第11話 檜と対岸

「うーん、なにから聞けばいいかな」


 天ヶ瀬は、手足を伸ばしながら浴槽の中で軽くバタつかせる。


 こちらは今更何を言われても驚かない。

 なんせ一日に二回も他人に迷惑をかけたごみ屋敷の主だ。

 どれだけ罵倒ばとうされても甘んじて受け入れよう。


「今、職場には行けてる? あの状態で出勤するのキツくない?」


 この期に及んで、まだ僕の身を心配できるのか。


「実は、昨日病院に行って休職することになった」


 過呼吸になり、パニックを起こしたとき。

 助けてくれた天ヶ瀬に対して、僕は咄嗟とっさに噓をついた。

 遭遇した時には、僕の休職は決まっていたし復帰の目処もわからなかった。

 規則的に出勤と退勤を繰り返しているであろう人間と同じではない。

 

「あー。なるほどね」


 言葉を選んでいる。


 一人二人くらい男湯にいたじいさんたちは、とっくに湯から出ていなくなった。

 今は、浴槽内に男二人だけ。

 蛇口から垂れ流されている水の音くらいしか、この空間に音はない。


 言いたいことがあるなら構わず言ってくれ。

 そう言いたい口をきゅっと閉じたまま、次の言葉を待った。


「あ、俺に休職のこと言わなかったの気にしてないよ」


 言いにくい話だろうし。

 天ヶ瀬は、そうくくって僕の仕事に関する質問を打ち切った。

 あっさりした態度からは、噓をつかれたことを気にしていないように見える。

 不覚にもその淡々とした返しを僕はありがたいと思った。


「あと気にかかることと言えばアルコールかな」


 昨日の飲み方と家に散乱していた酒瓶のことだろう。

 何を言いたいのかは簡単に予想ができた。


「アルコール依存症で、最近は危機感持ってたから我慢してた」


 でも、おまえの家で。

 目の前に並べられた酒、酒、酒。

 

 欲に負けるまでは本当に早くて。

 一度口に含めば、理性がなくなるまで一瞬だった。


「そうか、それは........ごめん」


 ちがう、おまえは悪くない。

 おまえは何も知らなかったから僕に酒を出した、それだけだ。

 そんなに簡単に謝るな。


「でも、俺の家で飲むまでは我慢してたんでしょ? えらいよ」


 会社で倒れてからは酒を買いに行く気力もなかっただけだ。


「玄関から見えた酒の空き瓶がすごい数で正直心配になった」


 天ヶ瀬は、眉根を寄せて僕を見た。

 そんな困り顔作られても困るのは僕の方だ。

 心配されたところで、僕も今の状況になりたくてなってるわけじゃない。


「親御さんは近くにいないの? 兄弟とかは?」


 大方、地元で就職してるんだから実家を頼れと言いたいのだろう。


「うちは母子家庭で父親いない。母は四国で祖母の介護してるし、姉とは音信不通で一切連絡取ってない」


 もちろん、四国で母親に僕の面倒を見てもらうつもりなどない。

 親不孝をこれ以上重ねるくらいならごみの中で消えた方が何倍もマシだ。


「恋人とかは........」


 いるように見えるか?

 と、返してやりたい気持ちはあるが流石に意地が悪い。


「いないよ。大学の頃はいたけど社会人になってから遠距離で別れた」


 今の僕が頼れるような人間は近くにいない。

 ここまでの質問でそれがよくわかっただろう。


 仕事、家族、恋人の有無。

 本来の僕ならここまでプライバシーを侵害する質問には答えない。

 けど、もうそんなことはどうでもよかった。


 僕はこの男に充分すぎるほど、恥を晒した。

 今更噓をつこうが取り繕おうが大した意味はない。

 ましてや、あんなごみ屋敷を見られたんだ。

 あれ以上の恥なんて有りはしない。


 僕は天ヶ瀬と再会してから、常に一本の線を引いている。

 僕とこの男はこれまでの生き方が違いすぎて。

 隣を歩いていても、お互いが対岸にいるような感覚になる。

 僕とこいつを隔てる溝は大きい。

 なのに、この男は平気でこちら側まで来ようとしてくる。


「あのさ、これは無理強いじゃないんだけど」


 うん?


「しばらくうちに住みなよ」


 正気か?


 僕の病気がうつったのか?

 湯に浸かりすぎてのぼせたか?


 天ヶ瀬の顔をちらりと見る。

 その表情は冗談とも真剣ともつかないような真顔だった。


 まあ、なんでもいいしどうでもいいか。


 今僕と天ヶ瀬が浸かっている日替わりの湯は、ひのきの湯らしい。

 子供のころに母と行った露天風呂で嗅いだ香りに似ている気がする。

 湯の温度と檜の香りで思考がとろけ、曖昧になっていく。


「いいよ」


 だからだろうか。

 僕は脳を介さずに、なんとなく返事をしてしまった。

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