第一章5 『それは、受胎の家』

「――ひっ!! ……な、何……これ……!」


 少女が部屋を開いて見たもの、それは、薄明かりに照らされ、蠢く紅梅色の『何か』だった。

 全長凡そ二メートル程の半固形の身体は全てが紅梅色で、手足の所在は不明。頭部らしき物が、その紅梅色の塊から唯一突起しているが、目も鼻も口も見当たらない。


 ――アァ……ァァ……アアア……


 その『何か』は嗄声のような音を出しながら、こちらの様子を伺っているような気がした。

 今感じているのは恐怖なのか軽蔑なのか、どちらにせよ少女にとって不快そのものだった。

 しかし、すぐにその場を離れることができず、ただ手足を震わせたまま佇んでいた。


「――ちょうどいいとこにいたな!」


 ――突如聞き覚えのある声が背後から響いた。

 しかしその瞬間、少女の後頭部には鈍い痛みが訪れた。

 そして、痛みを痛みと理解する間も無いまま、少女はその場に倒れ込む。意識が霞み、視界は次第に闇へと変わる。


……まだたべちゃ、だめだぞ?」


* * * * * * * * * * * * *


「……おーい、瑞香みずかちゃん? どうしたの? 食欲無い?」


「……腹の調子でも悪いのか? ……キーラ、なんか知ってるか?」


「んぁ? オレはなんもしらないぞ?」


 気づくと、少女は椅子に座っていた。そして、目の前には変哲の無い食事が用意されており、辺りには三人、キーラと、男女二人がいる。


「……もしかして、食べたくない? 嫌だったら、無理しなくてもいいのよ?」


「……あっ……いや……」


 並べられた食事と、少女の表情を伺う三人の光景は、少女が望んだ理想の未来だった。同時に、少女が忘れようとしていた過去とも酷似していた。

 しかし、「どうして自分は食事をしているのか」という疑問が少女の脳裏を度々よぎり、この状況を完全に受け入れることを許さない。


「…………違う……」


「そう! なら良かった! ゆっくり食べていいからね?」


 キーラの母親と思しき女は、確実にこちらに笑顔を向けている……かのように見えた。口元から上、顔の上半分が何故か知覚できないため、口角の上がり具合のみが、表情の判断材料である。

 そして、それは女の向かいに座っている父親らしい男も同じであった。

 いくら見ようとしても、見ることができない。まるで、初めから存在していないかのように――


「――違う…………!」


「どうしたの? 瑞香みずかちゃん――」


 打ち勝ったのは目の前の虚実ではなく、よぎる現実の記憶だった。少女には似合わない声量が、不意に飛び出る。

 少女は思い出した。部屋に入った瞬間に見た謎の紅梅色の生物と、気を失う直前に聞いたキーラの声を。


「……目……覚まさなきゃ……!」


 今、間違い無く自分の身に危険が迫っている。そのことを本能的に理解した少女の視界は、次第に歪んでいく。

 本来望んでいた、これからの未来の景色。

 本来望んでいた、有り得たはずの過去の景色。

 それらを切り捨てて、少女は目覚めた――


「……ぅ……んん…………痛っ……!」


 ぼんやりと目覚めると、もたれながら床に座っていることに気づいた。同時に、後頭部に残っていた鈍痛が意識を確立させ、図らずして視界が広がる。


 ――その視界に飛び込んできたものに、少女の理解は追いつかなかった。


「……何……してるの……?」


 少女の目の前には、横たわって動かない紅梅色の生物と、キーラが立っていた。その腕に、布のようなもので包まれた小さな『何か』を抱えながら。


「あちゃー……また、うまくいかなかったなぁ……なくなよ、マー」


 キーラは、微動だにしない紅梅色の生物を見ながらそう言った。その言動が、少女の理解をまたもや超越する。


「……それが……お母さん……なの……?」


 人の形を成していない『それ』が、人であるキーラの母親であるなど、少女にとってはにわかに信じ難い話である。

 しかし、キーラの抱える布の中身が明かされた時、少女は怯えの言葉を出す余裕も無かった。

 キーラが抱えていたのは、――それも、半融解状態となってしまっているが、限りなく人間に近い形を模したものであった。


「――あっ! 目、さめちゃったのか!?」


 こちらを見て仰天するキーラは、自身の腕の中と少女を何度も交互に注視していた。

 隣の『母親』が動かない今、キーラを説得する機会は今しかないと踏み、キーラへ近づこうと体を傾ける。

 しかし少女の身体は前に出ることはなく、むしろその反動が少女の腹部を締め付けた。

 どうやら胴体が背後の丸太に括り付けられているらしい。


「――何っ……これ…………!」


 少女はすぐに解こうと試みるも、死角の結び目に手こずり、非力な腕を雑に動かすことしかできずにいた。

 すると、キーラはその胚を抱えたまま部屋を出て行ってしまった。


「――あっ、待って……!」


 後を追うことを、素材の不明な紐が許さない。

 それ程固くは結ばれていないがために、抵抗こそしなければ楽でいられる。

 しかし、キーラが離れ、少なからず危険が薄くなったとはいえ、その状況は少女の畏怖する対象が一つに集中するだけであり、少女が紐を解かない理由は無かった。


「……早く……解けて……!」


 思考と視界ばかりを何度も走らせるが、状況はまるで一転しない。それどころか、無理をして抜け出そうとすると、胸部及び腹部の圧迫が強まり、呼吸が困難になる。


「……はぁ……はぁ……」


 酸欠か焦りか、少女の呼吸は荒さを増す。

 それに対し少女の思考は、キーラがいればまだ話し合いの余地があったのかもしれない、と後悔する余裕ができている。

 自らのエネルギーを、自らに浪費するばかりの行動に嫌気が差したのか、少女の抵抗は徐々に激しさを失っていった。

 そんな少女の元に、吉と出るか凶と出るか、もう一度好機はやってきた。


「――あっ……お、お願い! ……話を……聞いて……!」


 どんな人間でも、自分が窮地に陥った時、どんな相手にだろうと縋ろうとしてしまう。

 たとえ、自分に危害を加えていた人間であろうと――


「……マー、おきろ。パーもきたんだ。のじかんだぞ……」


 また、少女は言葉を失った。今度は言葉だけでなく、思考さえ虚無にされるだけの衝撃が少女を襲った。

 幸いにもその時間は長く続かず、思考だけはすぐに取り戻すことができた。しかし、悲哀とも憤怒とも判断のつかない感情ばかりが脳を埋め尽くし、再度の思考停止まではそう長くなかった。

 ただ呆然とする少女の目の前で、蠢動を始める『母親』と、外見がほぼ同じ『父親』が、戻って来たキーラの背後から這い出てきた。


「あんしんしてくれ。なら、ちゃんとかぞくになれるからな。……だから、そのままくわれてくれ」


 立ち去るキーラは、切なげとも嬉しげとも取れる表情を最後に、その部屋をもう一度去っていった。

 「待って!」と言う少女の願いは、キーラに届かない。

 そう、少女は躊躇うことなく足を踏み入れてしまったのだ。


 ――その、へと。

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