第二十話 瓦解

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 音の無い深夜の西棟に、突如として異変が走った。


 初めは微弱な地鳴りだった。光に目が眩んで膝をついていた警備員は、全身を震わせる低周波に慄き、辺りを窺おうと首を振った。そのとき、真下から強烈な衝撃が襲った。

 瞬間に数センチ浮き上がり、落下の痛みを感じる間もなく前後左右に揺さぶられる自分の身体を、警備員は制御することができなかった。頭の中は真っ白になり、防衛本能の指示系統さえ破綻してかのように、ただ蹲って背中を丸める。ついさっきまで心を締めていた不穏な企み、宝玉を盗み出そうなんてことは、すっかり頭から消え去っていた。

 激化する振動は収まる様子もなく、初動で倒れた展示物があちこちで不規則な音を立てている。寄る辺の無くなった地面に翻弄されながらも警備員は現状を理解した。地震だ。それも激甚の。波のように強弱を繰り返す振動に身動きが取れないまま、警備員は頭を抱え込む腕の隙間から非常階段や安全な場所に位置を目で追った。

 会場内の壁がゆがみ出し、天井から埃が舞い落ちる。展示物のガラスケースにひびが入り、大型の作品のいくつかが倒れだした。混乱に陥った警備員は、展示会場から逃げだそうとした。が、足が地面を捉えられず、立ち上がることもできない。非常灯が点滅し、自動で作動する非常放送が響く中、男は床に手を突き、身体を丸くしてやり過ごすしかなかった。


 床は何度も上下動を繰り返す。確固たる地面への信頼など、とうの昔に消し飛んでいる。震源地が間近にあるかのような地響きがいつ終るともなく続き、男はただただ自分の身だけを案じていた。かといって、飛び交うように跳ね回る展示物や落下してくる天井板と懸垂物から身を守るすべも無い。


 全身を揺さぶる振動の中、男は周囲が明るいことに気づいた。懐中電灯の灯りでは無い。そんなものは既にどこかに転がっていってしまった。もっと強い、スポットライトのような光。

 恐る恐る顔を上げた男の目の前に、そこだけは別世界のように形を保ったままの展示台があった。中心の石から放たれている蒼い光の奔流。

 縫い止められた男の視線は、しかし直後に途絶えた。揺すぶった瓶の中のコーヒー豆のように飛び交っていた展示品のひとつが、男の側頭部を襲ったのだ。




 激震だった。


 その猛烈な揺れによって東京ビッグサイト西棟は恐るべき力に押し潰される。激しい揺れに耐え切れなかった構造体の一部が共振で歪み、そこを起点に崩れ始める。まるで巨大な波のような揺れが、何本もの柱や梁を襲い、その重量に耐え切れなくなっていく。

 ガラス張りの外壁が割れ、破片が空に舞い上がる。広大な吹き抜けが自慢の展示ホールは、壁が崩れ去ると同時に床までが沈み込み、中央から深い亀裂が走り始める。その亀裂は瞬く間に広がり、展示スペースの床が紙のように引き裂かれる。


 メインタワーの屋根のチタンプレートが次々と剝れ落ちていった。鉄骨がむき出しになる。トランスフォーム形状の屋根が地面に向かって崩れ落ち、周囲に飛び散る破片。空に向かって高く伸びていたビッグサイトの象徴的な構造が、まるで完成前に投げ出した塑像のような鉄の彫刻になってしまった。

 建物内では天井から吊るされたディスプレイが振り子もかくやの揺れを見せ、はじけ飛んだケーブルが宙を舞う。電子機器が次々に機能不全を起こし、室内では床に落下する破砕音があちこちで響き渡った。漆黒の闇が広がり、倒壊物で圧壊した消火器から吹き出す白い粉が、混乱と破壊の中に浮かび上がる。





 長く続いた激しい揺れもやがて収まり、倒壊や落下の騒乱が沈黙に置き換わっていった。深夜のビッグサイト西棟の展示ホールはまだ微細な振動が名残を留めているものの、地震自体は余韻を残すのみといった様相を示していた。


 そこだけ無傷で残っている展示台に鎮座した瑠璃の発光も、さきほどまでの強烈な輝きはひとまず収まり、会場内の惨状をぼんやりと照らす薄明かりに変わっている。

 展示台の前でうつ伏せになって倒れている警備服の男は、身動きもしない。

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