桑の葉を食む音
鈴ノ木 鈴ノ子
ある夫婦(あるめおと)
小雨でも降っているのだろうか…。
皆が寝静まった母屋の自室で畳の上に敷いた布団に入っていた大川幹人は目を覚ました。
頭側にある障子戸からは綺麗な白銀の月明りが障子紙を透かして畳の上を真っ白に染めている。
この音はどこから来るのだろう。
布団から起き上がって念のために障子戸をそっと少しだけ開けてみるが、家の前にある雪の積もった田んぼは純白に染まっている。付近の道にも車の姿もなく、ただ、静まり返った夜があるだけだ。辛うじて聞こえてくる水音といえば田んぼの先にある水路を流れる水音が途切れ途切れに聞こえてくる。しかし、室内にはしとしと寂しい雨のような音が響いていた。
「なんだろう」
その脇にある白木でできたシンプルなデスクに置かれたスマートフォンを手に取り、天気予報のアプリを起動するが、付近一帯に雨などは降ってはいない。昨日の豪雪が嘘のように穏やかな月夜だ。椅子に掛けてある半纏を腕を通さず両肩に羽織ると古い引き戸を開けて廊下へと出た。磨き抜かれた板廊下から足裏へ寒さが深々と上がってくる。寒さを避けるべく足早に囲炉裏部屋と勝手に呼んでいる大広間の部屋の障子を開けて入り込んだ。真っ暗な室内の真ん中にチロチロと音を立てて残り炭がその身を赤く染めていた。
電気のスイッチを入れて明かりをつけ、いつもの定位置へと座った。手慣れたように脇に置かれている湯呑セットの湯呑に使い込まれた動物印の魔法瓶から就寝前に用意された湯を注ぐ、脇に置かれている茶玉と呼ばれるお気に入りのハーブティーのティーバックをそこに投げ込み、葉が解けるのを待つ間に囲炉裏へと火鉢を使って炭を足した。
パチリと爆ぜた炭がその身に宿した焔を新参者へと分け与えていくさまを見つめながら、淹れた茶のことも忘れてぼんやりと眺めていると続き部屋となっている引き戸が優しく開かれて明かりの消えた真っ暗な部屋から声が掛かった。
「幹人さん?」
透き通るような美しい声が私の名を呼ぶ。
「ごめん、起こしてしまったかな?」
「いえ、眠れなくて起きてました。幹人さんこそどうしたんです?」
何かを着込んだと思われる衣擦れと右足を擦る独特の音がして彼女が戸口に姿を見せた。
互いに視線が合うと思わず笑みが零れ、何とも言い表すことのできない暖かな気持ちと気恥ずかしさが心を満たしていく。
妻となって3日目の大川友子はいつも通りに足を擦りながら、室内杖を使って囲炉裏の近くまで来ると、ゆっくりと腰を下ろして、片足を伸ばしたまま両手を器用に使ってこちらへと近づいてくる。一切、手は貸さない。意地悪などではなく、助けを求められるまでは手を出さないというのが夫婦の取り決めであるからだ。
隣の定位置に腰を下ろした友子がふとその間にある湯呑セットに視線を落とした。
「お茶、忘れてませんか?」
傍まで来てきっと湯気の立っている湯呑に気がついたのだろう。そういって友子が湯呑からティーバックを取りだして脇の小鉢皿へと捨てると、優しく差し出してくれた。
「忘れてた、ありがとう」
「もう本当に忘れっぽい人ですね」
そう言って素敵な笑みを浮かべる友子に思わず見とれてしまう。
やがて見つめる視線に気がついたのだろうか、少し恥ずかしそうに視線をあちこちへと向けた後、こちらの唇へと自らの唇を重ねてくれた。
「はい、さ、お茶をきちんと飲んでくださいね」
「う、うん」
友子なりの茶目っ気なのだろう、そう言って笑ったのちその視線は囲炉裏で焔の煌めきを上げる炭火へと向けられた。
お茶を飲みながら再び友子の横顔を眺める。夫婦になって3日しか経ていないが、恋人とは違う妻へと存在が成ると改めて感慨深く慈しみ深い気持ちになってきた。
「小雨が降っているような音が聞こえてきてね、それで目が覚めてしまったんだ」
「小雨、ですか?」
「うん」
友子がそれを聞いて不思議そうな顔をしたのちに、何かに思い当たったのだろう、少し申し訳なさそうな表情を浮かべ視線を合わせた。
「えっと…、不思議な話になりますけどいいですか?」
「怖い話の類?」
「どうでしょう?受け取り方は人それぞれだと思いますけれど、でも、幹人さんなら受け入れてくださると思いますけど…」
「なら大丈夫だね、教えてくれる?」
「ふふ、いいですよ」
そう言ったのが嬉しかったのだろう、綻ばせて嬉しそうに笑った友子がその赤みの薄れた唇から言葉を紡いだ。
「このお家は江戸の初め頃に建てられたのはお伝えしましたよね、その頃から養蚕をしていたんです」
「養蚕?」
「ええ、お蚕さんのことです。分かります?」
「うん、友子のパジャマの生地だよね」
「そ、そうです」
こちらの視線が少し開いた胸元に堕ちたのに気がついた友子は、恥ずかしそうに右手で開いた胸元を隠してしまった。慌てて視線を合わせると抗議するように少し睨んでいる。
「ご、ごめん、話を進めて…」
誤魔化す様にそう言って謝ると友子が少し笑った。
「もう…仕方ない人ですね。話を戻しますけど、何回も養蚕をしていたせいでしょうか、この古いお家が記憶として覚えているようで、時よりお蚕さんの桑の葉を食む音が聞こえてくるんです、あ、少し借りていいですか?」
「ん?構わないよ」
スマートフォンを指さした友子にソレを差し出しす。受け取った友子は顔認証でロックを外すと操作をして、ふとその指先が止まった。しばらく何かを考えた後に指先が動いてやがて操作を終えたスマートフォンの画面がこちらへと向けられた。
「こんな音じゃなかったですか?」
群馬県の養蚕の紹介ページが開かれていて暫くすると動画が再生されるとやがて小雨の降るような音が聞こえてきた。それは先ほど目を覚ました音と同じであった。
「ああ、この音だよ」
「もし、聞こえてきたのなら、きっと家が認めてくれたんですよ。私も幼い頃に引っ越してきた時に聞いて曾祖母に伝えたらそう言ってくれましたから…」
「なるほど、そう言うことかぁ」
この家は友子の実家でもある。
入り婿、所謂、マスオさんとでも言えば良いのだろう。結婚前から出入りはあったし、それに家に慣れるか慣れないかで友子を育てている祖父母が心配をして同居を進めてきた。
伝統ある家、作りは古く昔ながら、若い者が住むにはと気を使ってくれたのだ。勧められた当の本人は鳥頭のため3日後には友子の指導が入るくらいまで堕落してしまったが、今はしっかりとしているはずである、とそう自負して思い込んでいる。
「まぁ、家に認めて貰えたなら良いことだね、長く暮らしていくだろうし」
「本当にいいんですか?高山でもいいんですよ?」
心配そうに友子がそう聞いてきた。
こちらの生まれは高山市でそこには観光客向けの商店を営む両親が住んでいる。確かにこの集落と高山市内では利便性は段違いだがソレを苦には思っていない。まぁ、町内会などの寄り合いやその他の御近所付き合いで多少のめんどくささと、市内の勤め先までの通勤に時間がかかる程度のことだ。
まぁ、雪かきだとか農業だとかはあるが、おいおい慣れていくだろうと考えている。
「いいよ、何度聞かれたってここがいいんだ」
「そう言って貰えると嬉しいですけど…」
「いいんだよ、友子が居てくれればそれでいい」
「もう、ばか…」
腕を回して友子を抱き寄せた。
友子の甘い香りと程よい柔らかさの手の感触が心地よい。
純白の髪がさらさらと流れて行くのを見ながら、寄りかかるその身の重さに心地よさと愛おしさに思わず手に力が籠った。
友子には先天性のちょっとした違いがある。
先天性部分性白皮症と言い、皮膚や髪の毛の一部の色素が薄れてしまう症状で、友子の場合は髪の毛が白く、右のおでこから瞼にかけてだ。
私はこれを病気と考えるには抵抗があるからちょっとした違いと言っている。もともと色素が薄く色白でも白い髪の毛と顔はどこに居ても目立ってしまう。集落では知らない者はいないのでいいが、都市部など人が多いところに行くとやはり奇異の目で見られてしまうこともあった。
些細なきっかけで私達は出会った。
でもそれが無ければ、私達はきっと出会うこともこうなることも無かったのだろうと思う。
こうも考えている。
性格や人格、そして心に違いがある様に、体に違いがあるだけのことなのだと。
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