第三十九話 日輪の栄光

『日輪の炎』、英雄アカハラ・ツムギの英雄譚は、まさに王道の言葉がふさわしい物語であった。


 かの者の冒険において語ることは多くない。いや、語るのであればそれは彼の物語を全て語る必要がある。それほどまで爽快で、痛烈で、かの騎士物語にも匹敵する冒険を彼は歩んで来た。


 街へ降りかかった災いの竜を打ち払ったことも、国々の争いの渦中で仲人となって食い止めたことも、伝説と呼ばれたスキルを会得してモンスターの霊峰を踏破したことも。

 努力、友情、勝利、どこかのコミックで読んだすべてをツムギは味わった。


 だが、だ。彼は仲間との死別も、救えなかった命も、果たせなかった悲願もない。傷の痛みや苦しみはポーションで癒え、苦労は全て勝利と賞賛で洗い流せた。

 そんな彼には果たして、己の弱さを晒し出せる人は、涙を見せられる相手は、かつて異世界において……あるいは、現世においても彼にいただろうか。


 ――答えは否。痛快なその英雄譚に、挫折はない。


『ステータスウィンドウ』にレベルが刻まれ、実績とスキルはいつでもトロフィー欄の中。それが無個性だった彼の欲求を満たし、後付けの正義感を装備させ、英雄たらしめた。


「そうか、オレは生まれるべき世界はここだったんだ。こここそオレの、理想郷アルカディアだ」


 太陽がごときその炎は異世界だからこそ燃えていられたのだ。

 力を得た。才能スキルを得た。栄誉を得た。誇りを得た。優しさを得た。器を得た。

 されどもそれは仮初。異世界が彼に見せた夢のような代物。


 だから彼は、『英雄アカハラ・ツムギ』は現世で焦燥した。

 自分とは比にならぬ才覚と器を兼ね備えた花弁の乙女に。自分では到達出来なかった力と英雄の性を持った灰燼の青年に。


 その英雄性は自分が異世界から引き継ぎ切れなかったものだったから……


「――――ここは、どこだ?」


 ゆえに、彼は人一倍脆い。心に灯っていたはずの過去の自分りそうが、いつしか己を焼き焦がしていた。

 薪はもう見えぬ空の下で、とっくに燃え尽きていたというのに。


「まさか、おい……冗談だろ? なァ」


 彼が異世界帰還を果たして初めて抱いた感情は、絶望だった。



 ※ ※ ※



「オレは、オレは、英雄だ……った。英雄だっただけ、今は、ただの凡人だ」


 その声は夏の夜風と共に虚しく響いた。

 抜け殻のようにただ屋上から街を眺めては、塀に寄りかかって溜め息を吐いた。寄りかかっていないと、立っていることにさえ彼は疲れて感じていた。


「たまたま、英雄になれたんだ。何の取り柄もなかったオレが、やっとなれたんだ。それなのに……」


 思考がいくら巡っても、失意は心から拭えない。ツムギの中で負の感情が排水路を見失う。


「いや、考えるだけ無駄なんだよな。悩んでも、後悔しても、もうこっちに居場所はねぇ。自分で、失くしたんだからな……」


 ツムギの捉えられる魔力の反応は、この一週間でぱったりと消えていた。唯一気を紛らわせた魔獣狩りも必要は無し。

 彼の中で燃える炎も燻り続け、今この瞬間にも消えようとしていた。


「死んだらまた、転生できるかな」


 何かを考えたわけじゃない。何の気なしに、ふと出てしまった言葉だった。

 その言葉が自分の口から出たものであるとツムギ自身が認識しかけた直前、彼の後頭部にポンと大きな掌が被せられる。


「前に言ったよな? ガキは図々しく俺を頼れって」


 ツムギが振り向くと、息を切らしながら険しい表情をした黒スーツがいた。火薬の香りが微かに漂っている。


「むじまさんっ……」


「無理しやがって。危ねぇだろうが、クソガキが」


 呆気に取られたツムギは目を見開いて固まっていた。咳き込み息を整える中で、ボソリと無島は呟いた。


「瘴気が溜まりかけてたが、なんとか間に合ったな」


 その手から肉体に使用された『空想回帰』は彼の中で淀んでいた瘴気を打ち消し、その魔力と精神に元の安定をもたらした。


 知らず知らずのうちに詰まっていた瘴気が消え、精神への悪影響が和らいだツムギの頭に冷静さが戻る。


「無島さん、オレさ……」


「立ちっぱなしじゃ落ち着かねぇだろ。好きな飲みもん買ってやるからそこ座ってろ」


 階段の踊り場にあった自販機で飲み物を買い、無島はそれを放り投げる。スチール缶は宙を舞って丁度良くツムギの手元に落ちた。


「ほら、コーヒーだ」


「ありがとうございま……ってこれ、一番甘いやつじゃないッスか」


「甘いだけ良いだろ。冴えねぇ時は糖分だ糖分」


 グイッとコーヒーを飲み干し、「あまっ」と驚くツムギを無島が笑う。


 口の中でミルクの匂いがほんのり残る間、星を見上げるだけの時間が二人に訪れた。夜風の涼しさに冷やされながら、ツムギは重たい口の封を開ける。


「無島さん、オレさ。どうしたら良いか分かんなくなっちまったよ」


「ダチへの謝り方か?」


「いや、もっと根本的な話だ。ずっと目を逸らしてきたことに気付いて、もうどうすりゃ良いか、考えても答えがないんだよ」


 友の前で口にできなかった想いが、無島の前でだけ言い出せた。


「優しい、勇敢、強ぇ……それがオレのアイデンティティだと思ってた。けど実際はどうってことない、運が良かっただけ。結果論なんだよ」


 それは懺悔に似ていた。


「異世界でさ、ちやほやされたンだよ。痛い思いとか怖い思いをちょっと耐えれば、褒めてもらえた。誰かから頼られて、尊敬されて、讃えられてよ。それが嬉しかった。張り合いだったんだぜ?」


 鼓動が速まる。涙が滲む。言葉を紡ぐ度に彼の胸は傷んだ。

 大粒の涙が瞳から零れ落ちて足元を濡らす。


「認めんのがすっごく怖かった。こんなに怖い思いしたことない。積み重ねて来た努力がさ、死んでそのままハイ没収、って。記憶だけは異世界帰還しても残ってたくせに」


 瘴気を孕むまで感情を抑え続けたツムギの声に、無島は何も言わすに耳を傾けた。


「オレ、褒められたから英雄になれたんだよ。それらしい性格になれたんだって。周りに馴染む努力もしないで、つまんないなって毎日過ごしてたオレは本当の英雄じゃねェ。してもらってただけだ」


 日輪と呼ばれた炎に薪はもうない。


「アスハやリリィみたいに、心の底から英雄になれない。ただ保身に走ってる卑しい出来損ない。オレは、偽物だ」


 しかし男は肯定した。


「そんなもんじゃねぇのか、人間なんて」


「……へ?」


「俺だってな、本当は進んでこんな帰還者打倒だの魔獣討伐だのやるタイプじゃねぇ。ただの義務感でやってるだけだ」


「なに、言って」


「だが心でどう思っていようと、ンなことは関係ねぇ。誤差なんだよ」


「誤差って、アンタ……」


「オレは顔も知らねぇ大勢のために命張ってる。それに優劣も貴賤もない。残るのは行動した結果だけ。『誰かのために動いた』っつー結果がな」


 ツムギに言葉を挟ませる隙を無島は与えない。捲し立てるように、もう目の前から逃がさないように、彼の目を真っ直ぐに見つめて言葉を尽くす。


「結果ってのは、勝敗で決まるもんじゃねぇ。過程は含まれないだとか、過程こそ大事だってよく言うが、俺からすれば行動の過程は結果にすべて反映される」


 それは無島の独壇場。消えかけた少年の心に薪をくべる荒療治。


「いくらクソみてぇな動機でやろうと、人の命救ったやつは全員が勇者。邪な気持ちで手を差し伸べても、その内心を生涯表に出さなきゃそれは善意だ」


 その熱意に、日輪の少年は圧倒された。

 胸の内で渦巻いていた感情の燃えカスが、目の前で語る男によって一掃される。


「ちやほやされたいだ? 誰かに褒められたいだ? 当たり前だ。当然の心理だ。人間ってのはそんな醜い承認欲求のために死ぬ気で良い事できる生き物だからな」


「当たり前だって? こんな、みっともない感情……そんな訳ないッスよ」


「英雄の性根が聖人である必要はねぇ。そしてお前の行動の結果が誰かのためになっている以上、お前は紛れもねぇ英雄だ」


「んな、こと……」


「だとすれば、お前だけだ。『赤原績』って自分のことを、英雄だと認識できてねぇやつは。そんなバカにはっきりわからせる必要がある」


 無島の手はツムギの肩を掴み、一際力強い声で言い放つ。


「お前は、自分より凄ぇと思ってるやつらに、お前だけの個性で追いつけば良い。力でも頭でも勝てないなら、技でも速度でも何でもいいから追いついてみせろ」


 無島の主張はツムギを掬い上げる。


「その時ようやく、お前は自分を許せるようになる」


 暗闇の出口を見つけたように、少年は安堵を覚えた。ツムギの涙の筋はもう渇いている。


「そのためにはどうすれば良いか、分かるな?」


「……オレが作っちまった壁を壊す。しっかりアイツらの背中見て追いつけるように、謝んなきゃいけねェ。帰らなきゃ……異世界帰宅部に」


「そうだ。なんだよ、しっかり考えられるじゃねぇか」


 無島は滅多に見せない笑顔を浮かべた。ひとしきり泣いた子供を慰めるように、手の温もりをツムギの頭へ移す。


「そう分かってもよ、やっぱり怖いんだ」


「それも当然の反応だ。だからすぐにとは言わねぇさ。しっかり勇気を持てた時にぶつかってこい。俺が見てる」


 方角は見え、胸の中も晴れた。だがそれでもツムギの腕は未だに震えていた。

 しかしその震えさえ無島は肯定するように、導きを授ける。


「一つ教えてやる。現世において、異世界帰還者のスキルが。だけどな」


 男はツムギの隣へ腰掛け、自分用に買っていたブラックコーヒーの蓋を開ける。


「俺とお前らは違う。もうおっさんになって枯れちまった俺と違って、こっちで青さが残ってるお前たちにはまだ、伸ばせるもんがまだ残ってんだよ」


「オレにも、まだ……?」


「その兆しを見つけた時、お前たちは成長できる。眠ってた力を、かつてのお前以上に引き出すことはな」


 ツムギは自分の手のひらを見つめた。

 そこには自分のヘアピンを変形させたナイフが一つ。無意識のうちに作り上げていた刃が月光を反射していた。


 ブレイドに映る自分の顔を拝み、ツムギはコーヒーの飲んでいる無島へ問う。


「無島さんはさ、オレとは違うのか?」


「なにもかもな。お前の方が、俺よりよっぽど立派な……」


「そうじゃなくて、過去の話だ」


「あ?」


「気になってたんだ。アンタにも、あるのか? アスハ達みたいな、辛い過去がさ」


「俺の過去に興味あんのか? まあ別にいいが、お前の参考になるかはわからねぇぞ」


「それでも!」


 ツムギに迫られ、頭を掻きながら渋々と無島は話し出す。


「――異世界転生したら魔族として生まれてた。んで、俺は家族や同族の連中殺された恨みで、人間殺し回ってたとこを人間に殺された」


「……え」


「まとめちまえば、そんだけだ。なーんの面白みもねぇ、クソみたいな復讐譚」


 無島は退屈そうな表情でその半生を語る。

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