは、オレがでっちあげたよっつめを山茶花サンが受け入れた時」
シガヤの言葉に、ヤマヅは深く重く長いため息をついた。
「……ドアーは無かったと、宣言した。北高の全員の前でだ。私たちは、この学校に、バカにされに来ただけなのか?」
真剣なんだぞ此方はと、ヤマヅはひたすら消沈する。
「魔神は、異界は、ドアーは。本当に、本当に、本当に、危険な、存在だ。それが分からぬ市民であるまい」
「安心して副館長サン」
2班は机の上に資料を広げた。B6ノート、生徒によるモルグ市北高七不思議の調査記録。そしてイチトが要請した資料――生徒名簿と教師名簿と、欠席記録と新聞記事。
「ドアー調査をやめると宣言した際、反応があった生徒は4名」
「視力が良すぎて怖いねェ」
「さんにんは安堵していたが、ひとりは極めて不安げだった」
そいつは
やがて教室にノック音。伊藤先生が古地図を片手に入室する。
「頼まれていたもの、やっと印刷できました!」
その後ろに制服を着崩したサザンカが続く。スカートは短いままだが靴下をきちんと履いている。ミサンガを付けた右手には校長室のカナリアの籠を持って。
「こーちょーせんせ、イヤがってたけどまぁいいよね!」
籠をヤマヅに近づけると、カナリアは思わず警戒歌を口ずさむ。
「それじゃあ最後の七不思議さがしをはじめよう!」
……廊下の奥から吹奏楽部のチューニング音。
……体育館から竹刀をぶつける剣道部の音。
……文芸部部室ではタイプ音と執筆音が半々ぐらいの割合で。
「意外と居座ってたよな、ハラハラしたわぁ」
「本職から見てどうだったかな、うちらの調査記録」
教室の真ん中で2年生たちが駄弁っている。
3年生は顧問の先生に呼ばれまとめて不在。
1年生はもう帰った。5限目の講義が身にしみて、部活をサボって魔神博物館へ行くらしい。
「これでやっと✕✕✕さんも学校に……」
文芸部のモリ少年が、視線を外に向けたのは決して偶然ではない。
視界の端を一瞬、黄緑の光が焼いたのだ。
確光レンズの反射であるがそれはモリには分からない。
駐車場に続く道、花びら散った桜並木の下でカーキの上着が揺らめいている。
まずい、と云う声は飲み込んだ。使命感にかられて立ち上がる。机から万年筆が落ち、カランと軽い音をたてて転がった。
「モリくんどうしたん?」
「……調査、おしまいじゃなかったのか?」
独り言だった。自分に言い聞かせるためだった。
「モリくん? うちらにも分かるように言いな?」
「……みんなは、此処に居ろ!」
「もう帰りたい場合は!?」
廊下に駆け出すモリの背にかけられた疑問に「裏口だけはやめておけ」と努めて明るく言い残して。
――オレンジ色のつなぎなら目立つのに!
上履きのままモリは走る。すでに回収員の背は見失っていた。
山茶花並木に隠れるように、石垣に埋もれて死んだ桜の枯れ木を目指して足を動かす、息があがる。
それがもともと桜だと、行き交う人は気づかない。とうの昔に枯れた樹だから。
「ハァッハァッハァッ……」
呼吸が絡まり立ち止まる。喘いでいると、水を巻き込む流れを伴う鳥の歌声が耳を突く。校長室のカナリアだ。小さな鳥籠が、桜の躯にひっかけられている。
まだ明るいと思っていたのに、気づけば外は黄昏色だ。
「やあモリくん。先日は素敵な手記をありがとう」
ひそりと肩を掴まれる。真道シガヤが耳元で笑っていた。
「よ、用務員さん……?」
「回収員。オレたちはモルグ市魔神博物館の、回収員だ」
肩を持つ力は強かった。しかしそれよりも緊張で動けない。
モリの眼の前、桜の木の前に、もうひとりの回収員が立っている。片手に警棒を握り、手元でカチカチ、何かの出力を切り替えながら。
「なァんで『桜の躯』なんて書いちゃったの?」
あざ笑うシガヤを横目で見やる。灰色の目が三日月型に歪んでいる。
「古地図ひっぱりださなくちゃ、きっと見つからなかったヨ」
他人の寄稿を書き換えられるワケがない。文芸部としての矜持だろう。
サザンカの蒐集を上まわる、七不思議の捏造を。
「罪悪感、だったんだろうな」
惑羽イチトが公色警棒を展開する。
「もちろん、そのひとりを裏切り者と責めてくれるな」
ばかみたいに明るい蛍光水色が、黄昏に染まる裏口を昼の空色に塗り直す。
「おかげで人死にが避けられる」
校長室の金糸雀が、
イチトが警棒を振った勢いで確光レンズが土に落ちる。
レンズは黄緑色に染まっていて、モリには意味が分からなかった。
やがて桜の下から呻き声。
人気のない道、学校裏口――汚らわしい
「やめろ、開けるな!」
金切り声でモリは叫ぶ。
「それは異界の入口なんだろ!?」
シガヤの手を振りほどけず、稚拙な言いくるめを試みる。
「魔神が出るからダメだって、言ったのはおまえたちじゃないか!」
呼応するように
助けを求める、気色の悪い、淀んだ男の声がする。
「犠牲者がいない、魔神もいない、それでドアーがあるって
「犠牲者はいたんだ。生徒でも教師でもなく、それでも学校にいたヤツが」
黄緑色の閃光が、枯れた幹を乱暴にノックした。
その光に耐えきれず異界の扉が開く。
モリの顔は土気色に変わり、似た顔色をした"帰還者"を見下ろす。
長らく、自力で扉を開けられず、喘ぎ苦しみ衰弱した男が這い出てくる。酷い異臭を放っていた。もう何日も飲まず食わず。胃液が口端にこびりついて。開かない扉を半狂乱で叩き続けた拳は両方、赤黒かった。
――実行者の特徴は、男性、40歳位、茶色の長髪、無精髭。落ち窪んだ目。黒いTシャツに黒いズボン、ボロボロのサンダル――
「そいつ……✕✕✕さんを……✕✕そうとしたヤツで……」
厭悪の声を絞り出し、モリは帰還者の罪を訴える。
「たすけるひつよう、ないだろぉ……?」
異/界に落ちたのは"不審者"だっ/た。春/の話。暗がりで/生徒が/制服を乱し/泣いている。異変に気づく/のは遅すぎた。
「ドアーに落ちたらお知らせくださいすぐに博物館が助けます」
助けます?
犯罪者を???
……。
開かれたドアーに向けて、籠の中のカナリアはなおも泣き喚く。
「長期欠席者は、文芸部の2年生。名前は伏せるが……もう分かっている」
イチトの指摘にモリは顔を歪ませる。
泣きたいのか怒りたいのかもう分からなくなっていた。
「友達のことを思うなら、異界に落として殺すのではなく人の法で裁くべきだ」
イチトはスマートフォンの片手操作で救急車を呼びながら、生徒に静かに厳しく告げる。
「殺す……殺す? おれたちじゃない……勝手にそいつが死ぬだけじゃん……」
「キミの家庭は警察一家だったな、モリくん」
調べている。全部バレてる。理由、動機、使命感、少年の正義感の源を、身元の首根っこごと掴んで揺らす。
……分かっていない。部外者は何も分かっていない。
大人に頼る面倒がなく、自らの手も汚さず、あの子の慰めにもなる、完全完璧な解決法であるというのに。これだから魔神博物館は。
「異界なら……確実じゃないか……天罰だ、天罰だ……天罰だ」
救急車なんて来ないでくれ、あわよくば事故ってくれとモリは祈る。正義感からもっとも遠い、醜い願いだ。
「犯罪者が異界に落ちてなにが悪い……!?」
✕✕✕は、あの日から、欠席続きで連絡も無い。
「ドアーは勝手に開いた! 天罰だ! 落ちて当然のやつなんだ!」
回収員の足元に横たわる、桜の枝から落ちた毛虫のような帰還者は、虚ろな眼で暮れた春空を見上げている。汚らわしい舌が「たすかった」と喘いで踊る。
「それでも
慰めるようにシガヤが口を開く。
「不審者への対策に、ドアーを遺しておきたい気持ちも分かるけど」
シガヤはとてもやさしかった。声も、笑顔も。
「死刑一択、楽だもんねェ……」
異界落ちの生還率を、
「でも、こいつはドアーに落として良いなんて『選ぶ側』に立った気でいると、あっという間にハードルは下がるよ。悪人なら落ちても良い、悪そうだから落ちても良い、気に入らないから落ちても良い……」
「そんなことするもんか!」
「いいや、するね。人は、絶対に」
真道志願夜は断言する。彼は人間性の底を知っている。全てと驕れるほどではないが、少なくとも高校2年生よりは。
「キミがそれをしなくても、いつまでも隠しておける
その用途の想像は容易だ。すでに各地で在っているかも。おれには取れると断言するか、そこまでいくと関係ないと突っぱねるべきか。モリは迷って、答えられなかった。
「己の正義を異界に託しちゃダメなんだ。ドアーを利用してやろうなんて、どうかこれからも考えないで。人には過ぎた代物なんだよ」
嗜め導く教育者の声に、救急車のサイレン音がかぶる。
やがて暗がりで一部始終を見ていたサザンカが、存在証明するかのようにギャハハと大声で笑い出した。
居るとは思っていなかったので、モリは一瞬大きく目を開き、そして敵意を持って目を細める。
「サザンカ……!」
「今回はアタシの勝ちだねモリくん!」
「あんたはダレから聞いたんだ!? これが開いた時、おれたちだけが……!」
サザンカはゲラゲラ下品に笑ってカナリアの籠を枝から下ろす。
「ドアーが開いた時、この子がうるさく鳴いたから」
手首の上に大きく育った金糸雀を導いた。その鳥は、開いた入口に飛び込みたそうに首を伸ばし、しかし健気に引っ込めるのだ。
「アンタのご主人さまが堕ちた異界だねぇ?」
――あの時、校内の見回りをしていたサザンカは、廊下に落ちた骨格標本を投げ捨てて、カナリアを連れて外に走った。そして一部始終を見た。文芸部員の計画を石垣の側で息を潜めて聞いていた。『このドアーは黙っておこう。あいつが異界で死ぬまでずっと』――
「ペットの癖に敏いこと。飼い主のことは諦めて、生徒を守ることを選んだね」
サザンカに語りかけられてカナリアはとうとう鳴くのを止める。また飼い主に会えますようにと、悲願が叶うことは無い。
「
項垂れて黙るモリを見て、イチトは警棒で己の手のひらを打つ。
「ようやく七不思議は終幕だ」
イチトの宣言と同時だった。
桜の躯の根本に在ったU字溝のフタが開く。
ざらりとした金切り声と共に、魔神の腕が飛び出した。
満を持しての魔神の顕現、サザンカが庇うよりも早くシガヤが身を引きモリを守って。
「桜の躯の下には魔神の死体があるんだっけか?」
イチトの足首に魔神の錆びた爪が食い込むよりも早く、イチトは銀色の斧を渾身の力で振り下ろした。側溝のフタと一緒に叩き殺す。つまりは桜の躯の根本に開いたドアーごと。
「……魔神の死体は、
「本当だったと騙っていいぞ?」
桜の躯の下には魔神の死体、ドアーの跡地。まとめてふたつ。
「俺たちの仕事もやっと終わりだ」
異界落ちからの生還者1名。回復後、✕✕容疑で勾留予定。
水色、銀色、黄昏色、サイレンの赤色、やがて夜の色に変わる。
「用務員さん、おつかれさんっした!」
敬礼をしてサザンカが笑った。
「それじゃあ今日のバイト代ヨロシク!」
広げる手のひらに絵の具の色。
「ったく、見てるだけだったくせに!」
……。
……。
ある春の話。
学校に行くのがこわかった。
わたしは"平気"だったけど、アレはまだ裏口に居る。
ドアーに堕ちたのを見ているのはわたしたちだけだけど。
何度も何度も悪夢を見た。ドアーを開けて、戻ってくるアレを。
せっかく2年生になったのに。
部員も増えたって、みんな優しく誘ってくれる。
でも怖い。わたしが休んでいる理由、学校中が知ってるかな。
知ってるんだろうな。
みないで欲しい、わたしは気持ち悪くなっている、気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪いなんでわたしが気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い何が死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死んでておねがい、おねがい
「大丈夫だから来てみなよ!」
サザンカちゃんはわたしの傷なんて気にせずに来る。
呼び鈴に応じなくても窓から無理やり。わたしの部屋2階なんだけど。
「教室がしんどかったら、保健室でもいーんじゃない?」
「保健室はいや。新しい先生、苦手で」
「コバヤシせんせ? たしかにあのひと、糸目でいやみな敬語マンだけど……」
「赴任した時の挨拶の顔。どんな異界の案件に巻き込まれたのだろうって」
「でもだいぶ顔つき和らいだよ? 七不思議のおかげでねー!」
なにそれ、と聞くより早くサザンカちゃんがわたしの手をとる。サザンカちゃんの指にはいつでも、ネイルに指輪に絆創膏に……パレットみたいにカラフルだ。
「優等生ちゃん。そろそろ勉強、追いつきたい頃じゃない?」
サザンカちゃんがそんなこと言うの、なんだかとってもおかしかった。勉強なんて気にしない人だって校内中が諦めてるはず。
「それじゃあ、次の月曜日! ゆーびきーりげんまん、ウソついたら……明日は明日の風が吹く~」
針千本は用意されない。だれもわたしを責めてはくれない。
やがてきてしまう月曜日。
陽が高いうちに帰るって親にはナイショで決めていた。
わたしはあれから夜が怖い。
正直に言えば今こうして、制服を着ると心がぐしゃぐしゃになる。
新しい制服だって、買うのは楽じゃないのにね。
お母さんごめんなさい。お父さんごめんなさい。無理しないでの言葉がやさしい。傷だらけの心をざらざら撫でる。勝手に傷ついてごめんなさい。
家から一歩出て、やっぱり気分がすごく滅入って。
ジャージに着替えて出直した。出席日数も怖かった。
こんなことで落ちこぼれたくない。アレなんかのせいでこわれたくない。
「おはよう✕✕✕」
久しぶり、とはモリくんは言わなかった。彼は肩にジャージを羽織っている。ジャージ姿はわたしだけじゃない。ちょっとだけ気が楽になった。
『歌う柱、最近きかないね』
『でも保健室の骨は今日も死んでたってさ。体育館』
『この間もそこじゃなかった?』
校内は変な噂話でもちきりだ。わたしはなるべく小声で聞いた。
「みんな何のこと話してるの?」
「モルグ市北高七不思議」
「七不思議……そんなのあったっけ?」
「最近できたよ」
「どういうこと?」
調子が戻ってくる。呼吸ができる。2年1組は騒がしくて、1年の時と変わらない。みんなは休んでいたわたしに声をかけてくれるけど、すぐに『空とぶ紙』の話題に変わる。教室中は紙飛行機だらけ。ここだけ小学校に戻ったみたい。
「七不思議、知りたいだろ? ひとつめ、校内で死ぬ骨格標本」
モリくんとは前後の席だ。荷物をおろして、彼は勝手に話を進める。
「……はい?」
「ふたつめは、木造校舎の歌う柱」
わたしの疑問を軽く流して、モリくんは指折り"不思議"を数える。
「みっつめ、でっかいカナリア」
「カナリアって、校長先生の?」
「うん。あの鳥、異界落ちからの帰還者なんだって」
「へえ、知らなかったなぁ……」
帰還者という言葉にズクリと心が痛んだ。呼吸が浅くなっていく。1限目は地理のはずだけど、伊藤先生は今日も遅い。
「よっつ、花子さんの面」
「面……サザンカちゃんのやつ?」
「曰くつきだから、見つけたら捨てていいってよ」
「なぁにそれ」
そんなことしたらサザンカちゃんが怒りそうで、想像が簡単でおかしくて、ついついわたしは笑ってしまった。呼吸が浅くなっていたところにこれだから、派手に咳き込んでしまってはずかしい。ハンカチで口を抑えて落ち着かせてるまでモリくんはずっとだまっていた。
「いつつめは、赤く染まるプール」
「プールもサザンカちゃんのやらかしじゃん。サザンカちゃんの罪を忘れないようにするための七不思議?」
「おれはもっと
それなら異界絡みとか、と言おうとしたけど声が出ない。苦しさはすぐに戻ってくる。やっぱり保健室、行こうかな。教室が狭くて酸素が薄い。
「むっつ、音楽室の斜視肖像画」
「それも犯人サザンカちゃん! あのラヴェルはまだあるの?」
絶対にドッペルゲンガーの方が"らしい"よなって、モリくんは少し悔しそう。
「……ななつめって、聞いたら死んじゃう?」
「死ぬもんか。サザンカのやらかしならまだまだネタあるはずだけど……」
どうしてか頭を抱えはじめたモリくんを見ているあいだに伊藤先生がやっと来る。始業の挨拶。わたしは保健室に行く機会を見送った。
……。
モルグ市北高正面入口に、カーキ色のジャケットを着たふたりの男が立っている。惑羽イチトと真道シガヤが、遅刻生徒の取締係のコバヤシと談笑しながら最後の見守り。門扉の向こうの坂で、正規の用務員のおじいちゃんが朗らかに手を振っている。シガヤも笑顔で手を振り返す。
「4番目の七不思議は、シガさんのでっちあげなんだろう?」
「『花子さんの面』? ホラーゲームの設定を借用しただけだよ」
「つまりパクリってことですか?」
コバヤシ先生の質問にシガヤはうーんと項垂れる。
「言っちゃえばそう。『学校であった怖い話』、まさか頷くとは思わなくって」
出先の仕事へ向かう前に、回収員2班はモルグ市北高へ立ち寄っていた。イチト曰く牽制だ。桜はもう散り終わり、用務員の仕事も減るだろう。
「あの面だけガチでホラーぽいんだよね。どこから落ちてきたんだろ?」
「サザンカの七不思議は、文芸部の捏造と違って実際に異界が絡んでいるからややこしい……」
「僕の模型は別に異界関係ないですけど?」
「あれは北高生徒なりの歓迎だろう」
「歓迎!? あんな稚拙なイタズラがですか!?」
「ウェルカムトゥモルグ市ってやつ」
生徒の行き来もなくなって、そろそろ出るかとぼやく頃。
「そあらー、待ってぇー!」
「待たないもん! ふたりそろって遅刻はやだー!」
おさげ髪の元気な少女が校門の隙間を駆け抜ける。
「遅刻確定ですよ山茶花さん」
「コバヤシ先生みのがしてー!」
羽織ったジャージ、胸元には『SAZANKA』の刺繍。
「用務員さんもまた今度ー!」
わざわざ振り向き1年生は笑顔で手を振った。焼却炉での邂逅を、両者はまだ覚えている。
「……さざんか、そあら」
シガヤがとうとう怪訝な顔。イチトは目を開きっぱなし。
「バイトちゃんと同姓同名? 珍しいこともあるもんだね」
オレらもまどうとまどうだもんね、と呑気なことを言うシガヤを無視し、イチトはサイドポーチに入れっぱなしの生徒名簿を取り出した。
名簿をたどり該当者の名前を探す。コピー用紙にもちろん顔写真などあるわけがなく、見つけた項目は『1年1組 山茶花蒼新』。
顔を見合わせる2班を気にせずに、コバヤシは1年生より遅れて来た者へ無慈悲な宣告を下す。
「サザンカさん、遅刻です。
金髪で、ピアスだらけで、派手な化粧をしたサザンカが、私服姿で立っていた。ぜえぜえと醜く喘いでそれから叫ぶ。
「なんでまだいるのぉぉぉぉ!?」
驚きと笑いが混ざった声で。うるせ、とコバヤシは耳を塞いだ。
「山茶花蒼新……じゃないんだな、お前!」
イチトの指摘にサザンカはべっと舌を出す。いたずらがバレた子供というより凶悪な顔で。
「ちぇーッ! 最後まで騙せると思ったのに!」
「あれ、知らなかったんですかおふたりとも? 一緒に調査してたのに?」
「あー待ってオレ混乱してる。山茶花サンって、先生、なの!?」
金髪女は歯を見せてニヤリと笑い、優雅に一礼。
「アタシ、
「他人の名前を騙ってたのか!?」
「姪っ子の名前借りただけだよそんな怒んなってば~」
片手でピースサイン、もう片方の手でしわくちゃな紙をシガヤの方に押し付ける。
「本業は、トトキ市魔神美術館所属の"面作家"。展示見に来いよなッ」
見覚えのあるビラだった。焼却炉で散々燃やした。美術室にも貼ってあった。
「面作家、ってことは……あのお面!? 異界の反応あったけど、山茶花サンってあれって何を」
「アンタに壊させたからもうノーカン! 傑作になる予感があったのに全部パーだよバカやろう!」
「いっイチトくん山茶花を捕獲! 事情聴取! 容疑は魔神信奉者疑い!」
「残念ながらその罪状は存在しない……」
「ヤッベ、アタシ2限目から授業だから、またいつかね!!!!」
元気いっぱい、山茶花鬱凶は
「コバヤシ先生! つまりこれって山茶花サン……学生じゃないのにセーラー服を着てたってワケ!?」
「そこですか!? まあ誰もがビックリしましたが、彼女のすることなので……」
「あ、美術館のサイト見たら20歳って。ギリギリセーフ? どうだろう」
「いや僕からはノーコメントで」
ギャハハという下品な笑いが、もう立ち入ることのない校内から聞こえる。また何かをやらかしたのか、想像に難くないだろう。
「……イチトくん、オレらの仕事に戻ろうか」
「そうだな。俺たちのやるべきことは何もない。この学校の七不思議が」
どうなろうと、回収員の預かり知らぬところなのだ。
とある事件の被害生徒のウワサを流す目的で騙られた幾つかの物語は、これからきっと長らくずっと、モルグ市北高に染みつくことだろう。
「4番目のでっちあげだけは、別のネタに変わるといいなァ」
「ホラーゲームをパクるから……」
「オレってば語り部の才能ないっぽい」
……。
学校から去るカーキのジャケットを指さして、文芸部2年の男子は語る。――
「ななつめは、北校内で『七不思議』をさがす、用務員のふたりぐみ」
「あんまりこわくないんだね?」
そうかなぁ怖かったけど、と生徒は笑った。
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