第25話 ララララー!

 「着きましたよ」


 目を覚まし、声がしたほうを見ると、そこにあったのは美しいアンクエスの顔ではなく、浅黒く無精ひげを生やしたアルの顔だった。


 スークとは、主にアラブ地域で用いられる『市場』という意味の言葉である。


 ルクソールのスークは、ルクソール神殿の斜向かい前からカルナック神殿内のムト神の手前まで伸びていて、その距離は約1キロメートルにも及ぶ。


 観光客相手の土産物屋から、ナイル川で取れた魚や肉を扱う店、香ばしい香りが漂うパン屋、籠に入った色とりどりのスパイスやフルーツなどを扱う食料品店、服や生活雑貨店など、観光客から地元民の生活に至るまで、すべてがここで手に入る。


 どの店を覗いても、値札はない。すべては交渉次第で決まる。王家の谷などから出土した三千年前の副葬品を模倣した置物などが、ところ狭しに並ぶ土産物店では、観光客に何倍、何十倍の高値をふっかけてくる。


 だから観光客が値切りの末、半分にさせたとか、100エジプト・ポンドの品を30ポンドにまけさせたと言っても、原価を知ったらショックを受けてしまうかもしれない。


 それだけではない。時と場合によっては、新宿歌舞伎町の客引きが可愛く思えてしまうほど、しつこいのだ。


 僕にはアルという心強い味方が一緒にいてくれたお陰で、強引な客引きにつかまらずに済んだが、さすがは「世界三大うざい国」という不名誉なレッテルを貼られてしまう理由がよく分かる。


 スークの狭い道をさらに歩いて行き、土産物を店の前にさしかかったときだった。ヒジャブを被った恰幅のよい女性がラピスラズリの首飾りを手に持ちながら、

「これ、奥さん、プレゼント、いいね」

 と売る気満々に声をかけてきた。


 エジプト人が好む女性のスタイルは、ぽっちゃり系だという。しかし、率直に言わせてもらうと、僕は、ぽっちゃり系ではなく、ぼってり系だと思った。カルナック神殿を、「大きい」と言うのか、「巨大」と表現するのか、そのくらいの差があるということだ。


「首、ステキ、いいね、奥さん、これ、買うよ、あなたね」


 僕は、こういうところで何かを買う習慣がないので、

「奥様にというのなら、同じものを四つも買わなきゃいけないね。在庫はあるの?」

 と、その女性に逆質問した。


 すると、その女性の顔が、「フォー『四つ』?」と不思議そうな表情に変わった。


 日本人観光客は、海外ではカモにされやすい。そこで僕流の撃退法を編み出したというわけだ。


「それもミエログリフなんですか?」

 隣にいたアルが聞いた。

「これは、『見えろ』ではなく、そのまんま『ヒエログリフ』。でも、あの神聖なヒエログリフとは根本的に違う」

「と、おっしゃいますと?」

「つまり、このヒエログリフを日本語で書くと『冷えろグリフ』になる」

「・・・・・」


「冷えろグリフ」とは、相手の気持ちを一瞬にして冷やしてしまう開運術のことである。海外では、あまりにも多くの日本人観光客がぼったくりに遭っている。そんな状況下で、一人くらい得体の知れないアホな日本人がいてもいいだろうと思い、この方法を開発した。


 実際、このような返し方をすると、軒先販売員は、押し売りしようとしていた気持ちを一瞬にして崩してしまう。そうやって相手の売りたい気持ちを削いでいる間に通り過ぎてしまうというわけだ。


「うまいことを言いますね」

 アルにとっても、初めての経験だったらしい。


 というのも、僕はこの滞在中に、アルからウォーキング・セールス・パーソン(以下、WSP)の断り方を教えてもらっていたからだ。


 それは「ラー」というアラビア語で、英語に訳すと「ノー」という意味で、もしWSPが近寄ってきて何かを売りたそうにしていたら、真っ先に「ラー」というと、すぐにその場から立ち去っていくと教えられていた。


 それを今朝、実践してみたのである。


 僕は毎朝の習慣として、何もない日は近所を散歩する。出張や旅行先では、ホテルの近隣をぐるりと回ってみる。特に人が起き出す前の早朝の時間帯は実に清々しい。その日の活動に必要なバッテリーを急速チャージしてくれるような気がするからだ。


 宿泊中のホテルの目の前にはナイル川が流れ、川沿いにある遊歩道には所々にベンチが設置されている。そのベンチで休んでいると、くたくたのガラベーヤを着た一人のWSPが寄ってきた。


(来たぞ、来たぞ)


 心の準備はできていた。


「ボートに乗らんかね?」


(開口一番、そうくるとは、嬉しいね)


 僕は彼の言葉を受け入れているように見せかけて、川を見渡してみた。


 確かにボートはたくさん浮かんでいるが、早朝ということもあり、人影がない。それに大型のクルーズ船なら目の前にあるが、このWSPがクルーズ船の船長とは思えない。加えて言うならば、渡し船の船頭にも見えない。じゃあ、場外でチケットを売りさばくダフ屋かといえば、彼の手には何も握られていない。


 僕は、ひと通り観察を終えると、すかさず覚えたての、「ラー」と言ってみた。


 しかし、通じた様子はまったくない。試しにもう一度言ってみた。やっぱりダメだ。僕の発音が悪いのかもしれない。


 そこで、サンキューは、「シュクラン」だから、「No thank you」という意図を込めて「ラー・シュクラン」と言ってみた。すると、どうしたことであろう。彼が「分かった」というように、頷いてくれるではないか。


(やった、やったぞ。通じたぞ)


 しかし、心の中でガッツポーズをしたのも束の間。そのWSPは間髪入れず、

「ラクダに乗らんかね」

 と言ってきたのである。


(おいおい、勘弁してくれよ)


 目の前を流れるナイル川のどこにラクダが泳いでいるというんだ。僕の発音が悪かったわけでもなく、言い方を間違えたわけでもないことに、ここで初めて気付いた。


 こりゃ何を言ってもダメだ。「ラー」といえばWSPがすぐにその場から立ち去ると教えられたが、立ち去るのはWSPではなく、僕のほうだった。


 僕は、ベンチから急いで腰を上げ、ホテルに向かおうとした。すると手ぶらの彼が、今度は、

「靴磨きはいらんかね」


 呆れてモノが言えなかった。言葉よりも行動だ。僕は、『空飛ぶシルバーマン』さながら、飛ぶようにしてホテルに戻った。


「アルちゃんさ、申し訳ないけど、『ラー』は通じなかったよ。正確にいうと、言葉は伝わったと思うけど、意志が伝わらなかった」


「それにさ、彼以外にも何人ものWSPがいてさ。移動する自由も、こういう使い方があるとは、まったく知らなかったよ」

 と、軒先販売員をやり過ごしながら、そのときの場面を思い出していた。


 するとアルは、

「健康な肉体と健全な性欲を持つ男の人としまして、いろんな女性とご縁を結びたいのであれば、イスラム教に改宗するのはいかがでしょうか」

 冗談なのか本気なのか、そんなことを言ってきた。


「そうすれば、本当に四人まで奥様を持てますので」

「じゃあ、アルちゃんが改宗すればいいじゃん」

「僕は絶対にしません。キリスト教のままでいいです」

「なんで?」

「この間も、うちの奥様が突然イライラし始めて、そうなると、原因が私じゃなかったとしても、これ以上ないほど小さくなるしかないんです」

「そういうときって、どうするの?」

「奥様が平常心に戻るまで、じっと我慢して待つしかないんです」

「大変だね。エジプト人も」


 僕は思わず笑ってしまった。


「ついこの前、アテンドしたお客様とそういう話になったのですが、そのとき、お客様から『それって、オニ嫁と言うんだよ』と教えてもらったんです。そんな、オ、じゃなくて、お嫁様が家に四人もいたら、耐えられると思いますか?」

 アルのその話を聞いて、僕は即答した。

「絶対無理!」

「ですよね。生きた心地なんてしませんから。奥様は一人で十分です」

 僕は諸手を挙げて賛成した。


 しかし僕としては、日本全国の奥様方に、これだけは伝えておかなければならないことがある。『オニ嫁』という言葉は男性が作り出した表意文字で、女性が言い出したわけではない。


「アルちゃん、いい? そういうことだからね」

「はい」

 蚊の鳴くような声でアルが返事した。


「でも・・・・・」

 アルが何か言いたそうにしていた。


「どうしたの?」

 僕が水を差し向けると、アルは言いにくそうに切り出した。


「前にお話ししてくださったガラシャさんがいるじゃないですか」

「よく覚えていてくれたね」

「夫のタダオキさんは、ガラシャさんしか愛せなくて、ほかに女の人がいなかったと言いましたよね」

「いかにも。それがどうしたの?」


 するとアルは、こう言った。


「それはガラシャさんが鬼だったからという可能性はありませんか? というのも、屋根の修理をしていた職人さんが首を切られてしまったときに、ガラシャさんは『鬼の嫁は蛇くらいでちょうどいい』と言ったとおっしゃっていましたので、そうしたことからタダオキさんは、『奥様は一人で十分』だと思ったのかもしれないと」


「するどい指摘だね」

「ありがとうございます。でも、素直に喜んでいいのかどうか・・・・・」


「ただし、ひとつ訂正させてもらうよ。第8話で、彼女は夫に向かって、『鬼の嫁』とは言ったけど、自分のことを『鬼嫁』とは言っていないからね。『の』が入るか入らないかで、意味がまったく違ったものになるから気をつけてね」


「あ、そっか、そうでしたね」

 アルは、そう返事したものの、どこか上の空だった。


 それには構わず、僕は付け加えた。


「ガラシャは、素晴らしい女性だったけど、一方で、かなり気の強い女性だったという話も残っている。そんなガラシャがもし四人も家にいたとしたら、そりゃ忠興も、戦が終わるたびに『家に帰りたくないんだよ』と足軽に漏らしていたかもしれないからね」


「です・・・・・よね?」

 アルは、僕の話をよく聞いていなかったのか、曖昧な返事だった。


 そして何やら考え込んでいたかと思うと、

「あ、ちょっと待ってください」

 と、突然、声を上げた。


「ということは、アンケセナーメンさんも、鬼嫁だった可能性はないのでしょうか」

「アルちゃんは、意外としつこいんだね」

 僕は苦笑した。


「だって、ツタンカーメンも奥様はアンケセナーメンさんだけでしたでしょ。彼女も気が強い女性だったという説もありますので。そういうことから考えましても、アンケセナーメンさんも鬼嫁だった可能性があるんじゃないかと思いまして」


「アルちゃん、申し訳ないけど、今の僕の話を聞いていなかったの?」

「すみません。独りの世界に入っていました」

 アルがペコリと頭を下げた。

「しょうがないな」


 僕はもう一度、『鬼嫁』と『鬼の嫁』の根本的な違いについてアルに説明した。そして、きっぱりと『ラー』と言い渡した。


 その言葉でようやくアルが正気に戻り、時計を確認すると、空港への出発時間を逆算したようだ。


「そろそろお茶にでもしませんか。それとも、カイロ腹が大丈夫なようでしたら、レートランチでもいかがでしょうか?」


*****


ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。

以下は、今後の予定です(タイトルは変わる可能性があります)


第26話 希代の政治家が残したモノ

第27話 姫君たちの想い

第28話 最後の訪問地

第29話 衝撃の結末

最終話 ついに正体が判明


引き続き、よろしくお願いいたします。

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