第二十七話 炎と灰の決裂

 手負いのツムギは病院から抜け出して尚、敵の巨狼の前に立ちはだかっていた。


「なんでか知んねぇけど、単独の巨大魔獣が増えたよなぁ」


 その意識は既に虚ろ。痛みを感じる感覚さえ投げ出して、戦闘の無駄となる感覚を削ぎ落とすが如く遮断する。


「それならこっちもやりやすいけど、なァァァァァァァ!」


 魔獣がアクションを起こすより前にツムギは駆け出した。張り上げた声に任せ、全身の肉を躍動させる。


「『最適化オートクチュール』改造変身――月下の獣ビースト


 スキルの施しで四肢は長細く変容し、黒豹の毛をその体に装着させる。瞬間的にギアの上がった移動速度は、巨狼の反応速度を上回って捉えさせない。


 だが傷をも無理な変形で閉じさせた、文字通りの肉体改造の負荷は、着実に体の芯へ蓄積されていった。


「経験値が出ない……のは前からか。そうだそうだ、こっちの世界にはステータス画面も見れないンだった」


 ツムギの身体は加速を続け、孤を残しながら巨狼の前足を駆け上がる。蹴りによる推進力で上がりながら、獣の脚を折るようにして破壊。瞬く間に魔物の頭部付近まで近づいた。


「称号獲得も、レベルも、スキル取得もない。こんなに不便だったっけ? 何ができるかも、わっかんねェや……」


 しかし眼前まで接近したところで、狼は頭を横に振った。スイングによって勢いを得たその頭部はツムギ目掛け横方向から振り抜かれ、彼は地面へ叩きつけられた。


 爆ぜるように何箇所からも出血。裂傷も深刻。だが彼の闘志は、日輪の如き熱はその程度で途絶えない。逆流する血を吐きながら、脳震盪が収まる間もなく彼は立ち上がる。


「いいさ、見れないだけで、きっと何かの称号ぐらいはゲットしてるはずだ。こんだけ頑張ったんだから」


 戦いの熱で薄れながらもその眼光は獲物だけに向く。まだ身につけていたヘアピンを剣へ変形させ、再び魔獣へ殺意を浴びせる。


「オレは、日輪。日輪のツムギなんだから――」


 刹那、蒼光が獣に落下した。その光の正体をツムギが悟る前に巨狼は潰れ、カーペットのような平たいただの赤染みに変わる。


「ツムギ!」


 赤の絨毯に平然と、息を荒げたアスハが立っていた。アスハは討ち取った魔物には一つの目もくれず、呆然と立ち尽くしたツムギに駆け寄ってその肩を掴んだ。


「無事か? 怪我は! 傷口は開いてないか?」


 獣だった染みはアスハの無造作な一撃によって跡形もなく消し滅ぼされる。魔力が飽和して虚空に溶けていく様を眺めながら、ツムギは夢から醒めてしまったような目を向けた。


「アス、ハ……」


 その瞳の色は、絶望に似ていた。


「あんな重症を負った後なのに病院から抜けて。これ以上は危険だ、身体がもたない」


「……ああ、良いんだ。こんなの大したことじゃないって。オレは大丈夫だから、負けても、怪我しても、立ち上がって、またさ――」


「キミがここまで無理をする必要ない。無島さん達も俺達もいるんだ、一人で立ち向かわないで良いんだ」


「……じゃあどうしろってんだよ」


 腹から沸き上がる圧迫感に打ち震えながら、日輪は悲痛な叫びを上げる。


「オレはどうやったら、また昔の自分に戻れるんだよッ!」


 飢えているような、求めているような、焼け焦げた感情が彼の内から爆発する。


「オレにとっての正義がなんだよ! 目の前にいる敵に、問題に、全部に、正面から立ち向かう。諦めねェで向かい続ける。それがオレって人間の生き方だ」


「そんな、無茶だ。あまりにも破滅的な生き方だよ」


「心配なんてしなくて良い! 今までがそうだった。こうやって生きて、成り上がってきた。お前は知らねぇと思うけど、オレはずっと――」


「ツムギ、これはただの無鉄砲だ。蛮勇だ。考えなしに立ち向かうだけなんて、死に急いでるだけじゃないか」


「違う、これしかやり方がないだけだ。選択肢がこれしかないんだよアスハ。オレが頑張って、耐えて、最後まで立ってればみんなが幸せなんだ。どんなに辛くても、最後にはきっと全員が笑って待っててくれるから……」


「落ち着いてくれツムギ。ここはもう異世界じゃないんだ」


 饒舌だったツムギの言葉がその一言で止まる。そしてまた、堪えるような小さな声が彼の口から零れ落ちた。


「……ああ、そうだよ。ここは異世界じゃない。お前らがいる」


「そうだ、キミには俺達が――」


「お前らって英雄がいる。オレより強ェ、器もある、別世界を生きて帰ってきた英雄が」


 アスハにはツムギの表情が、恐怖に怯えているものに感じた。

 その恐怖に似た顔は怪物を見ているような、それでいて憧れと落胆も感じさせるような切なさを帯びている。


「強さとか、偉さとか、別にそんなもんに固執してる訳じゃねぇ。それでも、死ぬほど異世界で頑張ったんだ。戦って、人助けて、その度に称号もスキルも貰って。けどその結果が、これだ」


 喉が裂けても、ツムギの言葉は止まらない。


「酷い話だろ? ある日いきなり飛ばされた異世界、いつ死ぬかも分かんないとこで、普通に生きるどころか褒め讃えられるだけの人生を送ってきた。それなのに、それなのに……!」


 それは訴えだ。糾弾だ。世界へ向けた怨念だ。吐きどころのない、ぶつける相手さえいない憎悪。


「こっちの世界に帰されて、はい全部なかったことになりました、なんて。あんまりだ、あんまりだろ。オレはそんなの、望んでなかったのに……」


 心の支えだったものを奪われた男の叫びは聞くに堪えないほど、悲哀に満ちていた。


「また頑張ろうとしても、お前たちをどうやっても超えられなくて、足引っ張ってばっか。あとはもう、命張って突き進むしか、オレはオレを取り戻せない」


「ツムギ。キミは英雄だったかもしれないけど、今でも英雄である必要はない」


「分かってる、必要となんかされてねェ。でも、オレ自身がそういう生き方しないと、二度と自分を認められないんだよ」


「ツムギ……」


「数えきれない人を救ってきた。人から褒められて尊敬されるようなことをしてきた。あの世界で全力で英雄として生きた。頑張った、頑張ったんだよ! バカで何も取り柄のなかった男が、きっかけもらってからずっと、ここまで……!」


 感情に任せた嘆きは止まる先を見失う。もう彼自身さえ、自分が何を話しているか分からなくなっていた。


「普通の人間になんて戻れない。戻りたくない。あんな窮屈な生き方、もう嫌だ……特別だった頃の自分に、戻りたい」


「ツムギ、キミは――」


「お前に分かるわけねェよアスハ! 栄光とか、名誉とか、一度でも手に入れたことなきゃこの気持ちは……あ」


 ここでようやく、ツムギは自分が何を言ったのかに気が付く。


 顔を上げた先に立つアスハの顔が一瞬、刺されたように歪んだところを彼は見逃さなかった。


「すまない。たしかに俺には、英雄だったキミの気持ちがわからない。ごめん……」


 過去にその栄光を掴んだツムギに、アスハが言えることはない。灰燼の心が、その二文字の称号を得ることを許さない。

 英雄になれなかった自分が、英雄に至った彼に掛けてやれる言葉などあるはずがない。その思いがアスハの口を閉ざさせる。


「……すまねぇ」


 それだけを言い残し、ツムギは合わせる顔もなくその場から立ち去る。

 アスハはそれ以上かけられる言葉を見つけられないまま、そこに残っていた。


 ツムギは己を酷く軽蔑しながら、友を傷つけた後悔に胸を締め付けられる。


「やっぱりオレは紛い物だ。アイツの方こそ、みんなのために戦った本当の英雄だってのに、オレは……」


 かつて英雄であった、今は英雄ならざる者。英雄であることを否定しながらも、英雄の在り方で生きる者。


 かつて日輪だった炎と燃え尽きた灰燼は、決定的なすれ違いと共に進む道を違える。

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