第一章6 『慟哭する少女』

「こ、来ないで……!」


 必死に両手で背後をまさぐるが、二体の化け物はもうすぐそこまで来ていた。


 ―― アァアァ……アァアア……ァァ……ァアァアア……


 ――オォオォ……オォオオ……ォォ……ォオォオ……


 延々と嗄声を繰り返す二体の化け物は、当然少女の声を聞き入れることなどなく、徐々にその蕩けた身体を近づけてくる。


「……どうして……! ……どうして……なの……」


 転生してもなお、どうして自分に不幸が訪れるのか。

 しかも、普通に死ぬよりももっと恐ろしいことがきっと行われようとしている。


 流す涙こそ覚えていなかったが、少女は泣いた。

 呼吸を小刻みに震わせ、啜り泣いていた。

 そんな少女の様子を見ても、化け物達は止まる気配が無い。

 凡そ、獲物が鳴いているだけにしか見えていなかったに違いない。


 ――ォオ……ォオオ……オォ……ォォ……


 ――アアアア……ァァ……アァァァア……ァアァアァ……


 少女は紐を解くのを諦め、全身の筋肉が弛緩する。

 同時に、捕食範囲まで近づいた化け物達は、その頭部が横に裂け、捕食器官が顕になった。

 それぞれ垂れ下がった少女の両腕に這い寄り、歯の無いその口で噛み付く。


 ――瞬間、痺れるような痛みが少女の両腕を襲った。

 しかし、少女からは苦しみ悶える声の一つも上げられない。

 焼かれようと切られようと、腕の皮膚の表面が溶かされようと、全て少女にとって無意味なことなのだから。


「…………どうして……?」


 少女は思い出した。

 何故痛みが少女にとって無意味なのか。

 何故腕が溶かされているのに、何も思わないのか。

 そして、何故この世界に転生したのか。

 その全ての原因は、少女にいつも痛みが、苦しみが、不幸が付き纏っていたから。

 その苦痛を全て取り払って、『新たな人生』を始めるために、元の人生を捨てた。

 なのにどうして、この変わらない現状を良しとするだろうか。

 自身の心の本音に気づいた少女の瞳には、漸く浮かぶ一雫の想いがあった。


「――嫌だ……!!」


 重い想いを言葉に乗せ、瞳に溜まった涙を瞼で切り落とす。

 即座に瞬き、目の前の困難に立ち向かうべく、その瞳にも想いを宿らせたその時だった。


 ――飛び散る血潮と肉塊。いつもよりゆっくりと見えた光景にも関わらず、理解はいつまでも追いつこうとしなかった。


「――えっ……?」


 固まった首を無理やり動かすと、自分の腕に食いついていた化け物達がいないことに気づく。

 僅かに腐食している両掌の背景に、紅の水面が延々と広がる。


「……何が……起きて……」


 あまりの驚愕により涙は自然と止まり、視界はより鮮明になる。そして、時間をかけた末に理解した。

 たった今、一人の女の子の両親が死んだ。

 キーラの知らない所で、最も大切であろう二人の命が失われた。

 言葉の通り、瞬く間に。


 爆発したかのように散乱する肉片は、僅かにまだ揺れている。

 そして、少女の衣服や手足にまで、その血は及んでいた。


「……私が…………殺した……の……?」


 脳が考える前に、意識の外で言葉が紡がれていた。

 その答えは、あり得ないにしろ明確なものだった。

 思考が巡れば巡るほど、少女の腐食した指先が震え出す。

 化け物に襲われ、抵抗が不可能だったのは少女。

 しかし同時に、化け物を殺すことのできる動機と可能性を持ち合わせていたのもまた、少女なのである。

 だがどうして少女は化け物を殺せたのだろうか。

 少女はただ、決意を胸に瞬いただけなのに――


「…………パー……? ……マー……?」


 その言葉と同時に、石槍が床に落ちた。

 少女が今最も会いたくない存在が、部屋の扉を開いて佇んでいたのだ。

 この時のキーラの瞳に、一体何が映っていたのか、少女には想像もできない。


「……ち、違うの……! ……わ、私は……違う……」


 その言葉は何を訴えたかったのだろうか。

 保身か、説得か、少女も分からないまま、ただ否定をした。


「……パー……! ……マー……! ……どこ……いったんだよ……!」


 目の前の現実を受け入れられないキーラは、何度も何度も、両親を呼ぶ。

 その気持ちに相反して、キーラの瞳からは涙が零れ始めていた。

 少量に抑えていた涙は、徐々に量を増す。


「ぱぁぁ――!! まぁぁ――!!」


 声も震え始め、身体が崩れ落ちる。

 哭するキーラの精神は、既に限界を迎えていた。

 そんな泣き崩れるキーラを、少女は見ていることしかできなかったのだ。


「…………私は……何を……」


 両親を、自分が最も愛していた二人を同時に失った悲哀など、少女には黙って想像することしかできず、理解はできなかった。

 とにかく哭泣するキーラの姿を、痛ましく思うばかりである。


「――なんでぇっ!! なんでころしたぁ!!」


 肉塊の一つを握り、キーラは鋭い視線を向ける。

 二つの意味で、その怒声は少女の耳を痛めた。

 自分にも分からない。状況証拠が語る限り、自分が殺したに違いないが、その殺害方法も、殺害の瞬間も、何も分からない。


「…………ごめん……分からない……」


 謝罪をして、目を背ける。

 涙を流しながら怒りを曝け出すキーラの眼を見ることなど、少女には到底不可能だった。


「……ゆるさない!! ぜったいにゆるさない!!」


 瞬時に床に落としていた石槍を拾い、照準をこちらへと合わせる。

 その動きに、一切の迷いは無かった。


「――ま、待って! ……やめてっ!!」


 しかし、少女は要求を無視して投げられる石槍の先端を見てしまった。

 自身の身体を貫く瞬間を、視覚の遮断によって反射的に拒絶する。


 ――そうして鳴り響いた凄惨な音の後に、部屋には静寂が訪れた。

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