第3話 完全密閉の魔窟に挑む

「1等海士に昇任させる」


 沖縄の米軍用港湾ヤンキーベースである『ホワイトビーチ』を出港してすぐ、手隙の乗員が露天ろてん甲板へ集合した。


 梶田浩二と飯沼茂雄、他数名の新人は真っ白い水兵服を着て艦長の前に立つ。

 彼らは最下層の2等海士かいし(2士)から一つ上の1等海士かいし(1士)へと階級があがった。

 ゲームで言う「スキルポイントがあがりました」というやつだ。


 基本給がちょっぴり上昇するが、だからと彼らの艦内での待遇が何か変わるわけでは無い。

 2士全員が1士になったのだから、艦内ヒエラルキーで一番最下層である事実は変わらない。


 それでも梶田浩二は少しだけ誇らしい気持ちになった。

「むふ。」




「おい、梶田。主機もときの水温測ったんか、わりゃあ、はようせいや」

 船舶の巨大エンジンが奏でる爆音と震動のなか、任侠映画でお馴染みの広島弁が轟く。


 この先任せんにん海曹かいそうどのは、まもなく定年ということもあり、最近はもっぱら庶務仕事で事務室に籠もってアイスクリーム嘗めていられる身分だ。

 それが、新人を直々に指導すべく蒸し風呂状態の機械室で男のヒステリーを爆発させていた。


 機械室の温度は軽く40度を超えており、沖縄の日昼よりも高温多湿。

 冷えたビールの一杯もないことに苛つき、先任は苦虫をかみつぶしたように歯軋りしていた。


 どうやら南国情緒あふれるビアガーデンの味が忘れられないようだ。


 もちろん艦内は禁酒だ。

 かつての日本海軍はワインだのウイスキーだの洋酒のボトルが転がっていたそうだが、現在の海上自衛隊は禁酒法の同盟国さまにならってアルコールは医務室の消毒液以外は持ち込んでない。


 空調用の送風機はあるが、生暖かい風を掻き回しているに過ぎなかった。

 全身、汗でずぶ濡れだ。

 それでも誰ひとり厚手の作業服を脱ぐことが許されない状況に苛ついていたのは先任ひとりではなかったろう。



 鋼鉄の隔壁に囲まれた油臭い室内には、駆動し続けるのモーターや放熱板。

 ボイラー。

 海水ポンプ。

 所狭しと這っていると機械室にはがいっぱいだ。


 熱中症の危険性が叫ばれる昨今とは違って、この当時の機関科員は僅かばかりの機関科手当てをもらい、この過酷な労働に従事していた──現在の『フライトデッキ』で操縦桿を握るクリーン&デジタルな操縦室はこの当時存在しない。


 すべての機械を直接動かすアナログ方式だ。



 ところで主機もときとはエンジンのことだが、補給艦のエンジンはディーゼルだった。

 ディーゼルといえばトラックのエンジンを思い浮かべるだろうが、あんなサイズじゃない。

 床から生えている部分だけで2階建てのアパートに匹敵する大きさがあった──これも現在のガスタービン機関とはまるで別物だ。



「じゃあ頼むの」

 海士長の先輩から記録用紙を引き継ぐ。


 潤滑油パイプと真水パイプの間の海水パイプに水温を計る10センチ程度の温度計が直接刺してあった。


 まず真水パイプに手をかける。

 潤滑油パイプの接合部から漏れたオイルに足を滑らせながらエンジンの突起物に足を引っ掛けよじ登る。


 海水パイプに取り付けた練り消しのような素材に埋め込んである水温計は、ガラス面が水蒸気によるイタズラで霞んで見えにくい。


 目を見開き凝視した。


 額から吹き出す汗が目に入り何度も擦る。

 ようやく記録用紙に鉛筆で数字を書き入れようとして、紙に油がべったりついていることに気づく。鉛筆の芯が滑って上手く記入出来ない。ぐずぐずして再び先任が怒鳴る。


「水温計はそこだけで終わりじゃないんで。はよう、テキパキやらんか」


 心臓がバクバク鼓動した。

 理由は先任の怒鳴り声だけではない。この尋常ならざぬ暑さだ。


 体力の消耗も激しかった。

 だからと水分すら取る暇はない。


 降りようとして腹が油で滑り、手足も滑る。

 なすすべ無く背中から鉄製の床に落ちた。

 シンバルのような凄まじい音に、発電機をオーバーホールしていた先輩らが一斉に凝視する。


「梶田1士は危なっかしいなあ。大丈夫か、ケガないか」


 気持ちとは裏腹に「大丈夫でーすぅ」アピールのつもりで戯けてみせる。すると、先任から怒られた。


「ふざけてないで、他の水温計も調べてこいや!」




 きっちり3時間の機械室ワッチを終え次の組と交代した。

 梶田浩二はふらふらと食堂へあがる。


 作業服を濡らした汗は既に乾いて、青い生地を白く染めるほど塩が浮いていた。

 若い身には恥ずかしかった。

 男しか乗艦していないフネで良かったと心底思った。


 自動販売機でジュースを買った。

 外へ出るハッチはロックされていたがノブを回すと簡単に開いた。外気が顔にあたる。


 けれど航海中は灯火管制とうかかんせいでフネの灯りは外に漏れないため真っ暗だった。


 停泊中のように露天甲板まで行って海を眺めることは諦め、ハッチ付近で缶ジュースのプルタブを開ける。

 ジンジャーエールを一気に喉へ流し込みながら、何気に視線は空を見上げた。


 満点の星空に思わず声が出た。

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