第10話 湯と救済

 今すぐ消えていなくなりたい。


 何度も頭に浮かんだ言葉。

 何度も、何度でも。

 自分からこびりついて離れてくれない希死念慮きしねんりょ


 おまえはきっと経験したことないだろうし、これからもないだろうな。

 嫉妬なんだかよくわからない感情で天ヶ瀬をにらみつける。


 やめろ。

 僕を見下ろすな。

 今すぐ消えろ。それか僕を消してくれ。


 散々な被害妄想で埋め尽くされていく頭の中。

 言われてもいない僕を責める声にさいなまれている途中。

 天ヶ瀬は僕を笑うでもけなすでもなく、手を差し伸べてきた。


「詳しい話を聞く前に、とりあえず起き上がろうか」


 ここで天ヶ瀬の手を取らない選択もできる。

 詳しい話もなにも、僕の状態とおまえはなんにも関係がない。

 実際、天ヶ瀬は家族でもなんでもない。赤の他人だ。

 

 でも。


 ここで無視したところで、こいつは帰らないだろうな。

 最悪、通報でもされたら面倒が増える。

 そうなれば、誰にも見つからずに消えることもできなくなるだろう。


 僕は、差し出された手を取った。


「抱えたときも思ったけど身体軽すぎない? ごはん食べてる?」


 引っ張り起こされると、僕の身体は引っ張られた方向へ倒れそうになる。

 天ヶ瀬に支えてもらって、ようやく頼りない身体は自立した。


「食事は、数日取ってなかった」


 栄養ドリンクとエナジードリンク、アルコールに頼っていたここ数日間。

 僕の食生活はほとんど壊滅かいめつしていると言ってもよかった。

 天ヶ瀬に用意されて食べた食事が久しぶりのまともなごはんだった。

 

「それはよくないな…。それと、この部屋は…さすがに臭いがちょっと」


 言葉はかなり選ばれているが、要するに異臭の指摘だった。


 この部屋で過ごして染みついた臭いは、シャワー程度では落ちない。

 僕は病院へ行く前、近場の銭湯で身体をまるっと洗った。

 そしてコンビニで買ったテキトーな服に身を包んだ。

 その帰りに天ヶ瀬と鉢合わせたものだから、僕から異臭はしなかったはず。


「場所を変えよう」


 天ヶ瀬に支えられた状態で、外に連れ出された。

 家に連れていかれるのだろうか、と思いきやルートがちがう。

 しかし、知っている道をなぞるように通るから理解するまでは早かった。


「すいませーん。タオルセットください。二人分」


 連れてこられた場所は、近所の銭湯だった。


 天ヶ瀬は、二人分の代金を支払って男湯に向かう。

 頭に眼鏡を引っかけた店主は、「どうぞごゆっくり」とこちらを見ないで喋った。


「友達と銭湯行くの、意外と楽しいよね」


 あの部屋を見ておきながら僕を友達と言うのか。

 もしくは、一般的な感じ方の話をしているんだろうか。


 日曜の昼間。男二人で空いている銭湯の湯に浸かっている。

 それも、若干トラウマになった男と。

 僕は一体何をしているんだろうな。

 壁に描かれた富士山の絵をぼーっと眺めながら考える。


「たまにはお湯に浸からないとさ。自律神経整えなきゃ」


 天ヶ瀬は、健康的な筋肉のついた身体だった。

 自分の身体に視線を移すと、あばら骨の浮いた貧相な肉体が目に映る。

 僕らの身体はあまりにも対照的だった。


「それで」


 ぱしゃ、と小さく水音が響いた。

 浴槽内の湯が外へ流れた音だろう。


「聞きたいことがいくつかあるんだけど」


 きたか。


 なんの意味もなくここへ連れてこられたとは思っていない。

 あの部屋を目撃した以上、言いたいことのひとつやふたつ出てくるだろう。


 僕は、天ヶ瀬の口から飛び出す言葉を無抵抗で受けるつもりだった。

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