第三十八話 聖職者 羽山詩連の夜明け
「おめでとう、アスハ君。退魔師の認定試験はこれにて終了だ」
弟子の大成を見届けた羽山は祝福を贈る。アスハは嬉しさと気恥ずかしさで顔を赤く染める。
「退魔師、って言われても実感が湧かないものですね」
「正確には、退魔執行代理人見習いと言ったところか。組織もない今、そんなものはどうでも良いがな」
「それでも嬉しいですよ。だって羽山さんから貰える称号ですから」
「世辞が上手いことだ。退魔師としての責務も、ろくな引継ぎもないが……アスハ君、キミは自分の信念と正義ため、この浸礼魔法を使いなさい。それが私からの最後の教えだ」
「……羽山、さん?」
アスハの心臓が握られるようにぎゅっと縮まる。いつもと変わらないはずの神父の言葉が嫌に重く感じたのだ。
――そんなの、まるで遺言みたいだ。
その言葉を飲み下す。今は何故だか、それが言霊となってしまう気がして。
だが羽山は誤魔化すように向きを変え、まだ地面に残留していた瘴気の発生元へ近づく。
「やれやれ、まだ瘴気が噴き出しているか。ならば、浄化の儀で鎮めるとしよう」
直立のまま地に手をかざし、羽山の神経は地下へ潜航する。浸礼魔法は光の根を張りながら地脈の奥深くまで接続される。
羽山詩連の持ちうる最大の浄化詠唱、浸礼魔法の神秘が解き放たれる。
「……人よ、歩みたまえ。足掻きたまえ。その醜態に美を見出したまえ」
表層の地脈に浸礼魔法が浸透し、力は地面を伝って街の彼方まで広がっていく。
「脆く矮小なあなた。銀貨を持って裏切りしあなた。その口づけを悔いることなかれ」
地脈の管を伝う浄罪の光は大地を循環する。
「罪は洗い流すことあたわず、業を逃れることかなわず、贖いを尽くすことならず。なればその血と肉を光に投げ入れよ。天の下に痴を晒し、屍さえ橋となりて只人を導かん」
純白の煌めきは夜を裂く。地上を走る極光が星の光を打ち消した。
「神あらざるあなたへ。魔ならざるあなたへ。その生を祖に代わって見届けよう――『
光の波動が心拍のように何度も空間へ放たれた。その夜に生まれた魔物も瘴気も飲み干して、星の大海へ輝きは帰っていく。
※ ※ ※
――私の心の鬼が去ったのは、天空決戦が終結したその瞬間だった。
床に転がる肉へ剣を差し込んだ時、ふと体から重みが消えた。緩んだ肺から深いため息が排出される。
「――これが、解放感か」
眼下で藻掻いていたものは人に似た傲慢な生き物――その世界の最高神であった。
『にん、げん風情が……神を、殺そうとは……』
四肢を切り落とし、臓腑を焼き、虫の息となった最高神の胸に私は跨っていた。神は驕った態度を改めることもせず、憤慨を露わにして血を吐く。呼吸音も乱れている。
人間のように苦悶する姿を見て存外、親近感さえ覚えた。所詮神は人間の紛い物という事実に。
『創成の神々を殺して、その子足る人間共が……がハッ、生きていけると、思うのか』
「子は親の背を見ていつかは巣立つ。貴様らが民に説いた教えの一つだろう」
命の断ち方は、人や魔物を殺す時と変わらない。首に立てた剣を手首で捻って、中の筋を断ち切るだけ。
『われは、世界の、すべてッ――――』
血を流すこともなく、神の遺体は光の塵として空へ消えていった。その絶命をもって人類は神の支配から永久に解放されたのである。
「暇につけ、
怒りや憎しみなんて地上に置いて来てしまったのだろうか。凪のように穏やかな安堵だけが胸に残っていた。
それまでの道のりで多くの友を失い、地上には戦火の傷跡を残してしまった。犠牲と割り切るには多すぎる痛みだ。そのはずなのに、清涼感に溢れていた心に戸惑いさえ覚えた。
同時に襲って来たのは疑念だ。神など殺さなければ、従属していれば、苦しみながらも彼らは生きながらえることが出来たかもしれない。
そう自問自答していた。だが……
「……これは、声?」
地上から多くの声が聞こえて来た。それは歓喜。神々を討ち取ったことを知った人々が上げた喜びの声だった。
黄金に光る雲の下から、オルゴールの音のようにそれは天空の神殿まで届いてきた。
「死んでいった彼らも、同じように笑っているだろうか」
私はかつて人々のその笑みを見てしまった。その歓声を聞いてしまった。その温かさを知ってしまった。
涙を流し、失った痛みを抱えながらも、また笑って立ち上がろうとする彼らの姿を、私はどうしようもなく美しいと思ってしまった。
「これが私達が手に入れたもの、か……」
人々が切望し、ついぞ手に入れたその光景を、未来を、私は間違いだなんて思いたくなかった。
そう思えた時に初めて、私はずっとこの異世界で、人間として日の下を駆けてきたことに気が付いた。刃としてではない、信念のために生きた闘争を。
「……ようやく日陰から出られたな」
人間に成った。そう実感できたのだ。
天空から拝んだその朝日は、私の魂に後生残る輝きを焼き付けた。朝が来る度に、その想いを懐古するために。
「……さて、戦争も終わったことだ、街の補修作業に取り掛かるか。もしくは医療従事者になるか? それか教師、いや――――神父の真似事でもしてみるか」
きっとあの瞬間から、私の人生は始まったのかもしれない。
神父もどきの、罪深い世話焼きな独善者の物語が。
※ ※ ※
最後の波動が押し出される頃には魔の気配は街から消え、星空はもう朝を迎えにきていた。教会の丘から臨める地平線の境界が次第に明るさを帯びていく。
「これで終わりましたね、羽山さん。残すあの獣は、決行日に――――ぇ」
彼方から日の光が到来し、夜が終わりを告げ始める。明るさを取り戻しながら、影はどこかへ失せていく。
その一連の光景をアスハは網膜に刻む。見ている間にも透けていく羽山の体越しに、滲むそれらの景色を。
「残念だが、私の指導はここまでだ」
「ぅ、そだ……そんな、こんなのって」
「どのみちあと数日の命だった。それが繰り上がっただけのことさ」
羽山詩連の存在が希釈する。服も肉体も光がすり抜けて、揺れる水面の虚像のように姿が解像度を失っていく。
命が尽きるという表現では収まらない。彼の魂そのものが、水泡のように消滅しつつあったのだ。魔力も、魂に内包された力も、留め具を外されたかの如く解けてゆく。
それが浸礼魔法でも『
「今回の戦闘と封印の『
「っ……」
「だからそんな顔をするな。これでいいのさ。この生に一切悔いはない」
今際の際でさえ死を恐れない羽山も、弟子の前ではいつもの調子を取り戻せずにいた。
顔を伏せたままアスハは哀哭した。それが逃れられない運命だとしても、受け入れ難い悲しみが青年を突き刺す。
幼子を慰めるように羽山は震える彼の頭に手を置き、そっと撫でる。その手の感触がやけに軽いことを感じてしまい、アスハの涙は更に溢れ出た。
「まったく、贅沢な生き方をさせてもらったものさ」
羽山は満たされていた。たった一人の教え子の成長を短いながら見届けられたことに、心から歓喜していた。
それでもアスハは行かないでと言うように、掴みづらくなった羽山の肩に手をやる。
「友達を助けるための弟子入りだったのに、救われたのはまた俺の方だ。なのに、何も返せないまま……」
「何かを貸したつもりはない。授業料であれば、今の君の姿で充分だ」
感覚の無くなってきた腕でアスハをさすって、羽山は弟子の鼓動を感じる。
「全く。救われたのはどっちなんだか……」
いつにない優しい声音で羽山は呟く。自分の希望となった青年の頭をへ、もう一度手を置いて。
「これを。君に託そう」
羽山は首元にかけていた十字架を、アスハの首にかけ渡す。残された最後の魔力をその基盤の中へと注いで。
「アルパージに最後の浸礼魔法をかけた。形見代わりだと思って使ってくれ」
十字架はまだ温かい。消えゆく羽山の体温が蝋燭の火のように、僅かに金属の中で残っていた。
「後生、大切に使わせていただきます。誰かのために」
真っ赤に腫らした目元を拭い、アスハは師へ誓う。祈りとともに未来を願うアスハはすっかり、その十字架が似合う男へ成長していた。
「神様なんて信じちゃいないが、もし会えたら文句の一つぐらい言ってやらないとな」
「なにをですか?」
羽山はまたいつも通りの様子で神へ異を唱える。
「愛弟子にこんな苦労をかけたヤツなんだ。
「……神様に説教する神父なんて聞いたことありませんよ」
「ハッハッハ、全くだ」
二人の別れを惜しむことなく、朝は訪れる。
日が昇る直前、師として羽山は最後の使命をアスハへ課す。その姿は硝子のように澄んでいて、今にも砕けてしまいそうなほど朧げだった。
「責務を全うしろ、凛藤明日葉……今度こそ、君が世界を救う時だ」
未来の方角を得た灰燼に火が灯される。かつて果たせなかったその願いのため、彼の正義が再点火した。
今にも消えかかる師の最後にアスハは腹の底から声を発した。
「……羽山さんッ!」
感謝、そして手向けの言葉を青年は告げる。
「―――――お疲れ様です。良い旅を、先生」
「先生、か。ハハッ。その肩書きが、一番しっくりくるかもな……」
――――夜明けの太陽が羽山の姿を飲み込む。
地平線から頭を出した太陽が教会の周囲へ一足早い朝日を届ける。
日の眩しさに目を逸らした刹那、アスハの目の前から一つの魂が旅立った。そこに穏やかな微笑みはもうない。あれほど大きかった背中が消え、世界に一人分の空白が生まれる。
しかしその体温だけはまだ残っている。彼が遺した十字架の奥と、後を託された青年の心の中に。羽山が足掻いた軌跡は、確かにそこにあり続けている。
涙越しにアスハが拝んだその朝日は、今までにないほど黄金色に輝いていた。
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