後編

 洋司が再び写真館を訪れるために家を出たのは、夕刻も半ばを過ぎた午後六時頃のことであった。空は東の端からゆっくりと紫色に変じ、ぽつりぽつりと灯る街灯が静かに住宅街を照らしている。生家の夕食は早く、既に少しばかり酒を飲んでいた洋司は、少しふわふわとした足取りで洋館へと至る街路を歩いていた。

 車一台がすれ違うのでやっとという幅の街路は、薄暮の中、ひっそりと静まり返って洋司の前に続いている。等間隔に灯る明かりが道に真白い影を落とし、その下を通る洋司の影を縦横に引き伸ばしては後方へと遠ざかっていく。ふらりふらりと、影を踏んで踊るように道を辿っていた洋司は、前方から聞こえた小さな足音にその顔を上げ……思わず息を呑んで立ち止まった。


 半ば闇に染まった道の先。丁度写真館へ続く四つ辻から歩いてきたのは、一人の喪服姿の女であった。


 年の頃は二十代半ば程だろうか。古式ゆかしい黒紋付に身を包んだ、楚々とした雰囲気の女である。髪の毛はきっちりと後ろでまとめ上げ、白い面には薄っすらと化粧を施している。片手に小さな袱紗を持ち、夕闇の中を下駄をカラコロと響かせて歩いてくる姿は、まるで一葉の写真のように目を惹くものがあった。

 

 ――何ともまぁ、美しい女だな。

 

 洋司は知らずほぅと息を吐き出しながら、すれ違う女を目で追う。彼女は洋司の視線など気にも留めずに、ただ何やら晴れやかな顔で、彼が来た方の道へとゆっくりと歩き去って行った。女が残した芍薬のような甘い香りに鼻をひくつかせながら、洋司はもしや、と首を傾げる。


 ――あの女性は、うちへの弔問客だったのではないだろうか。


 そうであれば、一年も経っているのだから律儀に喪服でなくでもいいものを――いやそもそも、祖父はあんな美女とどこで接点があったのか――。そんなことをつらつらと考えながら歩いていた洋司は、ふと写真館を通り越しかけていることに気が付いて、慌てて足をそちらへと戻した。ぐるりと首を巡らして振り返った先、昼時より尚陰鬱に佇む洋館の姿に、彼は知らず息を詰めてその威容を見上げる。


 洋館は、一体店主はどこで生活をしているのか、見える限りの窓のどれにも明かりは灯っておらず、既に一人夜の中に沈んでいるかのようであった。突き立つ尖塔はまるで建物を穿つ槍のように黒々とした影を落とし、翼棟に絡みついた蔦はザワザワと風に揺れている。相も変わらず『OPEN』の札が下げられた樫の扉を一分程も見つめると、洋司は深く溜息を吐いて、半ば恐る恐るその扉を内側に押し開いた。


「……ごめんくださーい……」

 

 小さく声を投げた玄関ホールの中には、ありがたいことに薄ぼんやりとした明かりが点っていた。唯一の光源であるカウンターに置かれたランプへと近付いた洋司は、そのまま無人のホールをぐるりと見渡す。玄関の向こう側、ホールの奥へ向かう廊下は幾つかの部屋に繋がっているらしく、その内の一つは半ば扉が開いて、暖かな橙色の光が漏れ出していた。どうやらそこに店主である男性がいるらしいと察した洋司は、しかしこのまま奥へと立ち入って良いものか悩んだ末、心なし声を大きくして「ごめんくださーい」ともう一度呼びかける。数秒の間を置いた後、ギギィ……と扉の鈍く軋む音を立てて、明かりの零れる部屋から、昼間にも会った男性が陰気な姿を覗かせた。


「……いらっしゃいませ……写真のお引取りで?」


 はい、と洋司は頷く。男性はうっそりと頷くと、一度部屋の中へ取って返して、今度は片手に小さな袋を持って出てきた。カウンターに袋を置いた男性は、ランプを手元へ引き寄せると、「中身をご確認ください」とボソボソとした声で言う。


「二十四枚撮りのうち、十三枚が使用済みでした……全て印刷しております……」

「ありがとうございます」


 洋司は袋を取り上げると、引っくり返して中身を掌に取り出す。印画紙の角がチクリと手に刺さるのを感じながら、ランプの光で写真を改めた洋司は、しかしそこに写っていた人物に「あれっ」と驚いた声を上げた。

 

 フィルムが古いものだったのか、印刷したばかりなのにどことなく色褪せて見える写真。十三枚のそれ等全てに写っていたのは、先程路上ですれ違ったあの年若い女性であったのだ。


 ――何だ、あの人はやっぱり爺さんの知り合いだったのか。


 納得して一人頷く洋司に、男性が僅かに首を傾げながら「何か不備でもございましたでしょうか」と聞いてくる。伺うような眼差しに、洋司は笑って「あぁいや」と手をひらひらと振った。


「そんなことじゃないですよ。ただ、この写真に写ってる人がね、さっき道ですれ違ったものだから」

「……そんなはずはございません」


 洋司の言葉に、しかし男性は妙に断定的な口調できっぱりと言い切ると、ちらりと写真へと目を落とした。「それはありえません」再度繰り返された言葉に、洋司は眉を顰めながら「どういう意味です?」と問いかける。


「現に俺は、さっきこの人とすれ違ってるんですよ。こんな美人さんだ、見間違えるはずもないでしょう」

「……いいえ。それでもありえないのでございます」

「だから、それはどうして……」

「亡くなっているからです」


 え、と洋司は間の抜けた声を漏らした。男性は先程の洋司のように顔をしかめると、斜視の瞳で彼を見ながら淡々と「この方は、十年も前に亡くなっているのです」と繰り返す。ゆっくりとその言葉を咀嚼した洋司は、言葉の意味を理解した瞬間、手に持っていた写真を全て取り落とした。硬質な音を立てて写真が床に散らばる。そこに写るのは、やはりどう見ても先程行き合った美しい女の姿だった。


「亡くなってるって……じゃぁ、この写真は……」

「……写真の日付をご確認ください。この写真が撮られたのは、今から十二年も前でございます」


 散らばった写真を丁寧に拾い上げた男性の言葉に、洋司は恐る恐る写真を覗き込んで右下の日付を確認する。白く浮き彫りになった日付は確かに今から十二年前のもので、ではこの頃はまだ生きていたのか、と洋司はひとまずそれには胸を撫で下ろした。


 ――だが、俺が今日すれ違った彼女は、一体。


 幽霊、という安直な言葉が脳裏に浮かんで、洋司はぶるりと体を震わせる。写真を受け取ろうか受け取るまいか躊躇う洋司に、男性は写真を袋にしまいながら「懸想されていたのだ、と聞いたことがございます……」と小さな声で言った。唐突な言葉に、洋司は怖さも忘れて思わず首を傾げる。


「けそう、ですか?」

「懸想……要は、恒三さんがそちらの女性を想っていらっしゃったのだと、茶の席でお聞きしました」

「えぇ!?」

「尤も、想いを伝えられる前に女性の方が亡くなられてしまい、それっきりだとも言っておられましたが……」


 男性はそこでふつりと言葉を切ると、洋司に写真の入った袋を差し出してきた。恐る恐る受け取って何とも言えない顔になる洋司に、男性は笑みらしき歪みを口元に浮かべて言う。


「墓前にでも供えて差し上げてはいかがでしょうか……老いらくの恋というものでしょうから……」

「……ハハ、じゃぁ、そうしましょうかね」


 下手くそな冗談めいた言葉に、洋司は思わず小さく笑ってしまう。すぐに元の陰気な無表情に戻った男性は、初めて彼が来たときと同じように先に立って扉を開けると、彼が扉を出た瞬間に「あぁ、それと……」と付け足すように口を開いた。


「供えるのであれば、お持ちのカメラも一緒のほうがよろしいかと……」

「……え?」


 振り向いた洋司に、しかし男性はそれ以上何も言うことなく黙って頭を下げると、静かに扉を閉めてしまう。閉め出される形になった洋司は少しの間呆然と扉を見つめていたが、やがて男性の言葉を理解するにつれ、今度こそ背筋に氷を差し込まれたようにゾッとした。


 ――十年前に亡くなったという、孫である自分も知らない祖父の想い人。

 ――その想い人を写真に残し、けれど現像はしなかった祖父。


 洋司は慌てて近くの街灯の下まで行くと、写真を全て引き出して再度中身を確認する。美しい女性が写った写真。彼女しか写されていない写真。


 ――写真の中の彼女は、ただの一度もこちらを見てはいなかった。


「……盗撮……?」


 それは、俗にストーカーと呼ばれる行為ではないのか。目の前がクラクラするような感覚に襲われながら、洋司は先程すれ違った女性の姿を思い出す。


 ――喪服を着て、どこか嬉しげな、晴れやかな表情で生家へ向かって歩いて行った彼女。

 

 ごくり、唾を飲み込んで、洋司は生家の方へ怖怖とした視線を向ける。あの女性が何故生家へ向かったのか、そもそも祖父をどう思っていたのか。知る術はないが、少なくともこの状況を生んだのは己だ、と洋司は直感的に悟っていた。


 ――自分が写真を現像したから、彼女は実体を持ってこの世に現れ出たのだ。


 洋司は街灯の下に立ち尽くしながら、手の中の写真に目を落とす。常に明後日の方向を向いて写る彼女はいやになる程美しく、洋司は紙の中の彼女を見つめたまま、その場からしばらく動くことができなかった。



【了】

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露光夜話 アルストロメリア @Lily_sierra

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