露光夜話

アルストロメリア

前編

 男──橋下洋司がそのカメラを手に入れたのは、祖父の遺産の形見分けで、久方ぶりに生家を訪れた時であった。

 

 洋司の家は、地元ではそれなりに大きな米農家である。代々の農業は洋司の叔父夫婦が引き継ぎ、彼は都心に出て不動産の営業職として働いていた。数年ぶりの帰省は洋司には何ら感慨をもたらさず、慣れ親しんだ実家も古臭い田舎家としか思えなかったが、ただ、形見分けとして何か貰えるのであれば貰っておきたいのが人の気持ちというものだ。土地と主だった遺産は全て家業を継いだ叔父夫婦が相続することに決まっていたものの、好事家であった祖父は蔵いっぱいにものをため込んでいた。それら祖父の趣味の品は遺言にも記載がなかったため、親族で話し合って引き取り先を決めることになったのだった。

 金銭が絡む話であれば、例え肉親であっても骨肉の争いとなるのが世の常――とは言え、残されていたものがほとんど金銭的な価値のない品だったために、話し合い自体はそこまで難航することなく、半日程度で一度終了と相成った。幾つか揉めた品は後日弁護士同伴で再度の話し合いとなり、洋司はそのあたりで肉親同士の足の引っ張り合いに嫌気がさして、そそくさと生家の座敷を後にすると、自分の車に避難したのだった。


 洋司は、ほかの壺やら掛け軸やら瀬戸物やらを引き取るよりはとまだ実用品であるカメラを引き取ったのであったが、これがまた古めかしいライカのカメラであった。生家まで乗ってきた軽自動車の中、当然のようにアナログである無骨な黒い塊を矯めつ眇めつしていた洋司は、試しにシャッターを押そうとして、中にまだフィルムが残っていることに気が付いた。橙色の小さな円筒は半分程使われており、洋司は興味深げにフィルムの開口部へと目をやる。


 ――何だ爺さん、最後に家族の写真でも撮ってたんだろうか。


 思い、ひとまずは現像してみるかと、洋司はそのまま地元に一つしかない写真館へと徒歩で向かうことにした。今晩は祖父の一周忌でまた親族の集まりがあるため、一人で先に帰るわけにもいかなかったのである。

 夏の始まり、少しずつ強くなる日差しに道路はじりじりと温められ、気の早い虫の合唱がそこかしこから聞こえていた。洋司はカメラを包んでいた絹布ごと肩掛け鞄に突っ込むと、涼しい車内から出て道路一つ向こうの写真館へと歩き出す。纏いつくような熱気を手うちわで仰ぎながら写真館へ辿り着いた洋司は、その建物の威容に、思わず一度足を止めた。


 それは、住宅街の中に突如現れた、瀟洒な尖塔を持つ一軒の洋館であった。地元に住んでいた頃には当たり前にそこにある建物だったので気にも留めなかったのだが、少し年を経た今となっては、その洋館は田舎の田園風景の中で明らかに浮いていた。写真館というよりは教会とでも言った方がふさわしいのではなかろうか。正面に見える本館の両脇に翼棟を備えた、実に堂々たる建築物である。白光りする初夏の日差しの下、二階建ての館に突き立つ尖塔は黒々とした影を地面に落とし、外壁に彫り込まれた薔薇のレリーフは精緻だが風雨に汚れている。正面の玄関へと続く石段はところどころが欠け落ち、全ての窓は鉄格子の向こうで冷たく閉じられ、一部の窓には蔦が這っている。立派な洋館のその有り様は、まるで建物が既に廃墟であるかのような印象を洋司に抱かせた。

 

 重厚な樫の玄関には『OPEN』の看板が下げられているが、建物全体は静まり返り、人の気配も感じられない。扉を開けるか迷って立ち竦んでいた洋司は、不意にギィ……と内から開いた扉に、思わず肩を揺らして半歩足を引いた。


 果たして、洋館から出てきたのは、白髪混じりの初老の男性であった。痩せぎすの体をシャツとベストに包んだ男性は、洋司が立っているのに気が付くと陰気な声で「お客さんですか」と言う。


「あ、あぁ……その、フィルムカメラの現像をお願いしたいんだが」

「……どうぞ」


 詰まりながら答えた洋司に、男性は数秒の沈黙を挟むと素っ気なく頷いた。そのまま建物の中へと戻っていく男性に、洋司は幾許かの不安を抱きながらも、仕方なく足を前へと進める。

 扉を潜った先のホールは、薄暗いながらもよく掃除されていて清潔だった。受付らしいカウンターの内側に入った男性は、今時紙の帳簿を取り出しながら、「こちらです」とボソボソとした声で言う。洋司がそちらに近づいていくと、男性は古びた万年筆を片手に彼の顔を見上げた。正面からその顔を見て、洋司は男性の片目が斜視であることに初めて気が付いた。やぶにらみの視線を受け止めながら、洋司は鞄からカメラを取り出すとカウンターに置く。


「このカメラなんですが……申し訳ない、フィルムの取り出し方もよく分からなくて、そのまま持ってきてしまいまして」

「……そうですか……」


 やはりくぐもった声で応えた男性は、万年筆を帳簿の上に置くと、洋司のカメラを取り上げて僅かに口元を歪めた。それが男性の笑みであると洋司が察するより早く、男性は手早くフィルムを取り外すと、丁寧な仕草でカメラをカウンターに戻す。


「……カメラはお戻しします。現像は……即日であれば本日の夕方にはお引取り可能ですが……」

「じゃぁ、それでお願いします」


 かしこまりました、と陰気な声で言って、男性は帳簿に何やら書きつけると、カウンターの内側から電卓を取り出して金額を打ち込んだ。その通りに洋司がお金を払うと、男性はフィルム片手にカウンターから出てきて、彼の顔をジッと見上げる。焦点の合わない視線にまじまじと見つめられた洋司は、カメラを鞄にしまい込みながら僅かに眉を顰めた。


「……まだ何か?」

「……そのカメラは、恒三さんのご遺品で?」


 問われ、洋司は目を丸くした。恒三というのは亡くなった祖父の名前だった。こくりと頷いた洋司に、男性は「そうですか」と呟くと、腰からゆっくりと頭を下げる。


「不躾なことを伺いました。……お悔やみ申し上げます」

「あぁいえ、もう一年も前のことですし……」


 慌てて手を振る洋司に、やはりゆっくりと体を起こした男性は、数拍の間を置いて「それでは」と先に立って玄関口へと歩いて行った。分厚い扉を内側に開いた男性は、扉を片手で押さえながら、ノロノロと洋司を振り返る。


「フィルムのお受け取りは、本日の午後五時以降に起こしください……当館は午後七時まで営業しております……」

「あ、あぁ……はい」


 促され、洋司は何か狐につままれたような気持ちになりながら開かれた扉をくぐる。洋司が通り過ぎると同時、それ以上の言葉もなく閉められた扉に、彼は振り返って頭をガシガシと掻いた。


「……何とも気味が悪い爺さんだったなぁ……」


 ぽつりと呟いた声は、静まり返った住宅街にやけに大きく響いた。慌てて口を閉じた洋司は、首を捻りながらも生家に戻るために昼中の街路を歩き出す。


 そうして、洋司が立ち去った後。ゆっくりと開いた扉から出てきた洋館の主たる男性は、洋司が歩き去った方角を見つめると、一つ頭を振って、また洋館の中へと戻っていった。

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