第十九話 終わりの始まり

  ■


 その男は強い屈託を抱えていた。


 長い間無職だった男がハローワークに通い詰め、ようやく職を得たのは二か月前。だがその翌日、唯一の希望だったひとり娘が、暴走した車と路肩の塀に挟まれて死んだ。小学校からの帰り道、ただ歩道を歩いていただけだったはずなのに、仕事に就いて日の浅い五十代の整備工が不注意で誤動作させた乗用車の輪禍に巻き込まれたのだ。

 以前から不仲だった妻との関係も、娘の喪が明けるとともに破綻した。僅かな貯蓄とともに妻は部屋から消えた。行き先が実家であることは間違いない。その程度の底の浅い女だ。だが追い縋る気にもなれない。貯めた金にしたって、そのほとんどは彼女ひとりの稼ぎだったのだから。


 思えば碌な人生じゃ無かった。学生の頃から目立つこともなく、家が貧しかったから高卒で働きに出た。真面目に暮らしていたつもりだったが生来の不器用で、なにをやっても続かない。水商売の年上の女のところに転がり込んで、かろうじて食わせて貰った。それでも娘が生まれ、徐々に人間になっていく様を見守っているうちに、何某かの慶びと責任感が身の奥から湧いてきた。体裁を整えるために所帯となり、アルバイトに励むようになる。そして先日、ようやく定職も得ることができた。これからというところだった。

 それなのに。


 全てを失いひとりぼっちになったとしても、生きるためには金を稼がなくちゃいけない。食っていくためには働かねばならない。

 今月の初めには電気も停められた。だが滞納金を払ったら明日の飯が食えなくなる。一枚しか無いクレジットカードも、妻の出奔とともに使えなくなっている。だからこそ、今週から始まった夜間警備のシフトは正直言って有難い。




  ♠


「大沖縄展の会場はここ」


 具志堅さんはタブレットに表示された東京ビッグサイトフロアマップ上の西展示棟を指差した。僕と契の手元にはPDFを出力した紙の地図。


「で、シネリキョの瑠璃と中司くんはここ、西1の一番左手前ね」


 契が聞く。


「ナカツーはまたケースの裏にテント張ってるんですか?」


「毎日出して仕舞ってだと他の展示品の邪魔になるから、今回は手前のアトリウムで簡易ベッドと寝袋ですって」


 いつもながら厳しい生活送ってんな、中司さん。


「でもナカツーは夜間警備も兼ねてたんじゃ……」


「今回は館専属の警備会社が入るからお役御免って」


「なら、石持ってホテルに泊まれればいいのにね」




  ♥


 具志堅さんの計画はこんな感じ。

 彼女がナカツーを乗せた車椅子を押してビッグサイトから離れる。道中のナカツーの状態を彼女が記録し、完全に途絶したところで僕らと合流。そこからは和合を試しつつ近づいていく。


「これがチーム・ムシャーマが敢行するシネリキョ馴致プログラム、名付けて『カナリヤ作戦』よ。どう? 作戦名もわかりやすいでしょ」


 具志堅さんはドヤ顔だったけど、どこがカナリヤでなにがわかりやすいのか、ボクにはさっぱり。大濠もぽかーんって顔してる。



「二人ともスマホの充電は満タンね」


 スタッフジャンパーにデニム、スニーカー。首に入館証をぶら下げたボクらは、同時に頷いた。


「これから私は中司くんと合流する。あなた達は、合図のトークでここを出て、有明テニスの森駅に向かって。そこからあとは逐次指示するから」


 そう告げて立ち上がった具志堅さんは、ボクらのとは色違いのスタッフジャンパーの前を胸元まで閉めた。紫のアフロに蛍光オレンジのジャンパーの取り合わせは、ちょっと目が痛くなりそう。

 

「じゃ、先に行くわね。段取り通り、よろしくね」


 見送りにボクらも立ち上がる。と、具志堅さんが前屈みで右手を前に伸ばした。腰の高さの掌を下に向けて。先に気づいた大濠が、同じ姿勢になって具志堅さんの手に自分の右手を乗せる。

 あ、そういうヤツね。

 ボクも倣って、一番上に右手を重ねた。


「チーム・ムシャーマ、行くよ!」


 具志堅さんの鬨の声に遅れて、ボクと大濠の掛け声が揃った。


「「オーッ! 」」



 還暦過ぎとは思えない軽快な足取りで、具志堅さんは部屋を出て行った。

 閉じた扉から隣の大濠に視線を移したら目が合った。が、ボクは咄嗟に逸らしてしまった。こうして二人きりになるのは丸一日ぶり。何を喋ればいいのか判らない。

 こんなんじゃ駄目だよね。

 心の中で勢いを付けて、顔を上げる。


「「あの」」


 大濠の声が被った。

 ボクらは同時に話しかけ、同時に口を閉じ俯いた。

 横目で視線だけ向けると、同じポーズの大濠とまたまた目が合った。互いにすぐ伏せる。


〈ええい、もどかしいわ!〉


 ニジリの怒鳴り声でびくっとしたら、あっちも同じ反応をしてる。




  ♠


〈お主らはいったいなにをやっとるのだ〉


 まったくだ。

 同じタイミングで身震いしてる契を見てたら、なんだか可笑しくなってきた。

 見ると契が照れ笑いしてる。僕も口元の緩みが止められない。

 いつの間にか僕らは二人して大笑いしていた。

 そうだった。身体の繋がりなんて今じゃなくたっていいんだ。

 そんなの無しでも僕らはちゃんと繋がり、重なれる。



 連絡を待ってる間、僕らは手を繋いでベッドの縁に並んで座り、いろんな話をした。好きな音楽、苦手な食べ物、恥ずかしい趣味、家族のこと、将来の夢……。


「ボク、ずっと研究者か小説家になりたいって思ってたんだ。でも最近は少し思うよ。好きな人のお嫁さんっていうのも、それに被せてもいいかなって」


 そう言って契は僕の肩に頭を乗せてきた。


 僕の無言の視線に気づいた契は、顔を上げて僕を仰ぎ見た。

 契がそっと目を瞑る。

 これくらいは僕にだってわかる。顔をゆっくり近づけた。

 ミギリもニジリも、あっち向いてろよ。


 唇同士が触れるその寸前を見計らったかのように、スマホが鳴りだした。

 契の瞳と目が合う。ほんの少し不満げな色を差して笑ってるその目が、残念だけどまた今度と言ってる。


「行こう。シネリキョを止めに」


 僕は立ち上がった。




  ♥


 この界隈ではビッグサイトから一番遠いこのホテルは、有明テニスの森駅まで歩いて五分弱。駅を目指す大濠の早足に、ボクは小走りでついていく。

 スピーカーフォンで繋ぎっぱなしのグループ通話から具志堅さんの声が流れてきた。


「ちょっと計画を変えることになりそう」


 なにかあったんですかと大濠が聞く。


 スマホのスピーカーが具志堅さんの続きの言葉を流した。


「なんとなくなんだけどね。私、シネリキョの動きが読めるみたい」


 え?それって。


〈ユタの血が蘇ったか!?〉


「今は中司くんとやぐら橋の駅側に居るんだけど、この距離でも」


 マジすか? と大濠。


「中司くんが媒介なんだと思う。でね、今は暴発する気ないみたい、シネリキョ」


 アマミキョに会いたがってる。具志堅さんはそう付け加えた。


「ねえ大濠、すごいじゃん」


「んだな。上手くいけば平和的に解決できっかも。とにかく急ぐべ」


 伸ばしてきた大濠の左手がボクの右手を掴む。大濠の熱が流れ込んで来てる。一緒ならどこまででも走って行けそう。

 あの冷笑的シニカルなニジリが微笑んで見守ってるのだってわかる。




  ■


 いつも部屋の前で寝てるあの男がいない。ナカツだったかナカツカだったか、確かそんなような名前の男。彼と交わす深夜の無駄話は、ここ数日のささやかな楽しみではあった。寝袋は出ているから表のコンビニかどこかにでも行っているのか。

 多少残念に思いつつも警備員は会場に入った。むろん巡回路である。仕事は仕事だ。


 展示品に懐中電灯を当てながら足早に順路を進む。当たり前だが、なんの異常も無い。名画や希金属ならいざ知らず、一地方の出土品や特産品をわざわざ狙ってどうこうしようという酔狂など現れるはずも無い。回るだけ無意味な巡回警備だ。


「虚しい」


 警備員は呟いた。

 彼の頭の中は、もうずっとおびただしい失意と不安で埋め尽くされていた。棺桶の窓から覗いた無機質となった娘の貌。自分をなじることも止めて無表情になった妻の顔。スイッチを入れても明りの灯らない真っ暗な部屋。レジで差し込んだクレジットカードが返す「お客様の都合で……」の文字列。


「こんな仕事がなんになる。死んでるような生活を無為に延命してるだけじゃないか」



 会場をひと回りした警備員は、順路の一番最後に飾られた展示品の目玉、宝物の瑠璃の前に立った。

 蒼い光を放つ不思議な石。じっと見ていると吸い込まれそうになる。


 これを売れば百万くらいにはなるだろうか。


 男はこの半年で喪ったもののイメージをした。


 娘は死んだ。妻はなけなしの金を持って逃げた。もう俺には何も残っていない。長生きする気など元から無い。そうだ。現世などどうでもいい。じりじりと燃え残る線香花火だって、最後は明るく光る。

 この場にたったひとりしかいない俺が、この宝石を持って消えたからといって、なにがいけないというのだ。なぁに、足が付いたって構わない。ひと段落ついたなら死んでしまえばいいだけだ。百万もあれば最後にパーッといい目くらいは見られるだろう。


 男は魅入られたように手を伸ばした。

 指先が石を触れた瞬間、男の目の前で光が爆散した。




  ♦


 具志堅は四つある逆ピラミッドのうち、陸側に向いたひとつの軸塔下に立っていた。地方から来た二人の目印なら判り易い方が良い。そう考えて、待ち合わせをここにしたのだ。

 心地よい秋の夜風を受けながら、具志堅はついさっき突然繋がったシネリキョの思惟を思い出していた。 


 感応した感じでは、シネリキョは落ち着いているように見えた。少なくともすぐには力を放散する様子はなかった。

 これなら急ぐことは無い。余裕を持って和合を済ませ、その後にシネリキョとアマミキョを合わせればいい。なんなら私が仲介してもいい。コミュニケーションはまだ取れてないけど、たぶんできそうな気がする。少なくとも、シネリキョは私の話を聞いてくれそう。


 中司とはさっき別れた。彼は、結局使うことのなかった車椅子を返却しに、西棟の管理室に向かっている。

遙か先に人影二つ、こっちに走ってくる。

 手を振ろうとした刹那、究極の悪意が脳髄を襲った。




  ♥


「ビッグサイトのウェブサイトのファビコン知ってる? ほら、ブラウザタブに表示されてるアイコン。あれ、まさにこの形なんだっけ」


 漏斗のような特異な形の建物を指差して大濠が言った。


 ホント、わかりやすい形してる。

 ライトアップされた漏斗の足元に、動く人影が見えた。あれはきっと、具志堅さん。


 そのことを伝えようと顔を向けた瞬間、景色がぼやけた。

 下から突き上げるような衝撃で、ボクは膝を折った。ボクの手に引っ張られた大濠が肩にのしかかる。全身が地面ごと揺さぶられて立ち上がれない。


 なに? 地震?!


 美術館での体験が蘇った。激しい縦揺れに突き動かされ、ボクの視界は真っ白になる。次々と倒れる展示品。落ちてくる天井。泣き叫ぶ子どもの声。福岡のときのフラッシュバック。


 ボクの身体がなにかに包まれてる。右手が温かい。


「大丈夫。契、大丈夫だから。オラはここにいる」


 大濠だ。大濠が、膝を突いて座り込んでしまったボクの背中を抱きしめてくれてるんだ。


 足元はまだ揺れている。でもボクは平気。根拠なんて無いけれど、今度は大濠と繋がってるから。


 第一波をやり過ごしたボクらはそろそろと顔を上げた。

 ビッグサイトは健在だった。少なくとも遠目には。でも中がどうなっているのかはわからない。

 足元の方から激しいブレーキ音。間を置かずなにかとなにかが衝突する音が聞こえてきた。


「急ごう。ここは危険だ」


 先に立ち上がった大濠がボクの手を引いた。


 たしかにここは危ない。高速道路の真上を跨がる歩道なんて、橋桁をやられたらいっぺんで落ちてしまう。


 覚束ない足を無理矢理踏ん張って、ボクらは対岸に駆けだした。早くビッグサイトへ。具志堅さんとナカツーのところへ。




  ♠


 走りながら高速道路を一瞥する。テールランプの群れが固まってる。見慣れてる整然さを失い、蛇行して乱れた車列。と、先頭の方で火が上がった。

 僕は立ち止まり、見入ってしまっていた。隣で契も同じものを見つめている。

 中程の一台から飛び出してこちら側に向かって走る豆粒のようなシルエット。その背後で大きな炎が弾けた。一拍遅れで襲ってくる、空気を震わせる破裂音。

 花火みたいだ。


〈なにをしておる! 動き出せ、ダン! シネリキョはまだ収まってはおらぬぞ〉


 ミギリの叱咤で我に返った。


 そうだ。僕らはこれを止めに来たんだった。


「行こう、契。俺らが行くしか無い」



 歩道橋を走り抜けた僕らの目の前に東京ビッグサイトのシンボルタワーがそびえ立っている。あのシルエットに変化は無い。が、斜めに張り出した四角錐の壁はあちこちで鱗が剥がれて地肌を見せているし、目に入る二本の柱の周りもガラスが割れ落ちているようだ。


「具志堅さん、あの足元で待ってるって……」


 契が呟く。


 そうだ。あそこには具志堅さんがいた。

 ライトアップの何灯かは生き残っていて、まだ真っ暗にはなってない。


 電気もまだ生きてるんだな。


 タワーの下は白い光が波のように散乱し、いくつかの黒い塊が浮遊物のように影を作っている。あれは上から落ちた外装プレートだろうか。たしかチタン製だった筈。


 目を凝らしてみるが、人影らしきものは見えないし、動いてる物もない。


「行こ、大濠。もっと近づかなきゃ探せないよ」


 契の言葉に突き動かされ、僕は再び動きだす。耳元からはミギリの声。


〈これで終いとは思えん。用心せよ、ダン〉


 どこかでくぐもった爆発音。それと同時に周囲すべての光が消えた。

 窓明かりひとつ無い暗闇の中、目の前に聳え立つ巨大建造物の漆黒の影。リアルなのは繋ぎあった手のぬくもりだけだった。

 仄かな月明かりを反射して発光苔のように白くまたたくガラス片を踏みしめながら、僕らは慎重に歩を進める。


「ちょっと手を離すよ」


 そう断ってから、僕はスマホのライトを点けた。倣って契も同じことをする。


「光って安心するね」


 眼鏡に光が灯り、少しだけど頬が緩んでた。ささやかなその笑顔で僕はもっと安心する。



 繋いでない方の手でライトをかざして周囲を探る僕らは、具志堅さんの名前を大声で呼び掛けながらタワーの足元へと近づいていった。

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