第15話 安寧と楽観

 小説を書くことを覚えた僕は、創作にハマった。


 天ヶ瀬は出社、その間に僕はノートを広げて小説を書く。

 仕事から帰ってきた天ヶ瀬と夕食を食べながら、今日の出来事や体調を話す。


 このルーティンを繰り返す生活で、僕はだんだんと回復していった。


 出社する天ヶ瀬を見送れるくらいには、朝起きるくせがついた。

 体調がいい日は、簡単な家事をして身体を生活に慣らしていった。

 そうやって日々を過ごしていると、まるで健常者になったみたいだった。


「実は、最近小説書いててさ」


 天ヶ瀬と二人。

 この男と何を話せばいいのか、と同居して数日は考えていた。

 この家で暮らし始めてから一週間、今はこの男との会話のコツを掴んでいる。


「えー! すごいね!」


 天ヶ瀬は僕を褒めながら、夕食のメインであるエビフライを一口齧った。


「小説って言っても大したものじゃなくて。なんとなく暇つぶしで書いてるだけだし…」


 あまり大げさに褒められるとそれはそれで困る。

 たかだか素人がちょっと話を書いてみただけのことだし。

 

「誰にでもできることじゃないし、充分すごいよ! そのうち才は小説家になるかもしれないね」


 小説家、の部分でドキッとする。

 小さい頃から本が好きだった僕にとって、小説家はひとつの憧れではあった。

 さすがに、ここまで大きくなって志すことはないけど。

 その単語にグッときてしまうくらいには魅力的だ。


「........そうなれたらいいけどね」


 白米を咀嚼そしゃくしながら、短く返した。


「才ならなれるよ!」


 夕食を食べ終えた天ヶ瀬は、ごちそうさまをして食器を片付けにいく。

 なんの根拠もなく他人を肯定できるこの男をやはり僕は眩しいと思った。



 僕が小説を書いている話をしたからだろうか。

 翌日、天ヶ瀬は僕にノートパソコンを一台譲ってくれた。


「最新のパソコンじゃないけど、まだ全然使えるよ」


 紙に書くのも文豪っぽくてカッコいいけどさ。


 そう笑って、天ヶ瀬は「じゃ、行ってくる」と手を振って出社していった。

 見送る僕は「行ってらっしゃい」と返して鍵を締める。

 子どもの頃、自分も母に見送られて学校へ行ったことを思い出した。


 元同級生、今は同居人。

 家族でもなんでもないのに、ぬるま湯みたいな関係性だ。 

 

 今日はこの気持ちを書いてみたい。

 僕はテーブルに置いてあるノートパソコンを起動した。


 もともと使うことがなかったパソコンなのか、インストールされているソフトの数は必要最低限だ。

 幸いオフィス系のソフトはすべて揃っていたため、僕はワードを開く。

 四百字詰めの原稿用紙に設定を変更して、キーボードで文字を打ちはじめた。


 文章を打ち込むと、頭の中が整理される。

 キーボードに指を滑らせる感覚が気持ちいい。

 画面の原稿用紙に文字が埋まっていく感覚もわくわくする。

 小説を書く行為は自分しか知らない泉に沈んでいくようで、快楽に近い楽しさがあった。


 短い話をひとつ書き終えてネットサーフィン中。

 せっかくだから小説の執筆に関するノウハウを調べてみよう、と検索をかけたところにある一文が目についた。


『あなたも小説家に』


 天ヶ瀬との会話を思い出す。

 年齢を重ねるごとに感じる機会の減った胸の高鳴り。

 鼓動の早くなる感覚が自分でもわかる。

 それくらいに今の僕は興奮していた。


 サイトをクリックすると、短編小説の賞を主催している公式サイトだった。

 定期開催されている賞らしく、優秀な作品には主催者の作家から講評コメントがもらえるらしい。

 応募要項を見てみると、一万字を超えない短い話であればジャンル不問と書いてある。

 

 僕の頭に選択肢が浮かんだ。


 サイトのあおり文句を真に受けるわけではない。

 今の僕はただの精神疾患者であり、休職中の社会人だ。

 小説家になろうなんて夢のまた夢。


 でも、指が勝手に動いていた。


 文章に誤りがないか、間違った表現はないか。

 もっと僕の作った世界をよりよく表現できる言葉はないか。

 必死に目をらして探した。

 そして僕が百パーセントいいと思える話を完成させた。


 小説のファイルを応募フォームにドラッグで持っていく。

 今の会社で営業として働きだした時、初めて取引先に挨拶した日よりも緊張した。

 一度深呼吸して、息を整える。

 

 大丈夫、今の僕に書けるものは全部出し切った。


 カーソルを「応募」に持っていき、クリックした瞬間。

 僕は今までにない満足感と脱力感に包み込まれた。

 二十代半ばにして、久しぶりに自分の意思で何かをしたいと思えた日だった。


「今日、小説の賞に応募してみた」


 自分の中でチャレンジに踏み出せたことが嬉しかったのかもしれない。

 僕はテーブルで天ヶ瀬と夕食を食べながら、賞応募の件を嬉々として話した。


 今になって思えば、ここで間違えたことがすべての始まりだった。

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