第16話 夏と夕闇
季節は夏。
桜の花は散って、代わりに青々とした葉が茂り始めた。
僕はといえば、相変わらず居候に近い同居人として天ヶ瀬家に滞在している。
あれから通院は続けているが、改善はしても復帰の目処が立たない。
休職期間は伸びるばかりで、少しずつ焦りが出始めていた。
天ヶ瀬は社会人として毎日働きながら、飽きもせず僕の面倒を見ている。
最近は夏の賞与が入ったらしく、夕飯のおかずが一層豪華になった。
この男と暮らして三ヶ月経つが、変わらず笑顔が張り付いていて怖い。
けれど、一緒にいればいるほど単純ないいやつだとわかる。
僕は天ヶ瀬さえよければ、職場復帰後も一緒に暮らしたいと考えるようになった。
元から期間を決めずに始めた同居生活。
僕は全く支払いのない状態で、この家に住まわせてもらうことに抵抗があった。
天ヶ瀬は「気にしなくていいから」の一点張りで意外と頑固だ。
さすがに夏場は冷房で電気代もかさむし…といくつか理由を追加して、しぶしぶお気持ち程度の家賃を受け取ってもらえるようになった。
金を支払うことで、僕もこの場所にいていいんだと心から思えるようになりたい。
なけなしの貯金から少しだけ崩して天ヶ瀬に渡すようになった一番の理由だった。
七月になり、梅雨は明けたが太陽の光が鋭い。
夏になって出不精が加速した僕は、陽が落ちはじめる夕方ごろに外出するようになった。
外出と言っても、軽い散歩だけ。
日頃外に用事の無い僕には、病院くらいしか行く場所がない。
病院へ行く時ですら、天ヶ瀬が車で連れていってくれるから歩く機会が減っている。
グーグルマップを見ずに帰宅できる範囲の散歩が唯一の運動だった。
陽の光が弱くなった頃、せわしない蝉の声を聞きながら公園へと向かう。
公園のベンチに座ると木の葉っぱが日陰をつくりだしていて、ちょうどよかった。
僕はポケットからスマホを取り出して画面を見つめる。
サイトのリンクページを押そうと決意してから五分。まだ指は動きそうにない。
休職期間中、僕はとくに何もしなかったが小説だけは書いた。
書いた話はどんどん溜まった。
でも、賞に応募できたのはあの一回だけ。
そして、今日は応募した賞の結果が発表される日だった。
僕は人生でチャレンジをした経験自体が数少ない。
わかりやすい欲がなくて、やりたいことも明確じゃなかったからだ。
挑戦することがなければ、結果を待つこともない。
消極的な人生を過ごしてきた僕にとって、今日は一大イベントだった。
昨夜、賞の結果を考えて眠りが浅くなった。
朝もそわそわしてしまい、昼を過ぎてもう夕方になる。
さすがに公式サイトには結果が出ているはずだ。
別に賞を受賞しようがしなかろうが、生活が一変するわけじゃない。
サイトの煽り文句通りの小説家にいきなりなれるわけないんだから。
心の中で何度か唱え、自分に言い聞かせる。
しかし指は無意味にスマホ画面をスワイプするだけで一向にサイトを開かない。
まさか、もしかして、ひょっとしたら。
いや、そんな、僕なんて。
相反する感情が交互に飛び交う。
ベンチに腰を下ろしてから一時間が経とうとしていた。
夕暮れのオレンジ色に仄暗い紫が混ざり始めている。
こんな時間だし、もう少しで天ヶ瀬が帰ってくる頃だろう。
僕は諦めてスマホの画面を閉じた。
「ただいまー」
公園から帰宅して数分後、天ヶ瀬は長方形の箱を提げて帰ってきた。
「おかえり。その箱はなに?」
まだ内緒!、とにこやかに笑う天ヶ瀬の表情は少年そのものだ。
今日もいつも通りに二人で夕食を食べ、なんでもない話をした。
僕は話の途中で、天ヶ瀬に賞のことを切り出そうか迷った。
でも「賞の結果を見る勇気がないから一緒に確認してくれ」なんて、そんなことを頼む意気地もないから、言わずじまいのままで食事の時間が終わった。
「そういえば、今日小説の受賞結果が出る日でしょ?」
僕は食洗機にかけようとして取った皿を危うく落としそうになった。
まさか天ヶ瀬の方から話題を切り出されるなんて。
というか、なんでおまえが覚えてるんだ?
「実はね、俺も才とおなじ賞に応募してました!」
え?
途端に背筋が凍りつく。
「才に賞のこと聞いた日に詳しく調べて、俺も小説書いてみたんだよね」
瞬間。僕は小学生の時にあった図工の時間を思い出した。
「俺まだ結果見てないからさ、才もまだ見てないなら一緒に見よう」
そして、あの日二人きりになった放課後の教室が鮮明になる。
天ヶ瀬は賞の特設サイトを迷いなく開いた。
僕も天ヶ瀬も見える位置に向けられたスマホの画面。
指でどれだけスクロールしても、受賞者の一覧に僕の名前は見当たらなかった。
「あ」
受賞者一覧の最後。
複数の名前に混じって「天ヶ瀬宝」と記されている。
その字面を見つけてしまった時、今すぐ僕の目が見えなくなればいいと本気で思った。
足場の崩れる感覚がして、身体に力が入らなくなる。
僕の足場は失ったのではなく、奪われたのだ。
意識がなくなる前、公園を去るときの夕闇を思い出した。
透明だったはずの気持ちに黒々としたものが浮かんでいく。
そして、僕はこの感情の正体を悟った。
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