第二十三話 Pride of justice
灰燼と剣聖が雲海へ落ちていく。天には朝と夜と夕暮れが共存し、鯨の形をした光の粒子が泳いでは弾けて霧散する。アスハが放つ虹色の水流をグリフェルトは太刀で凌ぎ、跳ねのける。
「流体攻撃! 面白いが想定済みですね」
「これ高熱で粘度も高いはずなんだけどね!」
両者に一切の余裕はない。それでも二人は口を走らせた。油断ならない命の駆け引きが、全力で信念をぶつける闘争が、アスハとグリフェルトを昂らせる。
空中庭園を駆け抜けて、花畑の真ん中で無秩序と剣聖は互いに打ち合った。彼らの踏み込みで花は舞う。
二人は眼前の敵から目を逸らさないまま、石造りの橋や廃墟の壁を巡るように立ち回った。
「私が剣士だからといって、わざわざ近接戦闘で応じているつもりですか?」
「思考が追いついてないだけだよ。それに生半可な物質攻撃はお前と戦うにはノイズだ」
視界から外さないよう男を捉えながら、その服を掴んでアスハは天空に浮かぶ滝壺へ突入する。
地上へ落ちていく大瀑布の中、衝撃波を生む二人の周囲の水は弾けて霧散していく。
間合いに入られてしまってはアスハには大技を繰り出す隙も、自身や外に影響を与えないルールを付与する余裕もない。
ただ受ける、真正面から。砕けない拳、一挙手一投足で放出する衝撃波、捻りのない爆破。その程度のイメージしか今のアスハの脳では処理が追いつかない。
「対処できなくて厄介だね。キミの速度も落とせないとこなんか特に」
グリフェルトは戦いにおいて異界のスキルは用いないと言った。だがそれはあくまで攻防手段に限ったこと。
アスハが空間や世界に対して『
空間的、概念的なルールの付与は事実上封じられているのだ。
「こっちのセリフです。失血死が、決め手に入らないというのは中々に酷なものなんですよ?」
人の体は非常に脆い。一太刀入れば勝敗を決し、二太刀入ればおよそ絶命する。手首の動脈など断ってしまえば一時間もせず死に追いやれる。
だが無法な回復手段を持つアスハ相手では、グリフェルトは必殺の剣を放つしか道はない。
再生力と防御力を兼ね備えたアスハの無秩序たるスキル。剣士の極致へ到達したグリフェルトの剣筋。その相反する二つの要素だけが勝敗の行方を惑わせる。
「無法流――」
アスハが声も出せぬ間に、神速の剣は解放された。
「燕返し」
剣先が跳ねまわる。威力、速度を保ったまま、振り抜かれず四方八方から斬り返す。それが西洋の剣技であろうと、短刀を想定した技であっても、変則性を保持したまま幾千もの燕返しが襲い掛かった。
絶え間なく剣を走らせる剣聖は呼吸をしていない。剣を振る、そのためだけに肉体を制して攻撃を発している。
「加重力、断裂」
『
燕返しの間合いからは逃れたものの、恐ろしいことに剣聖はその空間からも自力で脱出する。
「参ったね、結構最強格の捕縛技なんだけど。それ」
「流石に今のは、私も異界の力がないと危なかったですよ。冗談ではなく」
空を飛び交う二人の下で朝焼けの草原を羊と犬とコカトリスと、何かの獣が駆けていた。
動物たちが走り回る様を見下ろすように、小高い丘の上に斬撃が降り注ぐ。
しかし剣がぶつかる音はなく、風切り音と彼らから生じた春風が周囲に広がるのみ。
「『
「パリイ」
アスハから放出されたのは線というにはあまりに太い、灼熱のレーザーだった。光線は剣士の間合いに侵入するが、たちまち捻じ曲がって受け流される。
しかしその全てを凌ぐことは適わず、グリフェルトの右半身は表層を焼かれる。
ここにきて致命的なダメージが剣聖の体に彫刻された。
「そっちも疲れて来たみたいだね」
「ハハッ、まだまだです!」
先程よりいくらか動きは鈍くなったが、彼の剣はまだ死んでいなかった。
その御業にアスハが追いつくことはできない。だが速度だけは迫ることができる。全ての理を振り払い、イメージ可能な最高速度でアスハは移動した。
「チェーンソーなら、いける気がする」
極限状態を超えたアスハの脳の速度が、剣聖の世界に最接近する。
グリフェルトを前に最短距離で超加速する中、アスハは再び大気の装甲を纏った。
空気はこれまでになく圧縮され、常に振動しながらアスハの体表を巡っていた。震えながら高速回転する風のチェーンソー、というイメージに最も近いアーマー。
考え得る限りの装備でアスハは刀の間合いへ飛び出す。
「と、ど、けぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
その剣を薄皮一枚で躱し、アスハは剣士の懐深くへ潜り込んだ。右拳に全霊を込め、男の鳩尾へ風の鋸刃を叩きこむ。
何千回もの振動と細かく切り刻む斬撃相手に、剣聖の防御はその意味を成さない。数秒間の衝突で彼の腹を抉った後、アスハは力任せに拳を投げ放つ。
景色は移り変わって、雨上がりの空がそこにあった。腹を血で染めた剣聖は泥だらけの地面に片膝をつく。
「ぐう、見事……ハァ、ハァ」
即死はしない。しかしこれ以上剣を振るえば死に至る傷を腹部に負っていた。
しかしその闘志は未だ折れず。
「……これが、最後の切り札です。正真正銘、私の全てを受け取って頂きます」
息もまともに吸えていないグリフェルトは長刀を上下に持ち返ると、そっとその首に当てた。
「お前っ!」
「私の覚悟を見せましょう」
首筋に当てた刃を、一思いに滑らせる。刀剣は一度、確実に彼の首を深くまで斬った。
「――『
切り口からは出血に代わり、辺りを白く覆う閃光が溢れだす。魔力とは異なる膨大なエネルギーはグリフェルトを包んで、その身を、魂を、一つ上の次元に連れて行った。
「なにをしたんだ、一体」
視力の戻ったアスハの前に、グリフェルトは刀を手にして佇んでいた。
腹の傷は完全に癒えていない。しかしそれ以上に彼の体を突き動かす外的な力が剣聖の内から湧いていた。身体の縁から、極光と見紛う碧の光が溢れている。
「一時的に身体へ全盛期の実力を取り戻す秘術『
「能力、まだ隠してたんじゃないか」
「これはスキルでも魔術でもありません。異世界帰還者、異世界転生を経験した者のみに与えられる切り札です」
「そんなもの初めて聞いたな」
「転生、転移が行われる際、人は絶大なエネルギーを得ることで世界を渡ります。それが私達へチートスキルや魔力、運命力を与える……という仮説があります。それはこちらの世界に帰還する際も例外ではありません」
「帰還に、エネルギーを?」
「たとえば、異世界で刻まれた呪いが解呪されていたり。負ったはずの傷が癒えていたり。貴方や貴方のご友人から聞いたことはありませんか? 当然すべてが当てはまるわけではありませんが」
グリフェルトの仮説には、アスハにも一つ心当たりがあった。心当たりどころではない、自分自身が体感したことだ。
それは彼は帰還直前、異世界を滅ぼした自責の念で精神が崩壊していた。だが帰還したこの世界では精神はある程度まで蘇生され、心的外傷に僅かな回復傾向が見られた。
世界を滅ぼし死を懇願したはずのアスハが今まで生きることに絶望しきっていなかったことが、奇しくもその根拠を強めていた。
「私が思うに、転生とは我々に必要な力を与えてくれるシステムなのでしょう。だから異世界でも同じ言語での会話を可能にし、同じ物質かも分からない大気を吸える。そう考えています」
「その力と仕組みを、自己強化に利用したってわけか」
「その通り。これは現世に魂を留めながら、転生時に匹敵する力を得る手段。正直な話、一か八かの賭けでしたが、成功したようで何よりです」
力は得た。しかしグリフェルト・ネビレウスの身にもうこれ以上の余力は残っていない。
次が最後の一太刀であることを予見しながらも、剣聖は不遜に笑う。
「タネも明かしたところで、今宵最後の死合いです。最後に改めて名乗らせて頂きましょう」
高く剣を振り上げ、構えて男はその名を口にする。
「紅き剣聖、グリフェルト・ネビレウス」
剣に生を捧げたその英雄へ、灰燼は敬意を払うように名乗り返す。
「――英雄未満の人でなし、凛藤明日葉」
「凛藤明日葉。その名をしかと、我が胸に刻み付けましょう」
「俺も、信念を貫いた剣聖がいたことを覚えておくよ」
「フフ……これ以上の言葉は無粋ですね」
両者の間に最大の静寂が訪れる。互いに構えたまま、その一撃に命を乗せんと全神経、全細胞を集中させる。
最中、アスハの小さな呟きが雨後の天下で流れていく。
「無限の可能性っていうのは、希望に溢れた言葉じゃない」
それは独白。敵と対峙する前に己を戒め、物語を進めるためのモノローグ。
「それでも俺は、その可能性の中から最善の夢を選ぶ」
灰燼として終わった無秩序な心に、また夢を見るための灯火が宿った。
「お休みなさい。グリフェルト・ネビレウス」
「――良き未来を。凛藤明日葉」
数秒後に待つ己の運命を悟りながらも、剣聖はその手から刀を離すことはなかった。
刀剣が振り下ろされる刹那、アスハの手元からまばゆい白光が放たれる。
「『
光はその男を、英雄を呑み込んで世界を埋め尽くした。最後に彼が得た力、魔力、その思いを、小さな指で糸を解くように少しづつ、包んで結び目を取り外していく。
灰の手はその心に馳せた野望の炎を鎮めて、穏やかな眠りを与える。
雨上がりの水溜まりは最後に、空に架かる虹が反射していた。
※
ダンジョンは倒壊し、偽りの空は本物の月夜へ塗り替えられる。夢幻の理想郷と心中するように、紅き剣聖の夢はエピローグを迎える。
「……必殺ではなかったのですね。人が悪い」
その空虚なエンドロールをグリフェルトは仰向けのまま、大の字に転がって見つめていた。ご怠慢ではあるものの、立ち上がる力は残されていない。
「はは、魔力操作どころか身体もまともに動かない。器用に半殺しにしましたね」
「魔力器官と神経を一部壊して戦闘不能にした。これならただ殺すよりも勝敗がはっきりするから」
「そっかぁ。それなら、仕方ないよなぁ」
剣聖は遊び疲れた子供のように声を零した。夢を破られたというのに、その表情は安らぎで満ちている。
すっかり気の抜けた話し方にアスハは一驚を喫する。
「少し驚いた。そっちが素か」
「好きな自分をずっと演じていたんだよ。この話し方も、燃える正義感も、あの女の子たちに慕われるために動いた事が始まりだったなぁ」
「あんた、もしかしてハーレム作ってたのか。高尚な目標ばっかりかと思ったら、意外と等身大の動機もあったんだな」
「……そうですね、モテたかった。そう、モテたかったんです。転生前は女子とロクに会話もできないほど口下手でしたから。慕われたくて、尊敬されたくて、剣聖を目指した」
まるでその目は未来を夢見た少年のもの。語る物語は一夏の冒険に目を輝かせた少年が持った夢。
「そんな低俗な理由から始まったのが、私の英雄譚だった……」
流れ落ちる涙を連れて、夏の夜の夢はその魔法を解く。
「そんな英雄譚の主人公が、どうして大量殺人なんかを目論んだ」
「英雄譚とは私の中でだけのことです。実際は大悪党も良いところ」
彼は外道ではあったが、下衆ではない。
「必要悪を望んだのですよ。根ざした悪人の衆を屠り、善良な民も貧しく荒んだ民も、等しく救った。あの頃はそれだけの力と、慕ってくれた人達があったからできたこと」
形容するのであれば、悪に染まり切れなかった暴君もどき。グリフェルト・ネビレウスが冠する悪役としての称号はそんな所だ。
「悪人が生まれるなら、私が最後で良いと。心から思ったんです」
――政を司り、厄災を退け、悪を根絶やし、民を愛した。瞼の裏にはきっと愛しき彼らの姿があっただろう。
異世界でグリフェルト・ネビレウスとして生きた男の人生は血に染まりながらも、平和へと向かっていた。ゆえにこの戦を忘れた国へ戻った時、安寧の世を自ら掻き乱す民に愛想を尽かしたのだ。
アスハを最初に突き動かした、あの男が放った結晶のように。
「やり方は間違えた。けどキミのやり方は、平和な世を望んだ心は、きっと不正解じゃないはずだ」
「同情などよろしい。己が破った正義に理解など示すな。あなたはあなたの正義を全うしなさい」
「そうだね、分かった。ならこれ以上の言葉は無粋かな」
言い終えるとアスハは腰を下ろし、脱力したグリフェルトを持ち上げる。
大の大人を軽々と抱え上げ、青年は当惑する彼を背負った。
「っ!? な、なにを」
「このまま無島さんに引き渡す。局は処刑なり色々されるかもしれないけど、ここでは殺さないよ」
「いや、よせ。ここで殺していけ。お前が、私を打ち倒した貴様が引導を渡せ!」
男は弱った体でジタバタともがくが、アスハの歩みは止まらない。
「前にキミと同じことを言ってた帰還者がいたんだ。その時も俺は、殺すことしかできなかった」
箱庭の民を愛し、結晶の如き硬い信念を宿していた、帰還者の彼。あの日彼を殺めたことを、アスハは今でも後悔していた。
だがその後悔があったからこそ、灰燼は剣聖の命をここで繋いだのだ。
「もしキミの指針が正義だとしたら、これも俺なりの正義だと思ってくれ」
「ここで殺しておかねば後悔するやもしれんぞ。逃げ延び、私が再び市民を襲うとは考えぬのか。更なる犠牲を生む愚行になるのだぞ!」
「キミほど愚直な人間がそんなことをするとは思えない。思いたくない」
脅し文句で真っ先に民を人質と思いついている時点で悪党は失格だ、とアスハは笑い飛ばした。どこかアスハも、肩の重さが僅かに和らいだようだった。
「キミの語った理想がたとえ詭弁だとしても、俺は別の正義として最後までその在り方を肯定したい」
アスハの背中越しに伝わる抵抗が途絶える。剣聖は気を失ったのか、静かな息遣いだけが青年の背後にあった。
「別々の戦場で正義を背負ってきたのが俺達、異世界帰宅部だから」
剣聖の耳にその言葉が届いたのかは定かではない。灰色の英雄はそれでも満足げに満天の夜空に微笑みかけた。
一つの英雄譚の終幕にしては、それはあまりに静かで儚げな星月夜であった。
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