第九話 兆候
♥
〈シネリキョか!〉
「シネリキョ?」
割り込んで来たニジリの声を、ボクは思わず疑問系で復唱してしまう。
「んだ。ミギリもそう言ってらす」
ボクの反応をさほど意外な様子もなく、
〈アマミキョ様の連れ合いじゃ。気は小さい奴じゃが暴れ出すと乱暴でな〉
なにそれDV? 結婚したくない男ランキングの常連じゃん。
〈そう言うてやるな。本来は悪い奴では無いんじゃ。ただ……〉
ニジリの台詞に大濠の声が重なる。
「シネリキョとアマミキョは共鳴するらしくて、どっちかになんかの力が加わると相方も同時に発動しだすんだって」
「力が加わるって?」
ボクは大濠を優先する。
♠
「例えば、マブイや感情を取り込んだら。
「じゃ、シネリキョの石はマブイを拾いまくってるってこと?」
〈マドカのとこにもニジリがおるでな〉
僕の
いいでねぇか。ちょっとくらい贔屓目で見たってやぁ。
頭の中でミギリにそう反論しつつ、僕は口頭で契にこう応える。
「マブイとは限らんらしいけど、たぶんそう」
♥
「シネリキョは人のある種の感情に敏感で、主にそいつを取り込む。ってミギリは言ってる」
「ある種の感情?」
ボクの返しに、ニジリと大濠のふたりが同時に応えた。
〈悪感情じゃ〉
「ストレス、だっけ」
ストレス?
「んだ。例えば押し潰されそうになってる気分とか、なんかにぶつけたくなる衝動だとか……」
〈破戒神なんじゃ。シネリキョは〉
♠
区画された新興住宅地は夏の陽射しを避けるものがなにもなく、アスファルトからの熱気をただジリジリと立ち上げるだけだ。でも外れの林に一歩踏み込めば、体感気温はぐっと涼しくなる。
そんなひとときの涼感の中、僕は昨夜の通話サミットでの契の言葉を思い出していた。
「いまシネリキョは、周囲の人の鬱屈を溜め込んでるところだろう、ってニジリが言ってる」
「ボクたちの入れ替わりのターンが短いのは、シネリキョが取り込んでるのが大きな力を誘導するマブイじゃなくて、もっと小規模なストレスの方だからだろうって」
〈ニジリと同じとは口惜しいが、その見立てには吾も同感じゃ〉
僕の考えを読んだミギリがそう繋いできた。
〈主らが入れ替わる道を最初に拓くときには、きっと大きな力が必要だったはずじゃ。また吾らのマブイルリが主らのマブイを取り込むことで活性化したのと同様に、シネリキョの瑠璃が起動したのもおそらくマブイを取り込んだためじゃろう。道が拓いたのはそれと同時と考えるのが妥当じゃ〉
石垣島のアマミキョと同じように沖縄本島のどこかに隠された
状況をイメージする僕の思惟に、ミギリの声が重なってきた。
〈アマミキョ様と違い、シネリキョは目覚めた。そして、周囲に近づく人の負の感情を取り込み続けておるのじゃろう〉
♥
〈難儀なのはシネリキョが力を溜めつつあるということじゃ〉
夏期講習からの帰り途、夕暮れの
「ニジリ、シネリキョのことを破戒神だって言ってたけど、それっていったい何をしてそう呼ばれてるの?」
〈詳しいことは知らん。あのときの儂らはアマミキョ様で手一杯じゃったでな〉
〈そもそも儂が出張った時にはシネリキョは既に琉球本島の方に流れておったわ。島をひとつ沈めたという噂話はあったがな〉
ちょ! 島沈めるって半端じゃないよ。
〈まあ噂話じゃからな。話半分ぐらいでもお釣りがくるやもしれん〉
それにしてもニジリ、アマミキョは様扱いなのに同じ神様のシネリキョは呼び捨てなんだ。
そう呟くとすぐに、吐き捨てるような横槍が入ってきた。
〈男なんぞ呆けか荒くれしかおらぬわ〉
ニジリ、モテなかったんだ。
胸の中に隠してそっと笑っただけなのに、間髪入れずに耳元から怒鳴り声。
〈巫女は乙女に決まっとろうが!〉
♠
入れ替わりの頻度が増えた。
先週までは週五から七程度だったのが、ここに来て日に二、三回。時間も以前より少し長い気がする。補講の真最中に入れ替わって三分とか五分とか、おかげで戻ってきても授業の内容が全然繋がんない。オマケにその五分の間は、どっか知らない予備校で別の科目受けてたり。
お互い様だから、一応ノートだけは取っといてやってるけど。
家に帰ったらだらけてしまいそうなので、補講のあとも高校の自習室で勉強をしていく。だから帰りは大抵終電(といっても八時過ぎ)が常だ。
帰宅路の会社員でそこそこ混んでいる車内で、僕は便意をもよおしていた。帰り際、衝動的に買い食いしたアイスで腹を冷やしたのがよくなかったのかもしれない。と言っても耐えきれないほどでは無かったし、この電車を逃したら次が無いので、僕は我慢することにしたのだ。
刻々と切迫度が増し、額に嫌な汗が浮かんでくる。
〈ダンよ、大丈夫なのか?〉
ミギリの心配気な声色が、吊革に掴まった僕の耳に聞こえてきた。どうやら体調の不調サインは筒抜けのようだ。
あんまり大丈夫じゃ無い。大丈夫じゃ無いけど、あと十分ほどは耐えるしか無いから頑張る。
そんだミギリ、気が紛れるようになんか話しててくれねぇかな。軽いのでも重いのでもなんでもいいから、興味が集中する系のやつを。
心得たと言って、ミギリは重いヤツを話し始めた。
〈シネリキョのことなのじゃが、このところの入れ替わり頻度の増加は正直あまり良い予感がせん。昼間もマドカに話しておいたのじゃが、シネリキョはもしかしたら活動期に入っておるのやもしれん〉
活動期?
〈といっても、今はまだ揺籃期の延長上ではあろうが。なにしろあの破戒神が本格的に動き出したとしたら、この世界であればすぐにネットでバズるレベルじゃろうて〉
契になったときに話し相手をしてくれるニジリもそうだけど、この婆ちゃんたちの順応性は異常だっけ。読み書きも含め、現代のテクノロジーにすっかり馴染んでやがるし。
ていうか、バズるレベルっていったいどんなことすんだべ?
〈吾が直接見たわけではない。だからそれが実相だったか大袈裟な作り話だかは吾にもわからん。ただ、ニシフィヌカンを沈めたのはシネリキョの仕業だったという説もあるにはある〉
ニシフィヌカンって、たしか前に言ってた瑠璃を産出した火山島?
〈それじゃ。真偽は知らぬが、シネリキョの力がそのくらいトンデモじゃというのが通説になっておる〉
島ひとつ沈めてしまうような事態が起これば、そりゃたしかにバズるわ。
〈未だそのような投稿は、少なくとも
ミギリのシネリキョ論評のおかげで大腸の暴発を免れた僕は、地元の駅で無事トイレに駆け込むことができた。
間一髪。
盛大な排出音と共に快感にも似た充足感でため息をついていたはずの僕は、食卓に居並ぶ馴染みの薄い、でも初見では無いひとたちを前に、湯気を立ち上げる皿と向かい合っていた。
♥
「ぎゃあああ!」
人ひとりで一杯の室内にボクの叫び声は反響した。
〈なんじゃ。また替ったのか〉
聞き慣れない方の婆ぁの台詞を無視して、ボクは大濠を呪う。なんでトイレで座ってるんだよ! しかも下腹部から伝わる開放感真っ只中で!
おそらくは大濠の地元の駅であろうトイレの中で、ボクは泣きながら尻を拭く。
♠
頭を抱えて座っていた。便座ではなく、灯りの消えた駅のホームのベンチで。
やっちまった。しかも行った先の身体の方は、家で家族と晩飯食ってた。ご丁寧なことにメニューはカレー。
〈駅のご不浄で助かったな。大騒ぎしとったぞ、マドカは〉
一分と待たずにトークが飛んできた。
――風呂もトイレも禁止! 次やってたらコロス!!
♥
〈今朝来たダンが言うとったぞ。心から謝ると〉
昨夜から連投されてる謝罪トークをガン無視するボクに、ニジリが代わって伝えてきた。
わかってる。別に大濠が悪いわけじゃないってことくらい。入れ替わりのタイミングに予告は無いし、巡り合わせが最悪だっただけ。
そんなのはもちろんわかってるんだけど、それでもやっぱり苛立ちは収まらないよ。
「いったいいつになったら元に戻れるのよ?!」
思わず慟哭してしまうボクに、諭すような口調でニジリが呟いた。
〈ブレイクスルーが必要じゃな〉
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