第三章2 『無頼の裏切り』

「――人間をする生き物さ」


 背筋が一瞬で凍りついた。

 耳元で、そのの息が揺れる。


「これ以上は知っても無駄。言っている意味、解るだろう?」


 ――ああ、またか。


 少女は心ごと項垂うなだれた。

 彼は少女の空いた穴を埋めるではなかった。今にも崩れそうな程脆い少女を餌とする、でしかないのだと――


「……やめておいた方が……いいと思います……」


「……どういう意味だ?」


 一応は良心とでも言うべきものだろうか。

 たとえ相手が自分をかどわかし、陥れた存在だろうと、無益な殺生は無い方が良い。

 そんな単純な考えが及ぼした少女の言葉が、獣人の眉間にしわを作る。


「……私を殺そうとしたら……死ぬのはきっとあなたなので――」


 少女が言い切るよりも前に、獣人は腰の短刀を引き抜いていた。

 その刃は至極当然かのように、少女の首寸前で止まる――


「……全くもって反応できていないようだが……何故そこまで自信がある?」


 しかし、短刀は依然として獣人の手に握られていた。

 黒き『』は依然として、少女の内に潜んだままである。


「……殺さないんですか……?」


「……何なんだその返答は。……はぁ……全く調子が狂う……」


 獣人は威嚇に用いた短刀を腰に戻し、大きなため息を吐いた。

 元いた席に戻るなり、細くした瞳で少女を見つめる。


「お前の言動は全てが意味不明だ。それなのに、どれも嘘ではない」


「……どうして……わかるんですか……?」


「――、とでも言うやつさ」


 本来まかり通る筈のない根拠である。しかし、定期的に震える彼の耳が、その言葉に信頼性を孕ませる。


「ボクがあれだけ殺気を出していたにも関わらず、産毛の一本も逆立てないというのなら、耳を落とした獣人というわけでもなさそうだ。……お陰様で、少し面倒な事態にはなったが」


「……それは……すみません……」


 少女が謝罪すると、イケメンは再び大きなため息を吐いた。


「キミは……随分と気が弱いな。もっと活力的に生きる意志が無ければ、そこらの蛮族にでも喰われるぞ」


「……ば、蛮族……!? えと……気をつけます……」


 少女の言葉に、イケメンは朗らかな笑顔で返した。

 この様子を見るに、先程までの謎の敵意は既に消えたのだろうか。


「先程は脅かすような真似をしてすまなかった。入念な確認が必要だったんだ。許してほしい」


 その問いが少女の頭に浮かぶと同時に、イケメンは一呼吸置いて語り出した。


「ボクはレオニクス。呼びにくいようなら『レオ』で構わない」


「……あっ……五十州瑞香いぎすみずかです……」


 偽りだったとは言え、一悶着あった後の自己紹介にはどことなく違和感を感じる。

 だが、どんな形であれ一度言葉を交わした相手でならば、それからのコミュニケーションは比較的容易である。


「……あの……レオニクスさんは……どうして私を助けたんですか?」


「そんな大層な名分じゃない。帰路の途中、たまたま手が空いていたから、砂漠に落ちていた枯れ花を拾っただけだ。そんな衛生的じゃないもの、ボクはとても食べたいだなんて思わないな」


「……そう……ですか……」


 腑に落ちるようで腑に落ちない回答に、少女は無理やり頷いた。

 しかし、獣人が『人間を捕食する生き物』として紹介された以上、どうにも緊張が消えない。


「確か異世界から来たと言ったな。ならば、この世界についても説明が必要なんだろうが……既に日も暮れている。その辺りは明日にしよう。今優先すべきなのは……」


 レオニクスが数秒間顎に手を当てている様子を、少女は黙って見つめている。

 素振りの一つ一つから目が離せない。気絶していたところを助けてもらった恩人であるにも関わらず、警戒心が残留していることに申し訳なく思う。


「……『食事』と『風呂』、どちらを先にする?」


 少女は最初、何かの隠語かと耳を疑った。

 しかしその後、真っ直ぐな視線が少女を貫いていたことに気がつくと、感じていた警戒心ごと自分を殴りたくなった。


「……そ、そんな……悪いです……!」


「……ボクは別に困らないが? というよりもキミは人間だろう。ボク以外に頼れる相手がいるとは到底思えないが、それでもか?」


「……それは……ぐうの音も出ませんけど……でも――」


 瞬間、少女の腹部が轟いた。

 それは少女の言葉を華麗に遮り、雷鳴の如く絶大な衝撃を放つ。


「……出たな。


「……っ! やめてくださいっ!!」


 死にたい。消えてしまいたい。

 今までそう思うことは何度もあったが、今回ばかりはベクトルが違う。これ程の羞恥心に苛まれたことはない。

 咄嗟に伏せた顔を戻せる気がしない。

 きっと真っ赤にのぼせて、見せられたものではなくなっている。


「では、食事からで構わないな? 座って待っているのが嫌だったら、外の空気でも吸って――」


 鼻で笑うレオニクスが言い切る前に、少女は飛び出していた。

 紅潮した顔に夜風を当てて、無我夢中で冷ます。

 次に顔を合わせた時、『気絶していた女』や『腹を鳴らした女』といった最悪の第一印象を払拭するために、まずは思考回路のクールダウンを行わなければならない。

 壁の無いあの家屋から見えない程度に離れた所で、深く息を吸い込んでは吐き出す。

 一応は森の中であるためか、どことなく新鮮さを感じるような気がする。


「――あのぅ……そこのお嬢さん……」


 落ち着きを取り戻す寸前の所で、唐突なしわがれ声が少女の背筋を震わせた。

 いつの間にそこに居たのか、少女の背後には、丸い背中にボロ布のローブを纏った人物がいた。

 低身であるために、少女の身長でもフードに隠された顔を視認できない


「すまんが……道を教えてはくれぬか……? 迷ってしまってのぅ……」


「……み、道……? ……あっ……た、多分詳しい人を知ってるので……その人の所まで……案内しましょうか……?」


「ああ……すまないねぇ。よろしく頼むよ……」


 恐らく老翁だろう。

 道に迷うのも、おかしな話ではない。


 ――そう納得し、背を向けてから事の『奇怪』さに気づく。

 『夜遅く』に、『老翁』が、『森の中』で、『道に迷う』。要素のどれを取っても違和感の塊だった。

 そして何より、声をかけられた瞬間に疑問を持たなかったことが不思議でならない。


 ――人間をする生き物さ。


 レオニクスの言葉を思い出し、身の毛がよだつ。

 その時を再現するかのような、全く違わない背筋の凍り方だった。


 だからこそ、際立つ。

 少女の目の前で、月光の作り出した影が

 高く、太く――次第に少女の小柄な影を包み込む。

 かつて丸い背中のシルエットだったそれは、筋骨隆々の巨大な影へと変貌していく。

 頭頂部に、大きな三角形を二つ添えて――


「人間はもう喰われちまったと思ってたんだがなァ……? だがまあ、運良く生き残ったマヌケでも、馳走なことには変わりねェ!」


「……ま、待ってくだ――!」


 巨大な影が太い腕を振り上げたと同時、少女も咄嗟に振り返った。

 そして映る、二足歩行の虎狼。三メートルは余裕で越える身長と、逞しく獰猛な四肢。

 丸太のような腕の先には、猛獣を象徴せんばかりの鋭い鉤爪を煌めかせている。

 槌を打つかのように、その鉤爪は垂直に少女へ迫る。


 ――止めることができなかった。


 レオニクスと違い、この獣人はまさしく『獣』であり、言葉を交わす気など毛頭無かった。

 を覚悟する。もう間もなく訪れる、この獣人のを――


 無意識に瞳を閉じた瞬間、そのはやってきた。

 胸の奥から、気色悪く這い出てくる。あの――


「………………えっ…………?」


 ――


 少女が見たものは、獣人の死体でも、あの黒い『』でもなかった。


 ――


 飛散したが、月光を乱反射して宙を舞う。

 獣人の鉤爪は、少女に三つのを刻んでいた――

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