第二章2 『深淵を照らす光』

「はぁ……はぁ……ギリギリ、セ〜フ! ミズカはここでちょっと待ってて、パパとママに軽く説明してくるから!」


 ヒカリは少女を気にかけつつ、すぐに息を整えると、そのまま家の奥へと歩き去った。

 そんな少女はというと、両膝にそれぞれ手を着き、都度痛みを伴う呼吸に苦しんでいた。

 相も変わらずたかが数十メートルのダッシュでここまで疲労できるのは、ある意味才能である。

 しかし、そんなことよりも少女の頭に一つの不安が過ぎる。


「……パパと……ママ…………人間、だよね……?」


 当然だと思っている事象が、必しもそうとは限らない――『異世界』というものが、現実と『異』なる『世界』たる所以はそこにある。

 早く整えたいと願う少女の呼吸がいつまでも整わないのは、このせいでもあったのだろう。


 しかし、それはどうやら余計な心配だった。


「ミズカ〜、今日泊まっていいってさ〜!」


 元気良く小走りで駆けつけたヒカリの背後から、遅れてやってきた両親の顔がこちらを覗いていた。


「あらヤダ、本当に同じくらいの歳の子……帰る場所が無いんですって? 可哀想にねぇ……」


「今晩に限らず、行くアテが見つかるまではずっと居てもいいぞ〜。まあタダでとはいかねえがな。ガッハッハッ!」


 心配そうに見つめる人間の母親と、楽観的な性格なのか、豪快に笑う人間の父親。少女の心の中で強く縛られていた安心が弾け飛んだ。


「ちょっとパパ!」


 ヒカリが父親を鋭く睨みながら喝を入れると、父親は咥えていた葉巻を他所へ吹かした。


「無理言うんじゃねえ。お前みたいなのがもう一人増えるとなりゃ、こっちだって相応の労働力が必要になる。誰だってお構い無しに泊めてやれるほど、ウチは裕福じゃねえんだぞ〜?」


 それを聞いたヒカリは、両頬に空気を溜め込んで、絵に描いたような半開きの目を父親に差し向けた。

 しかしその直後、父親は「だがまあ……」と再度葉巻を吹かした。


「んな細い身体じゃ、重労働なんざ到底無理だろうな〜。お前が家事なり畑仕事なり、しっかり叩き込めよ〜」


 ヒカリにそれだけ告げると、父親は来た方向へと帰って行き、そのやり取りを傍観していた母親もクスクスと微笑むと、父親の背を追った。


「――だってさミズカ! 家の中、案内するね! 外は今は危ないから明日の朝! じゃあまずは……えーっと……そうだ! 私の部屋、行こ!」


 息が漸く整ったと思ったのも束の間、再び少女の腕はヒカリに掴まれ、廊下を駆け出していた。

 途中階段を駆け上がったために、部屋に着いた時の疲労は肺よりも脚によく響いていた。


「とうちゃ〜く。それじゃあこれから、ヒカリちゃんのルームツアー開始しま〜す! まずはこちらの……」


 告げなくてはならない。私は不幸を呼び寄せる、と。

 断らなければならない。私にこれ以上関わるな、と。


 解っている。心はこれ程理解しているのに、どうしてこんなに胸が痛い。

 疲労の痛みと勘違いしているだけなのだろうか。いや、違う。

 私はきっと、葛藤しているんだ。

 ならば、どちらかに必ず答えを決めなければならない。このまま目を背け続けるなど、一番の罪だ。


「――ねえミズカ〜? 聞いてる〜?」


 ふと意識を外に戻すと、小さなテディベアの背中で頭を隠し、その小さな両腕を忙しなく動かして、あたかもテディベアが喋っているかのように演出するヒカリが目に映った。

 そう、彼女はこんなに純粋な人なのだ。ならば……私は……


「――ごめん……なさい。……一緒には……暮らせ……ません……」


 その時、テディベアの背後から切なげな顔が俯く少女を見つめていた。


「……どうして……なんて聞くのは、きっとデリカシー無いよね。……ごめん」


 彼女のその顔を、少女は見ることができなかった。

 声の調子だけで、既にギチギチと音が聞こえてきそうな程に胸が締め付けられている。


「……私は……誰とも関われない……関わっちゃいけないんです……だから……」


「――何それ……!」


 次の瞬間、少女の両手が強く握られた。その握る強さからは、ヒカリの感情がそのまま直に伝わってくるようだった。


「私がいっちばんキライな生き方! 自分の本当の気持ち無視して、人のため世のために生きようとするの、全っ然気に入らない!」


 怒鳴るヒカリに気圧され、思わず顔を上げると、彼女の優しさが潤んだ瞳と目が合った。


「私さ……小さい頃は孤児だったんだ。その後パパとママに出会ったんだけどね。それで、孤児だった頃の不自由な暮らしが大っキライだったから、これからは自分の好きなこと、やりたいことをた〜くさんやって、悔いの無いように生きようって決めたの」


 ヒカリの切なげな表情は、いつの間にか微笑みに変わっていた。


「そうしたら、いつか死んじゃう時も、今まで楽しかったからいっか、って笑えそうな気がしない? 人生は一度きりなんだよ! イヤなことばっかりの人生なんて、絶対ダメ!」


 ヒカリの言葉は、少女の境遇からすれば皮肉そのものだっただろう。

 しかし、それを上回る大きな想いが、彼女の瞳から、声から、そして掌から伝わっていた。

 故に、少女は確かめようと思った。


「……ヒカリさんは……それでも私が出ていくと言ったら――」


「――絶対止める。イヤだもん」


 その時少女は、真の意味でヒカリと向き合った。

 首元までに切り揃えられた、照り輝く金色の髪。

 見つめるだけで穏やかな気持ちにさせられる、淡いライトグリーンの瞳。

 そして、少女の複雑な心を優しく包み込んだ、柔らかな手。

 今まで知り得ていたはずのそれら全てを、この瞬間初めて知った。


「……分かり……ました。……なら、今晩はとりあえず……」


 少女は慣れない微笑みを見せると、ヒカリは対照的に太陽のような眩しい笑顔を返した。

 今晩はとりあえず……などと少女は言ったが、これは少女の内気が露呈しただけであり、既に少女の本当の心は決まっていた。


 それよりも、少女はやらなければならないことがある。

 今後共に暮らす彼女と――闇に沈んだ心を照らしてくれた恩人と、少女はを結ばなくてはらない。

 共通の話題や趣味なんかはこれから時間をかけてゆっくりと……


「じゃあルームツアー再開だね〜! を家に招いたの久しぶりすぎて、実はちょっと緊張してるってことは、分かってても言わないでね?」


 何の気なしのその一言は、少女の知る常識を一瞬で消し去った。

 同時に、今までの自分が馬鹿らしく思え、気づけば少女は笑みを思い出していた。


 その日、で、その家はいつまでもが絶えなかったのだった。

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