第14話 創作と転換

「おはよう、今日は早いね」


 十時間以上の睡眠を取った僕は早朝に目が覚めた。

 リビングへ降りると、すでに天ヶ瀬は起きていて珈琲を飲んでいる。


「…おはよう」


 昨日の会話を思い出してなんとなく気まずくなる。

 僕は天ヶ瀬の顔からテーブルの隅へと、意味もなく視線を移した。


「昨日話したことなんだけど、本当に気にしなくていいから!」


 天ヶ瀬に促されて、僕もテーブルにつく。

 目の前の男は、昨日の話で僕の気を悪くしたと思っていたのかもしれない。

 申し訳なさそうな表情で僕の顔を見ていた。


「俺、この間昇進して役職ついたし。給料も上げてくれるらしくて、今までより自由に使える金が増えることになる」


 今までよりも金銭的に余裕ができる。

 この家は家賃を気にしなくていい。

 一人増えたところで、光熱費や水道代もそんなに変わらない。


 だから気にするな、ということらしかった。


「金のこと、才は気にするなって言っても気にしそうだし。働けるようになったら払ってくれればそれでいいよ」

 

 ここまで詳細に話をされても、僕は納得できそうになかった。

 それは、頭で理解できるかという話ではなくて気持ちの問題だ。

 他人にここまでしてもらってまで生きている意味を僕は見いだせない。


「でも申し訳ないから」


 これだけ他人に気を遣わせておいて、口から出てくる言葉はありきたりだ。


「もし休職が続けば生活保護も視野にいれないといけないと思う」


 生活保護。


 頭の中に入っていた言葉。

 だけれど現実味を持って意識したことはなかった。

 

「それは最終手段で考えるとして、今は頼れる相手がいるなら頼ればいいから」


 友達なんだからさ、と。

 いつもよりも笑顔を増した天ヶ瀬が言う。




 一応、金銭面の話はこれで終わりになった。

 というよりも終わりにしてもらった。


 広い家は、互いの間に微妙な空気が流れるとより意識しやすい。

 天ヶ瀬も気まずさを感じたのか、僕に気を遣って珈琲を入れてくれた。

 黒い珈琲にミルクを垂らすと白が溶けて柔らかな色になる。

 一口飲むと、やっぱり喫茶店で出てくる味がした。


「今日も出社だから身支度して家出るね」


 天ヶ瀬はコップを片付けてから洗面所へと消えていった。

 

 僕は一人になったテーブルで珈琲をゆっくり飲む。

 思っていたよりも、天ヶ瀬は僕の状態について色々考えてくれていた。

 それなのに自分はくだらないプライドを気にして、仕事帰りの天ヶ瀬に詰め寄って。

 僕はなにをしているんだろう。


 飲んでもあまり減らない珈琲をじっと見つめる。

 そうしていると、珈琲の表面に自分の顔がぼんやりと映った。

 水面に浮かぶ自分はゆらゆらと動いていて、輪郭は曖昧だ。




 天ヶ瀬が家を出る前。

 気分転換に「日記を書いてみたら?」と勧められた。


「思ってることや考えてることを紙に書くとスッキリするかも」


 律儀に新品のノートとボールペンを出しておいてくれる。

 

「いろいろ言ったけど、才が元気になれば俺はそれでいいから」


 同居生活を始めて三日目。

 天ヶ瀬は、僕に一貫して「いい人」の態度を崩さない。

 同じ家で生活していても、あの男の隙は見つからなかった。


 対して、自分はどうだろう。

 比べるまでもないが比べてしまう。

 

 自分と彼を並べて、測って、勝手に自滅して。

 そうやってどうにもならない思考を持ちつづけるなら手放した方が賢明だ。


 僕はペンを持ち、紙の上に文字を走らせる。

 まだ何も書かれていないまっさらのページに字が埋まると気持ちがいい。

 積もった雪に足跡をつけていく感覚によく似ていた。


 朝食が美味しかった。

 薬を忘れずに飲めた。

 水分を多めに取った。


 どれも取り留めのないことだ。

 自分の感情を言葉にして吐き出す作業は言ってしまえば、心の消化。

 溜まっていたものを紙に書き出す行為は、清々しくて楽しかった。


 その時、ふと魔が差した。


 大学の頃、人生で初めて小説を書いた日。

 ルーズリーフにペンを走らせた時のことをなんとなく思い出した。


 そこから過集中が始まった僕は、テーブルから数時間動けない。

 頭の中でパズルを組み立てるように一連の物語を組み上げ、書き起こす。

 最後の句点をつけてペンを置いた時、時計を見ると三時間経っていた。


「できた……」


 学生の頃に書いたきり、一切作らなかった小説。

 あの時期は諦めたものの、僕は他人からどんなふうに見られたとしても書くことが好きだった。

 その証拠に、ブランクはあっても最後まで書ききることができた。


 即興で書き上げた物語を読み返して、少しだけ浮かれる。

 すると、いきなり空腹感が僕を襲った。

 どうやら小説を書いている間にエネルギーを使い過ぎたらしい。

 僕は冷凍庫にあった冷凍パスタを皿に乗せて温めた。


 電子レンジの中でくるくると回るパスタを見ながら考える。

 小説を書いている間は、過集中になるからネガティブになりようがない。

 つまり書いてさえいれば僕の鬱は止まるんじゃないか…?


 実際、僕はこの日から回復の兆しが見え始めた。

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