第三章3 『複雑な事情』

 ――熱い熱い熱い。


 直火で炙られているような感覚とでも言うべきだろうか。

 切り裂かれたという事実を認識できない程の高熱が、少女の上半身を襲う。

 慌てて患部を掌で覆うも、べっとりと付着した大量の血液に、文字通り血の気が引く。


「……なん……で…………?」


 頭に漸く浮かんだ疑問が思わず口に出る。


 ――黒い『』が出てこない。


 少女の意志を問わず死を蹂躙するそれが、今回に限って出てこない。

 少女へ身の危険が迫った時、否応なしに顕現していたそれが、今回に限って少女を裏切った。


「……しぬ……の……?」


 死の間際に必ず訪れるあの鬱陶しい機械音声も無い。

 今回限りの様々な理不尽が、少女にある考察を齎す。


 ――『』が……終わった……?


 もし仮にそうだとしたら、こんな最期は断じて望まない。

 嫌だ。まだ死にたくない。まだちゃんと生きられてないのに。


「ヒャハハハッ! このニオイ! この血! 間違いなくニンゲンだぜェッ!! 食わせろ喰わセロくワセろクワセロクワセロォッ――!!」


 剥き出しになった猛獣の牙が、少女の眼前まで迫る。


 助かる余地など、既に――


 その刹那、空中で何かが閃いた。

 牙は少女の眼前で停止したままである。


「……クワセ……ロ……」


 その言葉を最後に、猛獣の太い首が静かに落下した。

 切断されたことを身体が知覚していないためか、首無しとなった肉体はまだ立ち尽くしている。


「――邪魔だ。さっさと倒れろ」


 その一言と共に、起立死体に横から蹴りが入る。倒れた拍子に首の断面から血が噴き出し、それは完全な死体と化した。


「……はぁ……言ったそばからキミは……」


 月光に最も映えるであろう、絹のような美しい白髪が揺らめいている。

 その者は両手に携えた二本の短剣の血を振り払い、腰の鞘へと目視せずにしまい込んだ。


「……レオニクス……さん……」


 同じ獣人。しかし、明確な安堵が少女の視界を闇で覆う。

 次第に意識も薄れゆくが、自然と抗う気は起きなかった。


「……食事よりも風呂よりも……まずは治療か……。全く……人間は本当に世話が焼ける……」


 レオニクスは二度目となる少女の運搬に、ため息を漏らしていた。


* * * * * * * * * * * * *


 ――暖かい。


 目を開いた瞬間、眩しい陽光が瞳孔を貫いた。

 少しずつ目を慣らし、落ち着いて直前の記憶を引っ張り出す。


「……そうだ……! ……私……っ!」


 反射的に胸を押さえる。しかし、触れた感触は傷ではなかった。


「……包帯……?」


「――ようやくお目覚めだな。調子は問題無いか?」


 奥の丸太椅子には、頬杖を突くレオニクスが座っていた。

 どうやら眠っていた少女を見守っていたらしい。


「……あ、はい……大丈夫そうです。……ありがとうございます……」


「にしても……キミは何か反抗するための特殊な力でも持っていたんじゃないのか? ボクにあんな脅しをしておいて、あの程度のチンピラ紛いの獣に簡単に傷を付けられるようじゃ、先が思いやられるぞ……」


 少女はそのレオニクスの言葉で、あの夜のことを明確に思い出す。


「……ち、違うんです……! 本当は……あの時……」


「……何やら訳ありげだな? 詳しく聞かせたまえ」


 昨日と同じように、少女は視線でもう一つの丸太椅子に催促された。

 レオニクスは少女の話をどうにか信用してくれる。

 だから、あの黒い『』のことについても話すのはやぶさかではなかったが……


「……キミは……何を言っているんだ?」


「……いや、その……黒い……蜘蛛の足みたいな物が……こう……ぶわっと……」


 そもそも説明するのが難しいというのは盲点だった。

 レオニクスが首を傾げた回数は、二桁を超えそうになった時点から覚えていない。


「……まあその……仮称『黒蜘蛛』とやらが、お前の中にあり……それが身の危険が迫った時に襲いかかる……というのは理解した」


「……えと……大体そんな感じです……」


 レオニクスは理解に苦しんでいる様子だったが、詳細が不明だという点では少女も同じである。

 しかも、今回の例外が仮定していた情報を狂わせたのだから、何が正しくて何が誤りなのかなど、もはや知り得たものではない。


「とりあえずは了解しておく。その代わり、しばらくはボクの手の届く範囲からは離れるな。万が一が怖い」


「……わ、わかりました……ありがとうございます……」


 レオニクスが朗らかな笑顔を見せる時、それは『構わない』を意味していた。

 ぺこりと頭を下げたことで、自分の上半身が視界に映り込む。


 ――そして、ふとぎる。


「……あれ……?」


 改めて自分の今の状態を確認する。

 包帯は胴全体に丁寧に巻かれており、血汚れが少ないことから、何度か取り替えたのだろうと推測できる。

 しかし、それはつまり……


「……そういえば……この包帯って……」


「ああ、ボクが巻いた。そこまで重傷ではなかったが、一応な」


「……んですか……」


「ん? すまない、よく聞こえなかったんだが……」


「……見たんですか……っ!?」


 羞恥やら怒りやらが混在した何かが、少女の心の底からせりあがってくる。

 少女はその細い腕で己の胸部を隠す。そして、恩人へ向けるものとは思えない形相でレオニクスを睨んだ。


「見た……? ……はっ!? ま、待て違う、誤解だ!」


 レオニクスはあからさまに動揺していたが、それは本来少女のすべき反応である。

 解っている。レオニクスはあくまで少女の治療に専念しただけだと。

 しかしそれでも、越えてはならない一線乙女心というものが存在する。


「……責任……取ってください……」


「な、何を言い出してる……ッ!? ボクはただ治療に専念しただけだ! 断じてそんな不埒な考えはない!」


「……そ、そういう問題じゃありません……っ!」


 少女はこの時の感情を、永劫忘れることはなかった。

 ……忘れたくても、忘れられなかった。

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