第一章終 『すくう者』

 ――肉が穿たれ、裂ける音。勢いよく液体が繁吹く音。

 凡そ数秒の後で、部屋は沈黙に包まれた。

 既に充満していた血腥ちなまぐさい臭いは強烈さを増し、それだけで情景が脳裏によぎる。


「………………あ……れ……?」


 慎重な五感の確認は、少女にそのを伝えた。

 封印していた視覚を解放すると、ぼやけた視界のまま、真っ先に自分の胸に突き刺さる黒い棒状の物体を確認する。

 しかし、痛覚――胸には何の痛みも伴っていない。

 そして、視界が鮮明になるにつれ、より詳細な情報が直接少女の脳に送り込まれてくる。


 ――出血をしていない。キーラの両親の返り血により、衣服の一部は紅く染まっているが、胸部はその例から漏れていた。

 更には、目を凝らして見るほど、突き刺さっていたのだと思われた棒状の物体に違和感を覚え、それはまるで少女のしたもののように見えるのだ。

 指先以外は至って健康体の少女は、その棒状の物体を自然と目で辿っていた。


「…………あがっ……はっ……はぁ……」


 その時の光景は、少女の瞳には果たしてどのように映ったのだろうか。


 ――貫かれたのは自分ではなかった。蜘蛛の足のように屈折しうねくる黒い棒状の物体が、キーラを胸を貫いていたという真実。


 少女の想いに呼応するが如く、は現れていたのだ。


「……嘘……嘘……だ……」

 

 少女は死を望まなかった。それは、自分の命のみにならず、キーラとその両親の命もまた同様に。

 先に少女に訪れたのは、本来自分を貫いていたはずの石槍が、柄から穂にかけていとも容易く破壊されていることによる安堵ではなかった。

 正当防衛という都合のいい理由で、徒に三人の命を奪ってしまったことの後悔である。

 少女は決して、元来人の命を重んじずにはいられないというほど、特別優しいわけではない。

 ただ、この血に塗れた部屋と、親孝行を尽くした女の子の悲惨な姿を目の前にして、後悔せずにはいられないだけ。


「…………ぱ……ぁ…………まぁ……あ……」


 謎の黒い『』は、瞬時に少女の内に収納された。

 凶器が身体から抜けた反動でキーラは血塊を吐き、くり抜かれたように空いた胸の穴をそのままに倒れ込んだ。

 そこから数秒、少女もキーラも、寸分たりとも動くことはなかった。


「…………違う……違う……違う違う!」


 頭を抱え、現実から目を背けるように少女はうずくまった。

 どうにも少女の『生きる』という行動には、とても重い代償が付きまとうらしい。

 自らが苦しい思いをするか、相手に苦しみを与えるか、そのどちらかを必要としてしまう。

 今回少女が行ってしまったのは、まさに後者――少女が前世、拒絶し続けた存在と何も変わらない行動である。

 たとえ相手が、自分を捕食しようとした者であろうと、槍で貫こうとした者であろうと、その命を奪い、のうのうと『生きる』ことを選んだのは少女だった。


「……はぁっ……! ……はぁっ――!」


 自分の膝で口が塞がっているにも関わらず、荒い呼吸が治まらない。

 は、少女の意ではないにしろ、少女の意を代行した。

 だからこそ、少女には自分の罪の所在がどこにあるのか分からなかったのだ。

 過呼吸により、次第に頭は霧がかかるように思考できなくなり、暗闇を映す瞳も曇り始める。

 いつの間にか身体が横に倒れていたことに少女が気づくまで、そう時間はかからなかった。


 ――そして偶然か否か、曇る視界にぼんやりと、しかしはっきりと、キーラの持っていた石槍の穂が映った。

 冷静を欠き、まともな思考ができない今の少女は、に意味など求めなかった。

 ただ、無意識の意志で、その穂を手に取っていた。


「……はぁっ……はぁっ……!」


 切腹する武士の如く、穂の尖端を自身に向ける。

 償いというわけでも、自暴自棄というわけでもなく、何となくそうしなければならない気がした。

 自分は加害者かどうか、その判断は未だついていないが、自分の存在がこの事件の原因である以上、その使命を感じた。


 震える手先を少しでも落ち着かせ、心臓部をよく狙う。

 決意を固めた時の少女には、とても考えられない行動だろう。このまま死ぬのが嫌だった、普通に生きてみたかった。

 その願いが生んだ結末が、これである。


「――ッ!」


 その決意を思い出す前に、少女は穂を引いた。

 自分の人生を、これで終わらせるべきなのだと、その瞬間だけは迷わなかった。

 その後に確実に悔いることになるだろうということも、頭のどこかで理解していた。

 これでいい、これでいい、と何度も言いつけて、無理やり手を動かしたのだ。


 ――少女は少女の人生に、幕を下ろした。


「……………………」


 そこから、暫く少女は動かなかった――動けなかったのだ。


「…………どうして……なの……」


 少女の想いに反発するが如く、は現れた。

 既の所で、物体は穂に絡み付き、そこからの進行を許さなかった。

 力を込めて引き寄せることが、ただの徒労に過ぎないと気づくまで、ものの数秒。

 少女の意で発動したそれが、今度は少女の意に反したのだ。

 少女の身体から、力という力が抜けていくのが、ひしひしと伝わってきた。

 穂もどこかへ落とし、絶望に暮れる。この絶望も、どこか懐かしく感じた。


「……もう……どうしたら……私は……」


 どうしようもない、という考えは、少女の心を軽くした。それは決して良い意味ではない。

 立ち上がり、三つの死を横目に部屋を出る。そして、目に入ったのはあのテーブルと椅子。

 そのテーブルの片隅に、いつの間にか外されていた淡紫のヘッドホンが寂しそうに放置されている。


 ――この世界にも、自分の座る席は用意されていない。


「……ははっ……はははっ……」


 込み上げてきた笑いは、乾いていた。

 自分の現状が、可笑しくて可笑しくて堪らない。

 絶望して、希望を見つけて絶望する。

 何と波のある贅沢な人生だろうか。

 こんな自分には余りある……それはそれはな人生――


《今期の世界を終了します》


「――えっ……?」


 自分を前世から救ってくれた、懐かしいシステム音声だった。

 同時に、自分をこの世界に陥れた、無機質な諸悪の根源……


 ――と、認識した瞬間に、少女の首は熱を帯びた。


「……あ……つ……」


 熱の原因を探ろうと、首元に手を持っていく。

 ――つもりが、次に瞬いた時には床に倒れていた。


「…………ぇ……?」


 声が出ない。腕が動かない。頭もまるで働かない。

 何も分からない。分からない。分からない分からない分からない。


 薄れゆく意識の中、映った景色には、飛び散る鮮明な血色と、小さな女の子の姿があった。


 ――ああ……私、死ぬんだ。


 そう思った瞬間、何だかとても楽になった気分だった。

 人生をやり直したい――そんな考えが、そもそも間違っていたのだろう。

 異世界に転生したからといって、そこに幸せな人生が待っているとは限らない。

 どうして気づかなかったのだろう……なんて考えるのも、もう無駄なんだ。

 来世は……幸せな人生が――


《異世界転生を開始します》


 ――冷酷な機械音声は、少女のそんな願いを蔑ろにする。

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