第二章11 『顕現する絶望』

「……グアンあなた!」


 レイの助言通り、少女とヒカリは帰路に就いた。

 そして玄関の扉を開くと、ヨサメはその言葉と共に二人を迎えた。

 しかし、その目的の姿が見つからなかったヨサメは、再びげんなりとした顔で踵を返した。相変わらず二人の目を見もせずに。


「ママ聞いて! さっき、アサヒとレイとメイにお願いしたら、パパを探してくれるって! だからもう大丈夫だよ。ね、ミズカ?」


「……う、うん。……だから、その……安心して……ください……」


 覇気も無く歩く背中に、二人は語り掛けた。

 しかし、熱心に励まそうとする二人とは対照的に、ヨサメはその重い足取りを止めようともしない。その様子は、二人の声が一切届いていないようにすら思えてしまう。


「ねえママ! 私たちだって、パパのことが心配なの! でも、いつまでも立ち直れずにいたってしょうがないでしょ!? だからママも――」


 ヒカリのその強い訴えは、突如振り返ったヨサメの掌によって遮られた。

 全くもって容赦の無い鋭い一撃がヒカリの頬を打ったと同時に、衝撃のあまり思考が止まる。

 打たれた本人も、何が起きたのか理解していない様子だった。


「――あなたたちに何が分かるのよっ!! 、あなたたちにっ!!」


 ヨサメの怒号が、二人の耳を劈いた。


「……ママ……?」


「全部あなたたちのせいじゃないっ! あなたたちが『深夜』に……外に居たからっ!!」


 ヨサメは言葉共にヒカリの肩を突き飛ばし、リビングの方へ大きな足音を連ねていく。

 ヒカリは無我夢中でその背中を追いかけた。ただ母親まで失いたくない気持ち一心で、自分のされた仕打ちに気づこうとしなかった。


「ま、待ってママっ! ごめんなさいっ! ごめんなさいっ!」


 ヒカリは泣きじゃくりながら母親の裾を掴むも、乱暴に振り払われ壁に背中を強打する。

 少女は咳き込むヒカリに駆けつけるも、ヨサメの動向に悪寒を感じていた。

 ――彼女が向かった場所は、だ。


「パパに会いたいでしょ……? 私も一緒に行ってあげるわ。抵抗なんてしないわよねぇ!?」


 台所から出てきたヨサメの手には、彼女が愛用していた包丁が握られていた。

 言わずとも解る。数秒後には、その刃が突き立てられる。


「――待ってっ! やめてぇっ!」


 ヒカリの呼吸は乱れ、過呼吸が手足を震わせる。もはや立ち上がることもできないヒカリは、最後までヨサメの虚ろな目に訴えかけていた。


 ヨサメを止めることができなかった。

 言葉を挟むことさえできなかった。

 自分の弱さを、改めて痛感する。

 しかしそれでも、守るべき存在がいる。

 私を暗闇の底から救ってくれた

 私に幸せを教えてくれた

 これからもそばに居続けたい、大切な


 ――彼女は、私のだから……!


 憤怒の刃が振り翳されたと同時に、少女はヒカリを庇う。

 直後に訪れたのは、命が弾ける音――


「……ミズ……カ……?」


 ヒカリの声は震えていた。でも良かった、彼女は生きている。

 死を覚悟した。しかし、瞑った瞼越しに目の前の景色が見えてしまった。

 あの感覚だ。自分の内に潜んでいた黒き陰による『過剰防衛殺人』の感覚――


「…………何で……ママ……? ……どこ……? ……ねえ……!」


 寸前まであった母親の姿は、上半身を捨てたマネキンへと変貌した。

 既視感を覚えた侵食する鮮血。ヒカリはその中で懸命に母の姿を探していた。


 ――どうして……?


 知らない。こんな惨劇は知らない。視界に広がるこの真紅は一体何なの?

 こんな筈じゃなかった。違う、違う。こんな結末は望んでない。

 やめて。やめて……! そんな目で見ないで……


 ――ヒカリ……ちゃん……


「……ミズカ……? ……ねえ……何で? 何で? 何でなのっ!?」


 ヒカリの瞳から零れ落ちた透明の混沌に、返り血に塗れた少女が映った。

 紛れも無い人殺しの姿だった。腕に、脚に、衣服に、頬に……上半身一つ分の血液は、それら全てに飛散しても余りある。


「……ち、違うの……! ……こんな……つもりじゃ……」


「こんなつもりって何!? どんなつもりよ!? 何でママを……ママを殺したの!?」


 ヒカリは当然、少女の事情を知らない。ヒカリを護るという選択をした時点で、既にヨサメの死が確定していた。

 少女はヒカリを死から遠ざけたと同時に、死よりも辛い現実を彼女に突き付けたのだ。


「……ごめん……」


 黒き殺人鬼を内に飼ったまま、その事実を伏せていたのは自分。

 ヨサメに死を齎したのも自分。

 その結果ヒカリから笑顔を奪ってしまったのも、全て自分。

 謝罪以外に、ヒカリに掛けて良い言葉はどこにもない。


「……出てってよ」


「……ヒカリ……ちゃん……」


「――出てってよ! 早く出てって! どっか行ってっ!!」


 当然の話だろう。

 寧ろ、親の仇への罰を追放だけで済ませるのは、ヒカリの優しさと言っていい。

 取り返しのつかないことをした自覚はとうにある。


「…………ごめん……」


「……どうしてなの……何でこんなこと……!」


 ヒカリの涙が血溜まりに何度も波紋を作っていた光景は、玄関の扉を開いても尚、少女の頭から離れようとしなかった。

 少女に行先などない。それでも、彼女のためを想うならば、今すぐ遠い所へ消え去らなければ。

 血みどろの服を着替えている暇など無い。

 とにかく今は……


 ――誰もいない……どこか遠くへ……


 玄関の戸を半ば乱暴に開き、少女は無我夢中で走り去る。

 行くあてなどいらない。今一番助けが欲しいのは自分じゃないのだから。


 ……人殺しの私は……もうヒカリのそばには居られない……


「――ちょちょちょ、待て待て待て!! ミズカ……だよな!? お前……一体何が……」


 綿密な計画を立てたわけでもない。誰かしらには見つかってしまうだろうとは予期していた。

 しかし、第一発見者がアサヒだったのは、あまりにも都合が悪い。


「ヒカリはどうしたよ!? というよりそれ……血……だよな? なあ、何があったか教えろって!」


「……私が……全部悪いから……」


 あの『深夜』に、両親を探しに行こうとしたヒカリを止めていれば。

 あの怪物と対面した時、すぐに走って逃げていれば。

 非は無限に見つかる。何を相談したところで、既にアサヒが解決できる問題ではないのだ。


「……わっけわかんねえ! いくら俺がバカだからって、そんな格好で誤魔化せると思うなよ! ……正直に言ってくれって……!」


 きっとアサヒは引き下がらない。そういう性格だ。

 彼に捕まってしまった時点で、時間を食うことになるのは確定していたのだろう。

 それならば、潔い方がいい。


「……私が……ヨサメさんを……殺しました……」

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