第28話 最後の訪問地


 車に戻りながら、アルが時間を確認した。


「飛行機の搭乗時間までは、まだ時間がありますので、最後にルクソール神殿に寄ってから、空港に向かうことにしましょう」


 これ以上食べられないというように、丸みを帯びたお腹を突き出しながら、レストランの前で待ってもらっていた車に乗り込んだ。


「ここからは、すぐなので」


 アルが言うように、車に乗ったと思ったら、もう着いた。歩いたほうが早かったくらいだ。


「この神殿は、夕方になると西に沈む太陽の光を浴びて、すごく綺麗に映るんです。でも、それを見届けていたら飛行機に乗り遅れちゃいますので、残念ですが、その前に出発しましょう」


 神殿前に到着すると、アルが、たった今歩いてきた道を振り返り、

「すごいでしょ!」

 と遠くを指さした。


 カルナック・アメン大神殿から、今はスークになっている場所を挟んでこのルクソール神殿まで、一直線に伸びたスフィンクス参道でつながっている。全長は約3キロメートル。当時はこの参道を、神輿を担いだ人を中心に大勢の人が行列をなして歩いた。


 もう一度、振り返って、正面から神殿を見た。


 神殿の大部分は、主にアメンヘテプ三世とラメセス二世が建てたものである。塔門では、ラメセス二世の巨大な座像が出迎えてくれる。左側の壁には、エジプト史上最大とされるヒッタイトとの「カデシュの戦い」の様子が描かれている。ラメセス大王は、たった一人で200人の敵を倒したという、あの巨大なレリーフである。しかし、見方によっては、単なる自慢話と取れなくもない。


 第一塔門を抜けると、通称「ラメセス二世の中庭」と呼ばれる広場に出る。ここでは巨大なラメセス二世の勇ましい像が立っている。


「これをご覧ください」

 僕の右側を歩いていたアルが、そのまま右手で指差した。


「ツタンカーメンとアンケセナーメンと思われる座像なんですが、本当に仲睦まじくって、すごく可愛いでしょ?」

 アルが言うように、二人の可愛らしい姿があった。

「でも、残念なことにツタンカーメンの名前が削り取られてしまっているんですよ」

 ラメセス二世が自分の名前に書き換えさせたからだが、上書きした痕跡まで意図的に残させている。


(そこまで嫌味をやるか!)


 ラメセス二世は「大王」や「建築王」と呼ばれただけあって、アブ・シンベル神殿をはじめ、エジプト中に神殿の建立を精力的に行う一方、もともとあった像に刻まれていた名を自分の名前に書き替えさせてもいた。このような行為は、彼だけではないが、犬や猫のマーキングに似ていなくもない。


「これだけ偉大なファラオでも、やっぱり、『人の子』なんだね」

 僕がつぶやくと、アルが意外な顔つきをした。


「自己顕示欲とか承認欲求がめちゃくちゃ強かったのかなって思ってさ。じゃないと、ここまで『俺が、俺が』にはならないでしょ? それに彼は遅刻の常習犯だったんじゃないかな」


「遅刻・・・・・ですか」

 アルが理解できずに、その理由を知りたそうにしていたため、場違いとは思いつつ、簡単に説明することにした。


「遅刻をする人は、そもそも相手を軽く見ている証拠で、そうやって『自分のほうが上なんだぞ』と承認欲求を満たそうとするんだ」


 僕が話し始めると、アルの額に汗が浮き始めた。


「本人は、たった数分の遅れと思っていても、待たされる方は、数分なのか数十分なのか分からない。無断遅刻は一発レッドカードだけれども、理由があっても、それがウソの理由なら、イエローカードを出されてもおかしくないからね」


「ウソの遅刻って、あるんですか?」

 アルが恐る恐る訊いてきた。

「日本でよく使われるのは、『電車が遅れた』とか『乗る電車を間違えた』というものかな」


 今度は、アルの顔色が、気のせいか悪くなってきた。


「遅刻は、現実的に人の時間を奪っているわけだし、時間の問題だけじゃなくて、待たされるほうは、無意識に波動を乱されてしまうから、普段の言動とは違うことをしてしまう場合もあるんだ」


「そういうものなんですね・・・・・」

 アルの汗が止まらなくなってきた。

「どうしたの? どこか具合でも悪いの?」

「いえ、そんなことは・・・・・」

 すると、アルはハンカチで汗を拭きながら、言いづらそうに言った。

「だとしますと、エジプト人はみんな承認欲求が強い国民になってしまいます」

 蚊の鳴くような声で言い足した。

「それでアルちゃんは、冷や汗をかいていたんだ」

 僕は大笑いしてしまった。


 僕がカイロで再会した先輩は、あの日、イラン出張から戻ってきたところで「美味しいピスタチオを買ってきたよ」と、先輩の家でステラビールで乾杯させてもらった場面を思い出していた。


「その先輩によると、中東地域での記者会見場に、時間通りに姿を見せるのは先輩とドイツ人の女性記者の二人だけで、それ以外の国の記者たちは、みんな揃いも揃って遅刻してくるって言っていたから、アルちゃんが心配しなくても大丈夫だよ」


 僕がそう言うと、アルがはにかむように、ぎこちなく薄笑いを浮かべた。


「アルちゃんの大好きな志村けんさんは、遅刻をしなかったそうだよ。その理由は、『遅刻すると、すみませんから始まるだろ。一日がすみませんから始まりたくないからね』だったそうだよ」


「志村さんがですか! ほんとですか! じゃあ、僕も絶対に遅刻しません!」


 急に元気になったアルは、嬉々としてそう宣誓しながらも、僕と空港で初めて会った時から今の今まで、待ち合わせ時間に一度も遅れてきたことはなかった。


 アルが話題を変えた。

「ルクソール神殿は、ツタンカーメンが戴冠式を行った神殿でもあるんです」

「へえ、そうなんだ」

 普通に相槌を打ちながらも、おかしなことに気付いた。


「アルちゃん、今、なんて言った?」

「ですから、ツタンカーメンは、この神殿で戴冠式をやったそうなんですけど、それがどうかしましたか?」


 このとき僕の頭の中には「?」マークが急浮上していた。


 というのも、ツタンカーメンがアテン神からアメン神へ国家神を変えて、戴冠式をやったのはファラオに即位してから三年目の時だったはずだからだ。


「一神教であるアテン神から多神教のアメン神に戻したといっても、アテン神は多神教のひとつとして残ったので、アテン神が完全になくなったわけではないと思うけど、そう考えると、ここはアメン神の神殿だから、アテン神からアメン神に改宗する前に、ここで戴冠式を行うことは無理だったんじゃないのかな?」


 僕は、首をかしげた。

(つまり、時系列的に逆じゃないのかな・・・・・)

 そんなことを考えていたら、さらに妄想が膨らんだ。


 だとしたら、トゥトとアンクエスは、メンフィスを出る時に乗る予定の馬車が大幅に遅れたか、あるいはテーベ行きの馬車を、そもそも乗り間違えてしまったのか、そのいずれかの理由によって、戴冠式に三年間も遅刻をしてしまった可能性がある。


 そしてその後、カルトゥーシュが削り取られたり、彫像の一部を破壊されてしまったことを考えると、たぶん無断遅刻だったんじゃないかと。


「この神殿は、王家のカァのために建てられたものなんです」

 僕の妄想を知る由もないアルは、ガイドの続きをしてくれた。


「カァとは、生命力のことで、王家は代々、このカァを受け継いでいったんです。王の肉体が滅ぶと、カァはその王の身体を離れて、創造神の元にいったん戻されます。そして次の王へとカァは引き継がれていくのですが、そのロイヤル・カァの再生のために、アメン神がムト神とコンス神と年に一度ここで再会して、アメン神へ豊穣を捧げる一大イベント、『オペト祭』が盛大に執り行われていたんです」

「エジプト人もお祭りが好きだったんだね」

「お祭りは、アケト(ナイル川の氾濫季)と呼ばれる季節の第二月に行われていたのですが、オペト祭を復活させたのもツタンカーメンなんですよ」

 ついさっきまで冷や汗をかいて、ふやけたラーメンのようになっていたが、今や軽快なアルに戻っていた。


 この神殿は、それほど広くはない。急いで一番奥の至聖所を見学すると、そのまま神殿の外に出た。


「あれっ?」

 入るときにも違和感を覚えていたが、振り返ってみると、やっぱりそうだ。

「右側のオベリスクがないことについてですよね?」

 僕の質問を先回りしてアルが言った。


「その理由は、先ほど教えていただいた自己顕示欲と承認欲求を可能な限り使いまくったラメセス二世にとって、とんでもない不届き者がいたからなんです」

「誰それ?」

「初日に見学に行った、ムハンマド・アリ・モスクを作った、ムハンマド・アリです」

 アルはそう答えると、さらにその理由を話し始めた。


「ここは、もともとオスマン帝国という、今でいうトルコの属州だったのですが、1805年から1848年までの間、アリが提督を務めていて、アラビア半島から北東アフリカのスーダン、さらにはシリアまで勢力を拡大するなど、なかなかの武闘派で鳴らしていたそうなんです」


 アルは、いったん説明を終えると、僕に聞いた。

「彼の星はどうなんでしょうか?」

 僕がスマホで彼の誕生日を調べようとすると、

「1769年3月4日です」

 アルが速攻で僕に告げた。誕生日を検索する早業が日増しに上達している。


「なんて言ったらいいのかな・・・・・」

 僕は、スマホの画面を見て、少し考えてから切り出した。


「無邪気と言えば聞こえはいいけれど、どちらかというと、子供っぽいところもあったのかな。自意識が強いので、リーダー的気質を発揮すれば開運するけれども、反対に、幼い子供のような言動をしてしまうこともありそうだから、それに注意しないと、周りからは飽きられたり、嫌われたりすることもあったかもしれないね」

「だからなんですね。今のご説明で納得できました」


 今度は、アルが説明する番になった。


「この第一塔門には、本来であれば左右それぞれにオベリスクがあったのですが、フランスからアリ提督に、『これが欲しい』と打診があったんです。その時、アリは、『いいよ、別に。うち(エジプト)には、たくさんあるから、二、三本くらいなら持っていって』と、ダチョウ倶楽部さんのように〝どうぞどうぞ〟って、1836年に軽いノリであげちゃったんですよ。いくら自分がアルバニア人で、エジプト人じゃないからといって、どういうつもりだったんでしょうかね。ちょっと頭がおかしくないですか?」


 しかも当時のフランスとの話し合いでは、二本ともあげちゃう約束をしていたというから、なんともお粗末な提督である。しかし左側のオベリスクについては、その後、エジプトとフランスとの関係悪化により、あげることなく、そのまま残されることになった。じゃなければ、左側もなかったことになる。


 あげちゃった背景については、シャンポリオンも関わっていたらしい。しかし、それについては、なんとも言えない部分もある。


 シャンポリオンがヒエログリフの解読に成功した後、エジプトへ査察旅行に出かけた時のことだ。神殿の壁から美術品を引き剥がしたり、墓を荒らして遺物を盗んだりする略奪行為を目の当たりにした。


 そんな蛮行に業を煮やした彼は、アリ提督に破壊行為をやめさせるよう強く進言した。その結果、アリは、すぐに行動に移し、それ以降、出土品は守られたのである。


 そのお返しかどうかは分からないが、シャンポリオンは、母国フランス政府に対して、「あのアリという提督なんだけどさ、戦にはめっぽう強いし、理解力や行動力についてもリスペクトはできるけど、もしかしたら‶バカ殿様〟の気質もあるみたいだから、今のうちに、うまいことを言って、オベリスクをもらっちゃおうぜ。『ん? 大丈夫かって?』。心配ない。俺に任せておけ」

 と助言したかどうかは分からない。


 しかし、シャンポリオンはエジプトへの査察中、略奪者を批判しておきながら、自らもセティ一世の墓から強引にレリーフを引き剥がして持ち去ったことがあるなど、彼の言行不一致の言動に対しては、とても複雑な心境になってしまう。


 それはさておき、当時は、程度の差こそあれ、遺物の略奪行為は墓泥棒によるものだけではなく、政府の役人による組織的犯行もあった時代なのだ。


 いずれにしても、

「ラメセス二世としては、よっぽどムカついたんでしょうね。『俺に黙って、フランス野郎にあげちまうとは、何事だ!』とね」

 エジプト人であるアルは鼻息荒く言った。

「どういうこと?」

「ラメセス二世は、持ち出されてしまったオベリスクを自分の目で確かめたかったんだと思います。というのも、彼は一度だけ、フランスを公式訪問したことがあるんです」

「なるほど、そういうことね」

 僕は、彼の次の発言をにやにやしながら待った。

「とはいっても、それは彼のミイラなのですが」


(やっぱり)


 公式訪問とは、ラメセス二世のミイラが修復のために緊急入院しなければならなくなり、1976年9月にフランス空軍機に搭乗してフランスへ渡航したことである。


「そんなことがあったんだ」

「はい、でもフランスはフランスで、やっぱりおしゃれな国なんですね。ラメセス二世のミイラに対して、『国籍はエジプト』、『職業はファラオ』として正式にパスポートを発行したんですから。しかも、到着ロビーでは、儀仗兵が国王に対するものとまったく同じ敬礼をして出迎えたというんです」

 アルがめっちゃ楽しそうに語った。


「フランス野郎も、時として、なかなかカッケーことをやるじゃないか」

「ほんとですよ!」

 フランス嫌いであるはずのアルが、ものすごく嬉しそうにしていた。


 オベリスクをあげちゃった件については、ほかにもある。


 英ロンドンと米ニューヨークのセントラパークにも、「クレオパトラの針」という名でオベリスクが立っている。


 これらも、もともとはヘリオポリス(現在のカイロ近郊)に、それぞれ一対としてあったもので、現在パリ・コンコルド広場に立つ、あげちゃった「クレオパトラの針」と同様、トトメス三世が作らせたものである。


 この英米のオベリスクは、ローマ帝国時代に初代皇帝アウグストゥスによってヘリオポリスからアレキサンドリアに移送され、さらにその後、あの‶バカ殿様〟が英米にそれぞれ「あげちゃった」ものなのである。


 そのお返しとしてフランス政府からはエジプトに大時計が寄贈されたが、その大時計をもってしても、「本当は返して欲しいんだけど」と、その後において、いくらフランスに泣きついても、「あげちゃった」前まで時計の針を戻すことはできなかった。


 アルが急に何かを言いたそうにしていた。

「言いたいことがあったら、遠慮なく言って」

 すると、アルがにっこり微笑んだ。ギャグを言う直前の表情である。

「じゃあ、お言葉に甘えて」

 これ見よがしに咳払いをひとつすると、彼はこう言った。

「アリのことをイカリヤ長介さん流に言いますと、‶ダメだ、アリゃ〟」

 真夏のルクソールに冬将軍が到来した。


 しかし、その一方で僕は確信したことがあった。第16話でアルが言っていたことを急に思い出したからだ。


「アルちゃん、ごめん。電話帳の『マ行』の欄を見せてもらってもいいかな?」

「了解です」

 彼は、持っていたスマホを操作した。


(やっぱり!)


 そこには、「ほんとにバカなムハンマド」と登録されていた。




*****


ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。

次は、いよいよクライマックスです。

自分でも、まったく想像していなかった衝撃の結末です。

引き続き、よろしくお願いいたします。

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