邪教の儀式

 ――イエ、ハサ、エル、アトラス。


 睡眠というものの質は、いかにして目覚めるかによって左右されるところ大であり……。


 ――エイ、キシ、レグ、バズズ。


 その点でいけば、リーナの陥っていた眠りは、最悪のものと言う他になかった。

 頭の奥が、鉛でも仕込まれたかのように重く……。


 ――ロウ、ワム、ヌル、ベリアル。


 しかも、寝かされた周囲では、不気味な声による奇怪極まりない詠唱が、何重にも渡って響き渡っているのだ。


「う……く……」


 呻きながら、まぶたを開く。

 そうすると、周囲の光景が明らかとなる。


「ひっ……!?」


 目に入った光景を見て、声にならぬ声を上げてしまったのは、当然のことであろう。

 場所は、ハロネク公爵家の大広間……。

 今宵、招かれた夜会の会場と見て間違いない。

 だが、その様子は、眠りに陥る前とは打って変わったものとなっていたのだ。


 壁には、これは――血を用いているのだろうか?

 不気味な……見るだけで怖気を催すような赤い紋様が、複雑に書き連ねられている。

 天井のシャンデリアは、すでにその火を消されており……。

 広間を照らし出すのは、申し訳程度に用意された燭台たちだった。


 それが照らし出す参加者たちの姿は、これは……どういうことだろうか?

 皆が皆、法衣のようにも見える装束を身にまとっており……。

 顔を隠すように、仮面を被っているのだ。

 その仮面は、一つ目の飾りと口のような模様が存在するのみで、装着者の感情を不気味に覆い隠している。

 その上、全員が両手にメイスを携えており、たた面妖なだけでは備わらない剣呑さまでもが宿っていた。


 ――レウ、レウ、ウル、ハーゴン。


 そして、周囲を囲うその者たちが、低い……地の底から響くような音程で、生理的な嫌悪感のある詠唱を続けているのだ。


「な、何を……?」


 動こうとして、気づく。

 あの飲み物に混ぜられていたのだろう薬は、すでに効力を失っているのか、体は思うように動かせたが……。

 肝心の四肢が、どこからか持ち出された円卓の脚へ鎖で繋ぎ止められており、リーナの自由を奪っているのである。


 ――エア、エア、オル、シドー。


 そんなリーナを尻目に、邪教徒……そう、邪教徒だ。

 邪教徒としか形容しようのない者たちが、詠唱を終えた。


「あら、お目覚めになりまして?」


 そして、内の一人が、仮面の下から聞き覚えのある声で話しかけてきたのである。


「あなたは……カレル様?」


「そう……あらためまして」


 邪教徒が、そう言って仮面を取った。

 すると、露わになったのは、カレル嬢の顔だったのである。

 しかし、これを見て、あの穏やかな貴族令嬢と同一人物だと思えるだろうか。


 顔は、確かに笑みを浮かべていた。

 だが、その笑みの、なんと酷薄で恐ろしいことか。

 およそ、人間が浮かべられるそれとは思えない代物なのだ。


「リーナ様……。

 今宵は、わたくしたちの儀式に参加して頂きまして、誠、感謝致します」


「儀式……一体、何の儀式です?」


 拘束された身でありながら、毅然と問いかけられたのは、フロレント辺境伯家の娘という立場が成せる業であろう。

 そんな自分に、カレルが冷たい眼差しを向けたまま答える。


「破壊神様……。

 ひいては、悪霊たる神々に捧げる儀式ですわ」


「破壊神……!?」


 その名は、つい先日に聞いていた。

 アンナが話していた、破壊神を信奉する邪教団……。


「まさか、あなたたちは邪教団の……?」


「そう、神官でございます。

 もっとも、表向きはローハイム王国の貴族として、王家に忠誠を誓っておりましたが」


 カレルが、メイスを置く。

 棘付きの鈍器としか形容できないそれを顔の隣に置かれると、どうしようもない恐ろしさがある。


「でも、それは今夜で終わり……」


 自由になった手で、カレルがつい……と、リーナのへそ辺りをなぞった。

 あまりの怖気に、背筋が震えてしまう。


「忌まわしき第四王子の婚約者にして、フロレント辺境伯家の娘……。

 可憐で清楚な、極上の乙女……。

 あなたという生け贄を捧げ、わたくしたちは神を降臨させるつもりです」


 カレルの顔に宿っているのは、恍惚と――狂気。


(狂っている……!)


 もはや、そこからは正気というものを感じることができない。


「きっと、破壊神様は我々の祈りに答えてくれることでしょう。

 お父様たちが召喚した魔獣による暗殺は、失敗したようですが……。

 ああ、かえってよかった。

 あなたという最上の供物を、こうして捧げられるのですから」


 魔獣による暗殺。

 その言葉で、エニク王子が火の輪グマと呼んでいたあの強大な魔獣を思い出せた。


「あれも、あなたたちの仕業だったというんですか……!?」


「その通り、と、申し上げておきましょう。

 お父様たちったら、短絡的にあなたを排除しようとするんですから」


 くすくす、と、カレルが笑う。

 笑い声というものを、こうまで恐ろしく感じたことはない。


「まさか、王都の貴族たちにまで、邪教の信奉者がいただなんて……!」


「わたくしたちの役割は、この王都に深く根づき、教団を支援すること……。

 かつて、わたくしたちの教団は、憎き王と第四王子の手により、表向きは壊滅させられました。

 ですが、お父様たちの手引きにより、導き手たる大神官様は逃がすことに成功した。

 だというのに……!」


 そこで、初めてカレルが笑みを消した。

 そうして明らかとなった素の顔は、まるで魔物がごとき醜悪さである。


「あの第四王子めは、執念深くもこれを追い続けたのです。

 繋ぎが絶たれたことを思えば、おそらく大神官様はあやつに……。

 ――何たる不敬か!」


 ――バアン!


 ……と、リーナを拘束する円卓が叩かれた。

 怒りのまま、カレルが拳を叩きつけたのである。


「破壊神様こそ、真の救い主!

 そして、大神官ゴーハ様こそは、その代弁者!

 それを、害するなどとは……!

 ゴーハ様も、どれだけ無念だったことでしょう。

 悲願だった王家への呪いは完成し、後はこの国を乗っ取り、ここを足がかりとして救世に乗り出すだけだったというのに!」


 叫びながらカレルは、自分の髪をぐしゃぐしゃにかきむしっていた。

 こうなると、もはや、公爵令嬢の面影はどこにもない。


「大神官様にとっては、誤算だったことでしょう!

 あえて呪いの対象としなかった王はともかく、あの第四王子までも呪いを免れるとは……。

 あるいは、精霊神の加護でも受けていたか……忌々しい!」


 カレルが、息を荒げる。

 邪教の信徒は、許容範囲を超えた怒りに、満足な呼吸すらままならないようだったが……。


「ですが、そのような屈辱の日々も、あなたのおかげで終わります」


 不意にそう言うと、元の穏やかな表情へ戻るのであった。


「憎き第四王子の婚約者……。

 これを生け贄に捧げ、悪霊たる神々の一柱を降臨させる。

 ああ、なんと素晴らしきことなのでしょう!

 最も屈辱的な形で意趣返しを果たせるだけでなく、この国そのものも我らの手に落とせます。

 王都が瓦礫の山になる? それとも、火の海になる?

 きっと、恐ろしき殺戮の嵐が吹き荒れますわ!」


 うっとりとしたような顔で、カレルが独白を続ける。

 見ようによっては、滑稽な舞台役者のようだが……。

 とてもではないが、これを笑える状況ではなかった。


「ああ、リーナ様……生まれてきてくれて、本当にありがとう」


 カレルが、またしてもリーナのへそ辺りを撫でる。

 同性同士でありながら、得体の知れない気色悪さだ。


「そして、こんなに良い子へ育ってくれてありがとう。

 いかに我らの力を結集しようと、生け贄の質が悪ければ、儀式はここまで円滑に進まなかったことでしょう」


 いつの間にか、カレルへ歩み寄っていた邪教徒の一人が、彼女に短剣を渡す。

 いかにも儀式用のそれは、見るからに禍々しいこしらえであり、刃に宿る冷たい光がリーナを震わせた。


「恐れることはありません。

 悪霊たる神々にその身を捧げたあなたは、来世への転生が約束されているのですから。

 素晴らしき世界にて、お会いしましょう」


 まるで、結婚する新郎新婦を祝うような……。

 心からの祝福に満ちた笑みで、カレルが短剣を振り上げる。


「エニク様……」


 目をつぶりながらつぶやいたのは、夫となるはずだった人物の名であった。

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