第二章9 『尚早』

「ぜっ……絶対! 手、離さないでね!?」


 一寸先は闇、とは言ったものだが、体感は一寸どころの話ではない。

 ヒカリが手振りランタンを二人の間で掲げているため、辛うじてまだ互いに互いを認識できる。

 胴より下さえまともに見えない今、頼りなのはヒカリの柔らかな手のみである。


「パパー! ママー! ……もう、本当どこにいるの……!?」


 ヒカリの呼び声は、静かな暗闇の中によく響くが、暗闇は最終的に静寂を返す。


「私たち、知らない内に迷ってたりしないよね……?」


「……ま、真っ直ぐ歩いてるから……そんなことはない……と思うけど……」


 ――そう言って何となく、見えるはずもない来た方向を振り向いただけ。


「……ヒ、ヒカリ……ちゃん……」


 本来ならば、少女にとっては特段珍しい景色でもない。


「な、何? そんな震えた声で言われると、私まで怖く……」


 不気味な夜闇の中に、遠く光る青いを見つけただけ。

 ただし、それは二人の頭上ではなく、歩いてきた方向にあった。

 この世界には、太陽も星もない。ましてやそれが水平に並んでいるなど言語道断である。

 それが星ではないと気づいたのは、次にその青い光が揺らめき始めた時だった。

 上下左右に、微量ながら振動している。しかも、徐々にその青い光は大きくなっていく。

 探偵でなくとも、その場に居合わせた二人ならばすぐに理解しただろう。


 ――光がこちらへ近づいていると。


 二人は一目散に駆け出していた。

 光の正体が何かなど、皆目見当もついていない。

 しかし、無意識に二人の足を動かせるだけの恐怖を、『深夜』は孕んでいたのだ。

 無我夢中で闇を掻き分ける。道は見えない。壁も見えない。いつ行き止まりに直面するか定かではない。

 それでも走らなければ。得体の知れない脅威から逃げなければ。

 息はとっくの前に切れているにも関わらず、少女とヒカリの繋がりは絶たれない。


「……はぁっ……はぁっ……もう……駄目……っ!」


「ミズカ走って! あの光……まだ近づいて来てる……!」


 少女の言葉は決して弱音などではなく、真に限界の伝達だった。

 ヒカリが手を引く以上、止まることは許されない。その一心で、痛む脚で必死に地を蹴り続ける。

 ただ、その意志が揺らぎそうになる程、例の青い光はいつまでも執拗に追いかけてくる。先程よりも一回り以上は大きい、その光が。


「……ミズカ……私……もしかしたら天才かも……しれない……」


「……はぁっ……はぁっ……ど、どういう……こと……?」


 少女がヒカリにそう尋ねると、ヒカリの走る速度は徐々に落ちていき、脚への負荷が少なくなるよう自然に停止した。手を繋いでいた少女も、自ずとその動作を再現した。

 少しの間息を整える時間を設けた後、ヒカリはその詳細を話し始めた。


「私たちが外に出た時間、覚えてる? 確か二時半、つまり、きっとあと少しで三時ってこと」


「……それって……じゃあ……『深夜』は……?」


「そう! あの光の正体が何であろうと、『深夜』さえ終わっちゃえばこっちのもの。それにね……私、もしかしたら……と思って……」


 ヒカリは怯える少女の身を寄せつつ、ランプを青い光が迫って来る方向へ構える。

 既に光の大きさは倍かそれ以上にまで膨れ上がっていたが、今度はその揺らめきに併せて足音が聞こえ始める。

 確かに地面を踏みしめて駆ける音。次に聞こえてきたのは荒い吐息だった。そして、最後に聞こえた音は、同時に光の正体を明らかにした。


「――ヒカリ!」


 ドスの効いた野太い声。その声は聞き覚えがあった。

 きっとその声が笑う時、持ち前の豪快さで小さな悩みなど簡単に吹き飛ばすのだろう。


「……パパ……!」


 ヒカリは目の前のグアンに勢いよく飛びついた。グアンもヒカリの背中を優しくさすっている。

 その後ろには、グアンに比べてかなり息が上がっていたヨサメも立っていた。

 この感動の一部始終を見られたのは、グアンの持っていた青いライトのお陰だった。人目見て分かる桁違いの光の強さは、『深夜』専用とでも言わんばかりに煌々と輝いている。


「そこにいるもう一人は……やっぱミズカか。……まあいい。色々と聞きたいこともあるだろうが、とりあえずは早く家に――」


 グアンはそこで口を閉じた。

 いや、閉じていない。口を開けたまま、言葉を失っていた。

 それは後ろのヨサメも同じだった。二人揃って、少女の背後を見つめている。

 その様子にいち早く気づいたヒカリも、二人と同じ方向を見て唖然とした。


「……ミ……ミズカ……う、後ろ……」


 わざわざ言われずとも、少女は既に気づいていた。

 振り向かずとも解る。禍々しいような、忌々しいような、人を不快にせんばかりの雰囲気のみが、少女の背後に漂っている。

 寧ろ振り向けない。そこにある『何か』を認めるのが怖くて堪らない。

 脚もまるで動かない。疲労とは一切の関係も無く、地面に鉄パイプの糸で縫い付けられたかのように、微量も動くことができない。

 ただ、頭のみが働いた。


 ――これ以上無い危険が、すぐ後ろに迫っている。


「お前らァ!! 逃げろォ!!」


 次に瞬いた時、少女はヒカリのいる方向へと吸い込まれていた。

 ヨサメは少女の手を取って先行し、ヒカリもすぐに追いつくとヨサメのもう片方の手を握った。

 少女が直前に見たものは、主に四つ。


 掛け声と共に、少女をヨサメとヒカリの方へ投げ飛ばした勇敢なグアンの姿。

 酷く怯えた表情で、少女の手を引くヨサメの姿。

 最後まで涙声で「パパ」と叫んでいたヒカリの姿。


 ――黒よりも黒く、闇よりも暗い巨体が際立たせていた、大きな赫き単眼の『何か』の姿。

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