大母身の里(おぼみのさと)

 岐阜県大野郡白川村萩町と言えば白川郷で有名な地区である。

 ユネスコに登録されて以降、新聞、雑誌、はたまたネットメディアでも特集が組まれ、とあるゲームから発展したマルチコンテンツの舞台でもあったことから、多方面から人気を集めるところだ。

 その白川郷から急峻な山道を車で登ること1時間ほど、猫の額とでも言えそうなほどの川沿いの平地、そこに大母身という白川郷によく似た集落がある。街道整備をしようとしたものの飛騨トンネルを超える地質と地盤の悪さでとん挫した地区であり、大雪が降れば今でも孤立する集落でもある。ちなみに急病人が出た時には航空自衛隊のヘリが昼夜問わず飛んできて近隣の病院まで搬送してくれるシステムが確立している。

 

 高山で小さな出版社に務める大川幹人がその集落を訪ねたのは、取材を終えて帰宅した実家の商店に来ていたカメラマンで同級生の所沢和樹の些細な一言だった。


「大母身という集落を知ってるか?」


「大母身?知らないなぁ」


 店前に設えてあるビールケースをひっくり返して作った椅子と、2つほど積み上げて机にしてコップ酒を煽りながら、他愛無い、そして下世話すぎる話をいつものようにしては観光客の白い目を無視してどぶろくを飲んでいると和樹がそう言ったのだ。


「おまえの出版社、地元新聞も兼ねてるよな?」


「呆れたように言うなよ、俺は総務だよ」


 地域密着型の出版社である「高山出版社」は明治期に創業して以降、地元と苦楽を共にしてきた企業だ。そこの社長とウチの親父が親友であった。東京の大学を出て首都で就職しようとしていると長男が企んでいることを、こっそりと進路相談していた母から聞いた父は良い企業から内定を貰い、意気揚々と報告がてらに帰省した息子に対して、卒後はそこで働くようにと勝手に取り決めてしまっていた。むろん、無理だと突っぱねて大喧嘩となったが、今は鬼籍に入ってしまった優しい曾祖母が長男が地域を離れて出てくことは許されないと、初めて烈火のごとく怒りを見せたので、結果的に素直にそれに従って務めることとなった居心地が良くて気がつけば卒業して8年が過ぎている。

 鞄からタブレットを取り出した和樹が地図アプリを開くとその集落のあたりを示してきた。


「凄い山奥だなぁ」


「ああ、でも、綺麗だし静かだぞ、まぁ、それは関係ないんだけどな。そこで雪女を見たんだよ」


「雪女ねぇ…酔ってたのか?」


「酔ってねぇよ」


 撮影の合間にはアルコールを欠かさない飲んだくれの一樹の発言を聞いて、ついに幻を見始めたのかと訝しんだが目はしっかりと輝いていた。まぁ、素面でないので心配ではある。


「これがその時の写真だ」


 タブレットに映し出された写真には、周囲を真っ白な雪に囲まれて、風によって巻き上げられたのだろうか、空に浮かぶ帽子と、風に靡く真っ白な髪が印象的な女性がいる。遠くから撮影されていて表情までは良く分からない。だが、困っているだろうということは予想ができた。


「綺麗だなぁ」


 率直な感想を漏らすと和樹はカップのどぶろくを飲み干して頷いた。


「声を掛けようとしたけどな、逃げられたよ」


「カメラ持った不審者に声を掛けられれば、そりゃあ逃げるよなぁ」


「お前ね、有名な写真家にそんなことを言うかね」


 確かに和樹の写真家としての腕前は確かだ。

 様々な賞を総なめにしてプロカメラマンとしての地位を確立している。ウチの出版社でも写真集を出してもらったし、数多く雑誌やテレビでも紹介されているが実際の中身はこんなもんである。

 そして妻子持ちだ。奥さんは有名な国民的女優の麹町みこだ。どうやって知り合い、どうやって関係を育んだのか分からないが、ある時、仕事帰りに店の前で嫁さんだ、と簡単に紹介された時には驚きのあまり鞄を落としてしまった。実物の麹町みこは、テレビで見る通りに綺麗で、そして、性格も良く、和樹に勿体無いくらいの、素敵な女性であったが1つだけ印象とは違った。

 

 蟒蛇であった。


 ちなみに和樹も同じであるから、所謂、酒豪の家となる。商店の売り上げの1割が所沢家注文の酒であることを考えると、恐ろしいほどの消費量だということが分かるだろう。


「でだ、お前に頼みたいんだけどさ、俺はその子の写真を撮りたいんだよ」


「マネージャーに頼めよ」


「やだよ」


 運転手兼マネージャーである神崎君が、我儘し放題であったプロカメラマンに扱き使われ過ぎ、優しい仏の笑みが憤怒の形相に変わったのが数日前のことだった。東京の自宅で妻の麹町さんと神崎君のこっ酷く叱られた和樹が拗ね、高山市内の我が家に逃げ込んできているのが今の現状である。

 何んともまぁ大人げないことこの上ない。


「まぁ、取材じゃないけど、行ってみろよ。このどぶろくみたいに素晴らしいところだったぜ」


「そうなのかぁ、じゃぁ、次の休みでも行ってみようかな」


 蟒蛇の酔っ払いの発言だが言葉は当てになる。

 和樹の感覚というのは意外なほど素晴らしいものがあり、長年の友達の言葉は充分なほど信用にたる。

 その後は下ネタのオンパレードを互いに店先で連呼しながら周囲の老人集と大人集を混ぜて宴会となった。それは最強を誇る高山婦人会支部の女性陣にこっ酷く駆逐されるまで続いた。


 翌週の休みに最近買ったばかりの大手自動車メーカー製の愛車であるリリスのハンドルを握り、高山インターから東海北陸自動車道へと入った。難所工事と有数の長さを誇ることで有名となった飛騨トンネルを通り過ぎ白川郷インターへと至った。

 数多くの観光バスの合間を抜けてインターを降りると、道路沿いは除雪されているが脇には雪の壁が出来上がっている、やはり雪深い地域なのだ。近年は温暖化で少なくなってきているとはいえ降るものは降るし、積もるものは積もるのだと実感する。

 富山方面に進む道の途中に『大母身』と書かれた道路標示版の青い看板がある、ナビも設定しているとはいえ周囲の景色もこれまた綺麗だった。

 木々から落ちる雪、川に積もり白と黒のコントラスト、針葉樹の緑葉と葉や枝に積もる雪を所々で写真に収めて味わいながら、除雪されたとはいえ掻き残りの固まった道を気を付けながら1時間ほど走っていくと急に景色が開けて両側を切り立った急峻な山に挟まれた集落へと出たのだった。


「観光バスは絶対無理な道だったな」


 小さな商店の駐車場に車を止めて缶珈琲を買い求めた。

 缶珈琲を飲みながら運転で疲れた体の凝りを解すように軽いストレッチをする。店主さんに駐車場は無いかと聞いてみたが、公民館以外には止める場所はなく、その公民館も葬儀のために使われているとのことで、店の駐車場を快く貸してくれた。白川郷のように観光地とはなっていないので、集落内は静かなものだ。

 雪の積もった白銀の田んぼ、融雪と雪捨てになってる清流のような澄んだ水が流れ行く用水路、こんもりと雪を湛えた合掌造りの建物、時が止まったかのような静かな空間がそこに広がっている。

 除雪されていない集落沿いの道を歩きながら風景を眺めていると、どこからともなく帽子が空を飛んでくる。普段ならそんな行動は取らないだろうが、旅先と初めて見るこの風景に感情が高ぶっていたのだろうか、その少し上を飛ぶ帽子に向かってジャンプをしてしまった。


「危ないです!」


 手に和らい感触の帽子を掴んだ直後、女性の危険を知らせる声が耳に聞こえる。直後、着地した途端に足を滑らせて、地面に全身を打ち付けた。全身に痛い感触が駆け抜けて動けなくなっていると、そのまま凍った地面を滑り、用水路へと大きな音を立てて落ちた。

 

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