第2話
――ヤバい、全然分からん……
編入一発目の授業は数学だった。なんかⅠとかⅡとかあるけどそもそも数学は苦手なんだよな……
早速机の上に突っ伏したくなる欲望を抑え、なんとか先生の説明に耳を傾けて理解しようとするが、分からないものは分からない。後で大輝にでも教えて貰おう。そうしよう。
流石に初日くらいは真面目に、と決めていたのでとりあえずノートをとる。
じゃないとさっきからチラチラと感じる視線に負けてしまいそうになるからだ。
――どう考えても見られてるよな……
視線の主は考えずとも分かっている。が、今は授業中だし視線を返したところで、という気持ちもあるし、何より今のところ俺から関わるつもりはない。
でもなぁ、休み時間とか絶対絡んできそうなんだよなぁ……
ふぅ、と深い息を吐き、再度授業に集中する……が、やっぱり内容が理解出来ない。なんで数式とかいっぱいあるんだよ。四則演算だけあれば良いじゃないか。
結局黒板に書かれた内容をノートに写すだけの作業となってしまい、今度は「はぁ」と溜め息が漏れた。
――キーンコーン……
「はい、じゃあこれで授業を終わりにします。分からないところはしっかり復習しておくように」
うん、復習って大事だよね。同じ事を何度も何度も何度も繰り返す事はとても大事。
ああ、トラウマが蘇りそうだ……
「あの……「小兄!! いる!?」」
スパーンと小気味良い音を立てて教室の扉が開かれる。まあ来るとは思ってはいたし、本人も言っていたが、さっきチャイム鳴ったばかりだよね? 早すぎない?
「光、もっとゆっくり開けろ。扉が壊れるだろ」
「はーい、っていうか良いなぁ。一番端っこの席なんだ。私なんて亜咲ちゃんのせいで一番前の席だよぅ……」
というかお前一年だよな。普通上級生のクラスに遠慮なく入ってくるもんか? 見ろ、勢い良く入ってきたもんだから周りがざわついてるじゃないか。
「おい……あの子可愛くね?」
「だよな。っていうかあんな子いたっけ?」
「さあ? 転校生の知り合いみたいだし、あの子も転校生なんじゃないか?」
「後で連絡先聞いてみよっと」
などなど、大輝が自己紹介した時の男子バージョンだなこれは。と思い隣にいる大輝の方を振り向いてみると、既に人垣が出来ていた。流石スーパーハイスペックイケメンさんやで!!
「あはは……大兄は相変わらずだね」
「まあ予想通りと言えば予想通りだな」
アイツが女性に囲まれるなんて別に珍しい事じゃないし、既に見慣れた光景だ。今のところは容姿の部分で注目されているんだろうが、体育とか部活とか始めたらもっと騒がれるんだろうな……
「それより小兄、授業についていけた? 私はもうサッパリだよ……」
「安心しろ。俺もサッパリだ」
「だよねー」
そもそも俺達にはハンデが大きすぎるというものだ。いわゆる一般の高校だったとしてもついていけるだけの学力もないのに、有名進学校に放り込まれる羽目になっているのだから。
「でもせっかく亜咲ちゃんが私たちの為に動いてくれたんだし、頑張らないとだよね!」
「ああ、まあなぁ」
ほんま世の中ゼニとコネですわ。別にこちらからお願いしたわけではないけども。
「そういえば小兄って部活とか入るの?」
部活、部活か。うん良いよね部活。まさに青春の代名詞って感じ。
「だが断る」
「……小兄ってそういうとこあるよね!! ほんとそういうとこだよ!!」
どういうとこだよ。というかどういう事だよ。
「でもほら、剣道部とかもあるみたいだし、小兄なら「光」」
少し声のトーンを低くし、光の名前を呼ぶ。俺の様子が変化した事を察してか、光の方が小さく跳ねたのが見えた。
「今更俺が剣道部? 冗談はよせ。そもそも俺の第一志望は帰宅部だ」
「でも……」
どうやら光は納得していないらしい。まあコイツも俺の事を慮って言ってくれているのは理解しているが……申し訳ないがそれは余計なお世話というやつだ。
「何度も言わせるな。俺は部活には入らない。ほら、もう休み時間も終わりだし、お前も自分の教室に戻れ」
「うん……分かった。また来るね!!」
「ああ、それは構わないが扉は優しく開けるようにな」
ばいばい、と手を振って光が走り去って行く。次来た時は廊下は走ってはいけませんって教えてやらないとな……
「ちょっと……なにあれ」
「あの子かわいそー」
「いくらなんでも言い方ってもんがあるよな」
ひそひそと周囲から俺を非難する声が聞こえてくる。ひょっとして聞こえてないとでも思っているんだろうか。
まあ今更他人にどう思われようとも構わない。ふと隣を見てみれば未だに大輝の周りには生徒達が密集していた。その隙間からこちらを伺う視線がぶつかったが、先ほどのやり取りに対してか、はたまた自分の置かれている状況にかは分からないが、苦笑を返してくるに留まった。
そして休み時間の終了を告げるチャイムが鳴り響き、二時限目の担当教師が教室に入ってくる。さて、次の授業はなんだったかな……
ぼんやりと教師の方を見ながら机の中から教科書を取り出す。チリチリとこちらを伺うような視線を受けながら――
――結局休み時間毎に光はこの教室にやってきた。
同じクラスで友達を作れよと思わなくもないが、明るい性格の光の事だ。俺が心配するまでもなく、すぐにクラスに馴染む事だろう。というより人気者になるに違いない。
少し明るい色の茶色がかった髪に、人懐っこさがにじみ出るクリッとした瞳。目鼻立ちも人並み以上に整っており、身体的には痩せっぽちに見えなくもないが、それでもそれなりに出るところは出ている恵まれたスタイル。まあ女版の大輝と言ったところか。少し身長は低いが、まあその辺の好みは人それぞれだろう。
そんな光が毎回俺の下にやってくるものだから、当然注目を浴びる。元気良く話しかける光に対して淡泊な反応を返す俺。恐らく今日一日で俺という人間の評価はある程度定まった事だろう。良くて下の中くらいかな。多分。
「――それではホームルームを終了します。日直さん」
「起立! 礼!」
ようやく学園生活の初日が終了した。結局今日会話したのは大輝と光だけだったが。
まあこんなもんだろう。と勝手に納得しておく事にする。
さて帰るかな、と大輝の方を見れば相変わらず人垣が出来ていた。よく飽きないもんだ。アイツの話が上手いからかな?
しょうがないから大輝を生贄にしてとっとと帰宅しようと鞄を手に取る。
「
「あ、うん」
教室を出ようと扉に手をかけたところで聞き覚えのある名前が耳に入り、ピタリと動きが止まってしまう。
「そっかー、じゃあまた彼氏クンと一緒に帰るんだ。いいなぁ、ラブラブで」
「そ、そんなんじゃ!!」
チクリ、と何かが身体を刺したような感覚を合図に、扉を開けて廊下に出る。
「あっ……」
背中越しに何かを惜しむような声が聞こえた気がしたが、気のせいだと自分に言い聞かせて廊下を歩く。
さて、今日の晩飯は何にしようか。久しぶりに商店街で買い物でもして帰るかな。などと無理矢理意識を切り替えるようにして。
「――おっ、小吾じゃないか!! 久しぶりだな!!」
「お、まだこの店やってたんだ。久しぶり、おっちゃん」
学園から少し離れた商店街にやってきたところで八百屋のおっちゃんに声をかけられた。今時八百屋一本でやってるなんて珍しいんじゃなかろうか。
「まったく心配してたんだぞ。にしてもアレだな、大怪我したって聞いてたけど元気そうじゃねえか!!」
「ああ、思ったより大したことなかったみたいでピンピンしてるよ」
「そりゃ良かった!! 今日は夏希ちゃんは一緒じゃないのか?」
「あ、ああ。もう高校生だしさ」
「かーっ、何言ってんだか。そんな事言ってたら誰かに取られちまうぞ!? 俺みたいなおっさんが言うのもなんだが夏希ちゃんは小吾にもったいないくらい可愛いんだからよ」
「まあまあ、もう子供じゃないんだから。それよりおっちゃん、玉ねぎと人参貰っていい?」
「おうよ! 小吾の快気祝いだ!! 安くしてやるからいっぱい買ってけ!!」
そのままおっちゃんに押し付けられるように大量の野菜を買わされてしまった。いや安くしてくれたのはありがたいけど、これだけの量使い切れるかな……
「ただいまーっと」
当然の事ながら返事はない。まあ習慣だよね、習慣。
夕食の時間には少し早い気もするが、早速買ってきた野菜を適当に切り、フライパンに油を引いて炒める。しばらくは野菜炒めかカレーかな……
野菜が新鮮なのか、炒めているだけで良い匂いがする。これはご飯が進みそうだ。
あ、お米炊いてないや。
仕方がないので今日は大盛の野菜炒めだけで済ませる事にした。
夕食を終えたところで少しリビングのソファでゴロゴロした後、風呂を洗って湯を張っておく。この後のアレが終わった後にすぐ入れるように。
「そろそろくるかな」
そう呟いて、度の入っていない眼鏡を外してテーブルに置く。替えがないから割れてしまっては困るから。
ふぅ、と浅く息を吐いてアレに備える。別に時間が決まっているわけではないが、昼間ではなく夜に来るのが不幸中の幸いといったところか。
そんな事を考えていたところで、ズグンッと視界がブレた。
――来た!!
近くに用意しておいた毛布を頭から引っ被り、その場に蹲る。少しでも音が軽減されるようにと。
「あ、ああぁああぁああああ!!」
叫ぶ。
「があああああああああああ!!」
叫ぶ。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
左眼が抉り取られるような痛みに頭が割れそうになる。
視界が真っ赤に染まる。灰色だった世界に色が付いていく。真っ赤に、真っ紅に。まるで血を塗りたくったかのように、ただ、ただ赤く。
「ぐっ、ううあああ……」
あまりの痛みに気を失いそうになるが、この眼はそれを許してくれはしない。意識が飛びそうになればそれを上書きするかのような痛みが俺を襲う。
痛みは孤独を誘い、孤独は痛みを加速させていく。今更何故自分がこんな目に、という事は思わない。思わないが、この痛みに耐えて、耐えた先に何があるというのか。
何故自分は痛みに耐えているのだろうか。朦朧とした意識は思考を鈍らせ、ただただ痛みだけを感じさせる。
あとどれだけ続く? あとどれだけ耐えればいい?
叫びながら、呻きながら痛みを耐え続ける。
「――うご」
不意に赤く塗り潰された視界に白が滲む。
「――かりし――」
白がこちらに近付いてくる。まさか、誰か家の中にいるのか?
「小吾!! しっかりしなさい!!」
赤の中に浮かぶ白はそう言った。懐かしい声だと、何故だかそう感じたと同時に痛みが和らいでいく。
同時に視界が徐々に正常な色を取り戻していく。まだ正常な思考は取り戻せていないのだろうが、それでも目の前にいる人物が誰かくらいは判別出来る。だが俺はこの人の事をなんと呼べば良いのだろうか。
「……おばさん、なんでここ――にっ!?」
突然頭を叩かれた。先ほどまでの痛みとはまた違った痛さがあるな。と考える事が出来るくらいには余裕が出てきているらしい。
「おばさん?」
どうやら呼び方がお気に召さなかったようだ。
「か、かなめさ「違うでしょ?」」
今度はさん付けで呼ぼうとしたが、途中で遮られる。ニコリと微笑んだその顔が一番怖い。何故なら本気で怒っている時の表情だと知っているからだ。
「……
「はい、よくできました」
今度こそ本物の笑顔を浮かべた要母さんは俺の頭を撫でた。くすぐったいし、恥ずかしいし、避けようかとも思ったが、その手は温かさに満ちていて、なんだかもったいなく思った俺はされるがままになっていた。
「とりあえずさっきの事とか、その真っ赤な眼の事とか、いつ帰って来たのかとか、足の事とか聞きたいことは沢山、それはもう沢山あるけど」
頭から手が離れていく。恥ずかしいからやめてくれと思っていた癖に、いざやめたとなれば後ろ髪を引かれる気持ちになるというのも現金なものだ。
「おかえりなさい、小吾」
ふわりと、身体が腕に包まれる。意表を突かれてしまったと言えばそれまでだが、俺は要母さんに抱きしめられていた。
「ほら、帰ってきたら何て言うんだっけ?」
「ただいま……かあさん。俺、おれ……っ!! ごめっ、ごめんなさい!!」
何故謝ったのか自分でも分からない。
けれどなんだか謝らなければいけない気がした。要母さんの体温が伝わってきて、その温かさに涙が止まらない。止まってくれない。
眼は、頭はもう、痛くない。
開いた目に映る世界は、決して赤色でも、灰色でもない色で溢れていた。
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