第9話 強迫と病

 ある日、突然身体が動かなくなった。

 自分の意思に反して、布団から身体を起こそうとしても言うことをきかない。

 それは決まって出社前で、だんだんと仕事に遅刻する回数が増えていった。


 遅刻が重なると、あまりいい顔をされない。

 言葉では僕を気遣ってくれている上司が、僕のことを煙たがっている。

 なんとなく察していたことは予想から確信に変わった。

 たまたま通りがかった休憩室で、僕の陰口を偶然聞いてしまったのだ。


 僕を確実に嫌っている人間が目の前にいる。

 誰からも嫌われていない人間なんてこの世にはいない。

 そんなあたりまえのことも見えなくなって、遅刻は当日欠勤に変わった。


 会社からの着信を見たくない。

 メッセージの通知を見たくない。

 何もせずにどれくらい時間がたったのか見たくない。

 僕の存在を知っている全ての人間の顔を見たくない。

 もう他人を見たくないし、自分の姿を誰にも見られたくなかった。


 寝そべった姿勢で、自分の首にそっと両手を当ててみた。

 そのままほとんど力を入れずに首を絞めるフリをしてみる。

 ほんの少しだけ圧迫感を与えた両の手は、そっと僕の首から離れていった。

 それだけのことで涙が出てきて、乾いた頬を濡らしていく。

 今の僕が呼吸をしていること自体が何よりも悔しかった。


 人間は、働いて金を稼いで食事をする。

 健全で健康に生きていかねば、社会的に認めてもらえない。

 何もしなくても生きているだけで金はかかるから。

 働かないわけにはいかなかった。


 何よりも、会社から実家の母へ連絡がいったことに耐えられなかった。

 僕は、入社時に緊急連絡先を母の番号で登録していた。

 僕と連絡を取れなくなった会社は、登録先の番号である母に電話したのだ。


 久しく連絡を取っていなかった母は本当に心配していたのだろう。

 何件も僕に電話をかけてきたので、流石に身体を起こして折り返した。


「あんた、ほんまに大丈夫なん?」


 僕が社会人になって、母は四国にいる祖母の面倒を見ると決めた。

 母は他県へ、僕は地元の安アパートで一人暮らし。

 すぐに顔を見れる距離ではなくなってしまったが、これで良かったのかもしれない。

 昔より老いた母に心労をかけた僕には、見せられるような顔がなかった。


「最近身体の調子が良くなくて…ちゃんと病院で診てもらうから。もう大丈夫。仕事も復帰するよ」


 自分の身体のことなのに何もわからない。

 本当に大丈夫になるのかどうかなんて、断言できる確証はない。

 それでも母にこれ以上心配をかけるわけにはいかない。

 その場しのぎの噓でもつかずにはいられなかった。


「ほんまに大丈夫やなかったら、いつでもこっちくるんよ」


 あんたの世話くらい何年もしとったんやけんね。

 母がそれだけ言うと、電話はすんなり終わった。


 僕は僕を大丈夫にする必要があった。

 会社に迷惑をかけないため、母に心労をかけないため。

 他人を困らせないために、僕は布団から起き上がらないといけなかった。


 朝は、栄養ドリンクとエナジードリンク。

 夜は、業務用サイズのアルコール。

 身体に入れるものがちがうだけで、そんなに大差はない。

 気がつけば、朝と夜の境界線は曖昧になっていった。


 母から電話があった数日後、段ボールいっぱいの仕送りが届いた。

 缶詰やカップ麵、僕が子どもの頃から好きだった砂糖のついた煎餅。

 有難くて、でも申し訳なくて。

 仕送りのどれにも手を付けずに、お礼の連絡だけを母に返した。


 僕が遅刻しなくなって一ヶ月頃、会社で意識を失って倒れた。

 コピー機から吐き出される用紙をぼんやり見ていたとき。

 足場がなくなるような感覚がして、途端に意識を手放してしまった。

 真っ白のベッドに寝かされた僕は、上司に病院へ行くように言われた。


 病院へ行ったら、僕の状態に名前がつく。

 もし、僕が正常ではないことを証明されてしまったら。

 そう考えて、今まで避けてきたがもう逃げられそうにはなかった。


「適応障害ですね」


 アルコール依存症。

 パニック障害。

 躁鬱病。


 様々な名前を与えられた僕は、要するに「普通ではない」らしかった。


 普通ではない人間が暮らす場所は、当然普通ではない。


 飲み切ったアルコールの瓶がそこらじゅうに転がっている。

 ゴミの分別ができなくなって捨てる曜日も覚えられない。

 捨てられないから溜まっていき、積もり、崩れ、溢れていった。


 そうやって、集まっていった物体は今の僕そのもの。

 醜くて、汚い。


「ゴミだね」


 異臭を放つ玄関で倒れこむ僕を、天ヶ瀬宝が見下ろしていた。

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